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村上春樹の、質問に対する答え。

Q. 村上さんはマラソンにある創造性とは何だとお考えでしょうか? (20代・男性) A. 創造性はないよね。ただの反復だから(笑)。 でも音楽だって楽器の練習は反復じゃないですか。反復しなければ何もできない。 反復自体には創造性はないけれど、反復によって創造性の土壌ができるんだと思います。 (村上 春樹) ----------------------------------- 反復がないと、そもそも創造性そのものが生まれない、 という考え方。 何度も何度も繰り返していって、 自分の身体に染みこんでいった時に、 初めて、それ以上の、誰も見たことのない、 刺激的なものが姿を現す。 そのことを理解してると、 作品を見る時の、ものの見方が変わると思う。 美術にせよ、音楽にせよ、文学にせよ。

読みたい物語。

■ 物語を作るには最低3つのシーンが必要だ。 始まりとエピソードと終わりの3つ。 下手をすれば始まりと終わりのシーンさえあれば それらしい形になってしまう。 極端なことを言えば、すごく面白い始まりのシーンと、 すごく面白い終わりのシーンがあれば、 それなりに面白いものができてしまう。 これが物語を書く不思議でもあり、楽しいところでもある。 ■ しかしこれだと、とても短いものしか書けない。 そこで、始まりと終わりの間にエピソードを挟んでいく。 当然、エピソードの数を増やせば、物語は自ずと長くなっていく。 たとえば本1冊分の小説を書くとなると、 いったい、いくつのエピソードが必要になるだろう? ひとつのエピソードに2〜3ページを費やしたとすると、 90〜100くらいのエピソードが必要かもしれない。 ■ 小説を書く人であれば、 お風呂に入ってて突然 「ひらめいた!」 と小説のアイデアがひとつ浮かんできたなんて、 そんな経験があるかもしれない。 これはすごいとか、今後とも大事にあたためておきたいアイデアだとか、 自分の気に入ったアイデアに対する思い入れというのは、 往々にして強くなるものだ。 それを大切に、小説の形にしていく。 しかし、本当に面白くって内容のある小説には、 そういう「ひらめいた!」レベルのエピソードが、 つまり作者がずっと大事にあたためてきた、熱い思い入れのあるアイデアが、 何十も、何百もページの中に満ちている。 もちろん、そういう本はすごくすごくすごく、すごく珍しい。 ■ ぼく個人としては、 無理をしてまで珍しい本を書こうとする必要はないと思う。 というのも、それをしようとすると、 たいていはひとつかふたつのそれなりに良いアイデアに、 適当な始まりやいい加減な終わりがくっつけられて、 まるで生物実験から生まれたキメラみたいにいびつになるのが関の山だからだ。 自分の作品に対する愛も、思い入れも、そこには感じられない。 そんなものは読んでて楽しくない。 始まりと、エピソードと、終わりのシーン。 これだけで十分だ。 それが読みたい。 x

フォークナーのお気に入りカクテル。

ノーベル賞作家フォークナーは 「トディー」というカクテルがお気に入りだったらしい。 レシピは以下のとおり。     バーボン(ホワイトウイスキーでも可)・・・・・・・・・60ml     水(お湯でも可)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・120ml     レモンスライス1枚(あたたかいのを作る場合は半片)とレモン汁+皮付き     砂糖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1さじ ところで、フォークナーといえば『野生の棕櫚』、 と言ってもぜんぜん共感してもらえないんですが、 ぼくがフォークナーの中でもお気に入りのフレーズはこちら。 「雪明りの最後の光も消え、いまはなにかエイゼンシュタインがダンテを映画にしたような光景へ入っていった」 (フォークナー『野生の棕櫚』より) この「エイゼンシュタインがダンテを映画にしたような」って形容の仕方、 絶妙すぎませんか? すんません、それだけです。 Paris Review - Faulkner’s Cocktail of Choice http://www.theparisreview.org/blog/2013/10/23/faulkners-cocktail-of-choice/

本を読むスピードについて。

■ 「図書館女子」という言葉をご存知でしょうか。 中学・高校時代、クラスの中では静かでおとなしい感じで、 たいてい小柄で、黒髪で、メガネをかけてて、 毎日のように図書室や図書館へ行って、 自分の好きな作家の新刊をチェックし、 昼休みはもっぱら図書館のバーコードのついた単行本を開いている、 そういう類(たぐい)の女の子がひとりはいたと思うんです。 (これの男子バージョンを「図書館男子」とか「文学少年」なんて呼んでも構わないでしょう) とにかく「子どもの頃から本が好き」というタイプには、 こういう子が多いようにぼくは思うわけです。 実際、「図書館女子」に分類されるような女の子に萌える男もいると聞きます。 どうやら結構人気のジャンルのようです。 しかし、 ぼくは 「文学少年/図書館女子って可哀想だな」 と常々思っていて、 かつ、これまでその理由をうまく説明できずにいました。 そこへ来て、先日ふと浮かんだのが次のツイート。 文学少年/図書館女子の弱点って、手に入れた本は3日以内(遅くとも一週間以内)に読み終えなければならないという強迫観念に駆られてることだと思う。 個人的には、10年後、あるいは死ぬまでに読み終えたらいいやっていう感覚で楽しむ読書もなかなか乙なもんだと思うんだけどなぁ。 — にらた (@pr_nirata) October 30, 2013 そうなのだ、彼/彼女たちが不幸に見えるのは、 手に入れた本は3日以内(遅くとも一週間以内)に読み終えなければならない という強迫観念に駆られてるみたいだから、なのだ。 彼らにとって読書というのは、 一冊の本を、 最初から最後まで、どれくらいのスピードで読めるかという、 タイムアタックみたいになってしまってる。 けど、本当に読書ってそういうものなのでしょうか? 今日お話したいのはそのことについてです。 ■ 本というものがほかのメディアに異なる点は いろいろあるんだけど、 そのひとつとして「時間の伸縮性」というポイントがあると思います。 たとえば映画や音楽というのは、 見たり聞いたりしていれば、勝手に時間が進んでいく。 だから寝てたり聞き逃したりすると 「あれ? いつの間に終わってたの?」

ドイツの女性ブランド ベアーテ・ハイマン

今日知ったドイツの女性ブランド BEATE-HEYMANN STREETCOUTURE ( ベアーテ・ハイマン  ストリートクチュール) 異なる生地を組み合わせて 新鮮なデザインの生み出してるとのこと。 見てて面白いです。 金魚みたい。 こういうお菓子ありそう。 足細いなぁ~。 首もとのもこもこ感。 こういうグリーンってあまり見ないなぁ。 ベルトがカッコいい。 あと襟の形がセクシー。 ちょっと中央アジアの民族衣装っぽい。 急にこんな鮮烈な色が飛び出してきたら びっくりしちゃう。 すごいきれい。 画像が縦長なのは気のせいです。 参照: BEATE-HEYMANN STREETCOUTURE 公式サイト Heymann Moden ( http://www.beate-heymann.de/ )

〈飼いならされた感性〉を殺すために。

〈飼いならされた感性〉について。 〈飼いならされた〉という言葉は魅力的です。 この修飾語によって 「誰かにコントロールされている」 というニュアンスが出て、 〈自分が好きなもの〉だけを良しとする価値観に 一石を投じられるからです。 ただ、難点もあります。 すなわち、その背後に、 「野生バンザイ!」 という響きを感じてしまうことです。 「作られてない」「ありのまま」 「ナチュラル」「飾らない」 そういうCMのキャッチコピーから作られる、 「エセ自然主義」的な価値観に転化してしまう。 けど、それとは違う気がするんですね。 何が違うのか。 それは日常生活の中で育まれるものです。 つまり、生活によって「作られる」のです。 だから、少しでも日常から離れたと感じてしまうと、 その感性は、不安に駆られてしまう。 たとえば、 ツイッターでリプライを期待してツイートしたのに、 誰も反応してくれない、ふぁぼってもくれない。 そういうときに感じる孤独感は、 〈飼いならされた感性〉が満たされないからです。 そういう風に考えて下さったら結構です。 その他の事例については あとの文章の中で話します。 その事例を見ると一見、 ツイッターのこととはぜんぜん違うように見えるかもしれませんが、 根っこは同じだとぼくは考えています。 そして問題は、 この感性が創作にモロに影響すると、 すっごくつまらないものになっちゃうよね、ということ。 というか、 〈飼いならされた感性〉と〈創造性〉って、 正反対のものだよね、という話をしたいと思ってます。 ぼくは小説を書いたりするので、 そういう立場を前提にしてしまうのですが、 なるべく、他の立場の人にも通ずるような話し方を 以下、心掛けていきたい。がんばります。 形式について。 ぼくは作曲家の矢代秋雄が言ってたみたいに、 表現に先立って感覚を表現する 形式 というのが まずは存在していると考えてます。 というか、存在していてほしい。 でないと、この世から 美しいものを作り出す楽しみがなくなってしまう。 もちろん自然な美しさというものは確かに存在します。 何も手を加えてないのにきれいなもの、確かにあります。 穏やかな水平線、早朝の

アマンダ・パーマー「"お願い"をするということ」

以前、自分の考えをまとめるために、 「 今後の著作物のあり方について、自分なりに考えてみる 」 というエントリをごちゃごちゃ書いてみたけど、 こんなものを読んでもらうより、 もっと伝わる、感動的な内容のTEDのプレゼンを発見した。 アマンダ・パーマー 「"お願い"するということ」 レコード会社に頼らず、 自分だけで音楽活動をするために、 クラウド・ファンディングを通して、 なんと119万ドル(約1億円)もの資金を集めた スーパー・ウーマン、アマンダ・パーマー。 「どうやってお金を出させたんだい?」 と音楽関係者が尋ねると、 アマンダはこう答えた。 「 出させたんじゃない、お願いしたの 」 ( I didn’t make them, I asked them. ) そして、プレゼンの趣旨ももちろんなのだが、 彼女のファンとの交流も紹介されていて面白い。 襲われるのではないかという危険も顧みず、 ファンの家を泊まり歩いたり、 服を脱いで、体にらくがきさせたり、 とにかく過激で、素直で、まっすぐだ。 批判も多いらしいが、 こういう人間こそが今後活躍していってほしい。 音楽だけでなく、他の分野でも。

今後の著作物のあり方について、自分なりに考えてみる

■ 自分の作ったものは、 どこからどこまで自分のものなのか。 この前はツイッターで 「パクツイ」のことが話題になってたけど、 もちろんそれはホントにただの一例。 たとえば、 自分のオリジナルアイデアだと得意になって作ったものが、 実はすでに他の誰かが考え出してたものだった、とか。 たとえば、 誰かが描いたイラストが人気になって、 みんながコピペして自分のTwitterとか FacebookとかLINEのアイコンにして拡散していく、とか。 「これ誰が描いたんだろ」と思いながら、 その絵をトレースしたり、あるいはタッチを真似したりして、 pixivにアップする、とか。 こんな感じで、 コピペや、それに類する模倣行為というのは 大多数において何の悪意もなく行なわれてる。 もちろんパクって、その作者よりも多くの利益をせしめようとする 悪徳漢が存在しないとは言わない。 しかし、だいたいにおいて、 それは何の悪気もなく、「好きだから」という理由で 無許可に使用されていることが多いように思う。 ■ 一方、こういうあり方に、 めっちゃ怒ったり問題視してる人たちがいる。 「自分の頭から湧き出たもの=自分の作ったもの」 という考え方を明確に持った人たちだ。 そもそも著作権、知的財産権なんてのは、 こういう考えから生じてきたものなんだろう、おそらく。 誰かが考えて考えて考え抜いた末に生まれたものを 大切に保護し、その利益を守りたいという気持ち。 オリジナリティを尊重し、正当な利益に結びつけようとする意志。 現代の創作の現場においては、 このオリジナリティ擁護派が、 コピペ拡散派と対立するという様相を呈してる。 そのように、ぼくには見える。 まあ、もちろん創作に限った話ではないんだけど。 ■ けど、実際、 著作権は誰に帰属するのかという問題は、 今後どんどん特定が困難になっていくように思われる。 国民一人ひとりを番号で管理しようという動きが 徐々に始まろうとしてるけど、 日本だけがそんなことをしたところで、 この無限に拡散していく著作物の流れを止めることって、 本当にできるんだろうか? たとえ世界的な動きに発展したところで、 完璧に阻止することなどできるのか? 「カンペ

村上春樹のおもしろかった本、つまらなかった本。

Googleドキュメントの表をコピペしたら Bloggerでも表が作れると聞いて、 さっそく試してみたくなった。 けど、今のところ表を使って何か書かなきゃいけないものもないので、 戯れに、これまで読んできた村上春樹の本で、 自分がおもしろいと思ったものと つまらないと思ったものを仕分けて、 村上春樹の示してる分類ごとに比べてみようか。 おもしろかった つまらなかった 短篇小説 神の子どもたちはみな踊る 東京奇譚集 中編小説 アフターダーク 風の歌を聴け 長編小説 世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド 羊をめぐる冒険 長編小説 ねじまき鳥クロニクル 1Q84 エッセイ 走ることについて語るときに僕の語ること 意味がなければスイングはない。 ■ 短編部門は 『神の子どもたちはみな踊る』が面白かった。 「地震は私が起こしたんだ」とか 「かえるくんがミミズくんになっちゃった」とか、 印象的なシーンが多い。 ただし、表題作は他の短編に比べると微妙な印象。 『東京奇譚集』は、 ある程度、村上春樹というものに 慣れてきた頃に読んだものだった。 ははーん、村上春樹は今まで こういうものが書きたかったんだな と思いました。 けど、ほんとにそれだけでした。 どのエピソードも非常に物足りなく感じた。 ■ 中編部門は『アフターダーク』 ぼくは長い間、村上春樹が大嫌いだったんだけど、 この作品を読んで、評価を改めた。 文章はぎこちなく、下手くそだけど(わざとなのか?)、 ラブホテルという場所や 「カメラ」という視点をうまく使って 印象的なシーンをいくつも作り出してる。 一人称を三人称で語るってのは、 ちょっと小説を書いた人なら誰でも思いつくものだけど、 そのアイデアをここまで発展させたのには さすがに唸った。 『風の歌を聴け』は退屈でした。 本人も作家としての仕事は 『羊をめぐる冒険』からスタートって言ってますしね。 ■ 長編小説は 『 世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド 』 〈ハードボイルド・ワンダーランド〉だけだったら 文句なしに面白かった。 もちろん〈世界の終わり〉と対にして

トーマス・ニューマンの映画音楽

■ 中学生の頃に激しく感動した映画やマンガというのは、 大人になっても変わらず自分の「名作」であり続けるらしい。 ぼくにもそういう作品がいくつかある。 そのひとつが、 トム・ハンクス主演の映画『ロード・トゥ・パーディション』。 マフィアである父と子の絆を描いた (・・・と言うと超陳腐な感じですが)良作です。 初めて見たのは映画館。 暗闇の中、エンドクレジットを眺めながら涙し、 「これが映画を見る楽しみか・・・っ!」 とひとりで勝手に納得し、 それから狂ったようにビデオを借りたり 映画館に足を運んだり、深夜映画を録画したり、 いろんな手段を使っては映画を見まくる日々を送ることになった。 たぶん1日3本は欠かさず見てたと思う、2年ぐらいの間。 (ってことは単純計算で730本?意外と少ないな。。。) 要するに、ぼくが映画が好きになるきっかけが、 この『ロード・トゥ・パーディション』だったというわけだ。 この映画、どうしても贔屓目に見てしまうところはあるんだけど、 やっぱり役者もいいし、ストーリーもいいし、映像もいい。 ただ、何より惹きつけられるのは音楽の良さだ。 トーマス・ニューマンによる、しっとりとしたリリックな、 だけど西洋音楽の手法にきちんと則った安定感のあるサウンド。 特に素晴らしいのがエンドクレジットで流れるこの音楽。 ■ ちなみにトーマス・ニューマンは この他にも多くの作品の音楽を担当してます。 特にヒューマン・ドラマ系の作品には 心に残るフレーズを残してる。 たとえば: ショーシャンクの空に The Shawshank Redemption (1994) ジョー・ブラックをよろしく Meet Joe Black (1998) グリーンマイル The Green Mile (1999) ペイ・フォワード 可能の王国 Pay It Forward (2000) ロード・トゥ・パーディション Road to Perdition (2002) ファインディング・ニモ Finding Nemo (2003) ウォーリー WALL・E (2008) トーマス・ニューマンが音楽やってる映画を 片っ端から見て

現代における、理想的な創作スタイルとは。

■ 『食べて、祈って、恋をして』の作者。 エリザベス・ギルバートによるプレゼン。 お題は「創造性をはぐくむには」。 だけど、実際のところは 健康的に創作活動をするのに大事なことは何か 、 みたいなものとして見た、ぼくは。 ■ 「精神をやまないために」っていう考え方が革新的。 作家は一度ヒット作を生み出したりしてしまうと 次の作品では、前作を超えることができるだろうかみたいな、 そんな不安を抱いてしまう。 ぼくも2年ほど前、 『美学芸術学科にらた教授の講義録』を書いて このブログで発表したら、多くの人に読まれて、 続きを書く際には、第1講義と同じかそれ以上に面白いものを作れるだろうかと、 同様の不安を覚えた(結果としてプレッシャー負けして書けなかった)。 アマチュアでさえそうなのだから、 プロの場合なんか相当のものだろう。 想像するだにおそろしい。 彼女がプレゼンで提案するのは、 そういう 精神的なストレスに打ち勝つには どうすればいいか という実際的なアイデアだ。 ■ そのアイデアっていうのは要するに 人間には「意味不明な気まぐれ」ってのがあって、 そいつが自分をコントロールして 小説を書かせたり、音楽を作らせたり、絵画を描かせたりさせる、 そういうものなんだという考え方。 よくアーティストの人も 「降りてくる」 という表現で言いあらわしたりする。 人によっては若干「うさんくさい」という感じさえしてしまうかもしれない。 ■ しかし、古代ギリシャ・ローマだとそれは逆だ。 彼らは詩というものを 「ダイモン」(英語だとデーモン)によって書かされたものだと考えてた。 つまり、結果としてどんなにひどいものが出来ても、 それはダイモンが書いたものだから、 俺の責任じゃない 。 どんなに良いものが出来たとしても、 それはダイモンのおかげで書けたのだから、 俺には関係ない 。 そういう風に、 責任を転嫁すれば、肩の荷がおりる。 逆に言えばそうでもしないとやってられないくらい、 創作にかかるプレッシャーというのは重いということだ。 ■ ところで、このプレゼン、 ぼくは友人のにさだこ(@nisadako)といっしょに見てたんだけど、 その際、いろいろ面白いコメン

2013/5/19 映画とアニメとマンガ。

■ 最近、ホラーが平気になってきた。 ジャパニーズホラーは相変わらず苦手だが、 スプラッター系くらいならまだイケる感じにまで耐性がついてきたらしい。 で、調子に乗って、 YouTubeで『モータルコンバット』のFatality動画など、 グロ系で噂には聞いていたが、 今まで手が出せなかったものに挑戦してみることにした。 ■ ニコニコ動画に上がっていた『白鯨伝説』を見る。 メルヴィルの『白鯨』から着想を得て、 独自のSF世界と壮大なストーリーが展開される。 子どもの頃、とぎれとぎれに見ていたものだが、 いま見ても面白い。 胸が熱くなる展開。魅力的なキャラクターたち。 非常に素晴らしいアニメです。 ■ 『新ナニワ金融道』が無料で読めるというので、 ダウンロードして読み始めた。 反則級の面白さだ。 時間も忘れてどんどん読んでしまう。 読んでいると元気も出てくる。 最近読んだ中でもイチオシのマンガだ。 x

【翻訳】MARXISM【マルクス主義】

Musicology: The Key Concepts (Routledge) から。 MARXISM マルクス主義というのは主にカール・マルクスとその共著者フリードリヒ・エンゲルスの著作に関するものだが、こういった著作を解釈し確固としたものにしようとするのちの試みもまた含まれる。その関心と影響の中心的な領域は経済と政治だけれども、マルクス主義には社会的・哲学的な側面もある。マルクスが強調しようと試みたのは、資本主義を検証することによって社会の経済的な基礎と、はっきりと社会的・経済的に規定された階級に抵抗・挑戦する意志である。マルクスにとって、社会とは経済的な基礎によって規定されるものだった。このことは、下層階級プロレタリアートの抑圧と搾取に基づいた社会・政治の関係を決定した。しかしながら、マルクスはこの階級を潜在的な力とみなした。それは革命的な政治的文脈の中で開放されうる。1848年のヨーロッパ中で起こった革命的な大変動はこの時期のマルクスの著作に劇的な文脈をもたらした。その年、彼の『共産党宣言』はふたつの極がひたすら負かし合ってきたという歴史観を呈した。 これまで社会に存在した歴史というのはすべて階級闘争の歴史であります。自由人と奴隷、貴族と平民、君主と農奴、親方と徒弟、ひとことで言えば、抑圧する者とされる者はコンスタントに取っ替え引っ替えを繰り広げてきたのです。邪魔されずに、時に隠れ、時に公然と戦いを続けてきました。それぞれの時代を、革命による社会の大規模な再構築か、戦っている階級の共倒れかのどちらかで終わらせてきた戦いを。(マルクス=エンゲルス 1998, 34-35) この歴史観が現在におけるマルクス理解を決定づけた。それはまたヘーゲル哲学の意識や弁証法的思考のあり方にも影響を与えた。マルクスはこれらの抵抗と敵対をテーゼとアンチテーゼの瞬間として、衝突をもたらす対照的な極として見た。そして、ここから新しい革命的な瞬間が生じようとしていた。しかしながら、たいていの議論はこのような行動や出来事の不可避性の問題と密接に関係してきた。 マルクスの著作が社会との関係の中で文化を理解することと大きく関係しているにもかかわらず、彼は芸術と文化の位置づけに関して、充分に発展させた理論はおろか、特にはコメントさえ寄せなかった。しかしながら、マルクス

ジェイムズ・ディッキー『白の海へ』

■ コーエン兄弟の映画にはいつも驚嘆させられる。 『バーバー』のどぎついジョークの淡々とした描き方、 『ファーゴ』のグロいのになんか笑えてしまうブラックな面白さ、 『ノー・カントリー』のハビエル・バルデム演じる殺人鬼の気色悪いくらいの怪演、 『バーン・アフター・リーディング』の飛び抜けたバカっぷり・・・などなど。 とは言うものの、 デビュー作である『ブラッド・シンプル』はおろか、 アカデミー賞にノミネートされた『トゥルー・グリッド』でさえ、 まだ見られてないので、 コーエン兄弟のファンを自認できるような人間ではありません。 ただ、「 コーエン兄弟 」という名前がくっついてると、 「おお、コーエン兄弟かぁ。これは見てみないとなぁ」 となる程度には好きなのだ。 ■ そんなもんだから、 『 コーエン兄弟        × ブラッド・ピット 映画化決定、舞台は日本!! 』 なんて売り文句の本があったら、 読んでみたくなってしまうのも当然なわけです。 それが、ジェイムズ・ディッキー『白の海へ』。 ■ 1945年、東京大空襲のさなかに 不時着したアメリカ人兵士が、 父と暮らしたアラスカの大地を思い出しながら、 東京から北海道へとひたすらに北進していく。 その途上ではアサシン顔負けの武術を使って、 日本の一般人を次々とぶっ殺して 食料やら衣料やらを手に入れて、 北の国で暮らしていく準備を整えていく。 ただ、「暮らしていく」とは言っても、 彼が憧れている暮らしとは テレビ見ながら呑気に暮らすというのではなく、 「フィッシャーテン」のように毎日、 その日の食料を狩って生き抜く、いわばモンハンのような生活だ。 なので、ストーリーが進むとともに装備もかなり充実してくる。 白鳥の羽を詰めた上着、熊や山羊の毛皮、 いろんな用途に使えるナイフ、北の地に住む先住民から入手した槍・・・。 こうした要素を主人公が奪っていく過程は、 その暴力性とは裏腹に非常に静かに描かれる。 こんな表現は「詩人」みたいで嫌いだけど、 「雪が降り積もっていくように」ゆっくりと積み重なっていく。 着実に着実に、軍隊の規律というよりも、 合理的な「狩り」のための計画が遂行されていく。 ■ 作品のラスト付近にはこん

【翻訳】エリフ・シャファク『イスタンブールの私生児』

エリフ・シャファク『The Bastard of Istanbul』(直訳:イスタンブールの私生児) TEDで知ったトルコの作家エリフ・シャファク。 Amazonで探したけど、 残念ながら日本語訳はまだされてないらしい。 仕方ないので英語で出ているやつを、 Kindleで無料お試し版をダウンロード。 ついでなので冒頭の部分だけちょっと和訳。 このエントリがきっかけになって、 誰かちゃんと翻訳してくれんものかしら。。。 書き出しはひたすら雨について書いてます。 雨だけでこんなに個性的に書けるのかと 感心してしまいます。 むしろこの後、 どういう風に展開していくのか気になりますね。 ■ ONE シナモン  いかなるものが天上から降ってこようとも、神にそれを呪ってはならない。そこには雨も含まれる。  たとえどんなものが降り注いできたとしても、たとえどんなに重い重い豪雨であったとしても、あるいはどんなに冷たい雹(ひょう)であったとしても、天国が用意してくれているものに対してはいかなる冒瀆(ぼうとく)も決してなされてはならない。誰もが知っている。そこにはゼリハも含まれる。  だが、7月の1周目の金曜日に、彼女はそこにいた。絶望的なほど混み合った道路の横に面した歩道を歩いていた。騎兵のように汗をかきながら、崩れたアスファルトの石に向けて――自分のハイヒールに向けて――声を荒げたところで道路の渋滞がなくなりはしないというのが都市における真理だというのに、狂ったように警笛を鳴らしまくるありとあらゆる運転手に向けて――その昔コンスタンティノープルという街を手にし、その間違いのために行き詰まりを見せたオスマン帝国に向けて――そして、そう、雨に向けて・・・このサイテーな夏の雨に向けて――次から次へと小さな声で悪態をつきながら。  雨はここでは苦行だった。世の中の別の部分で見れば、土砂降りというのはほとんどの人・物にとって間違いなく恵みとしてやってくるものだろう――穀物にとって良い、その地の動植物にとって良い、そしてロマン主義的な・余計なオマケを付けておくならば、恋人たちにとっても良いのである。もっとも、イスタンブールでは別だ。私たちにとって雨とは、必ずしも濡れてしまうということではない。汚れるということですらない。強いて言え

オホゲツヒメノカミのこと。

「古事記に出てくる神で誰が一番好きー?」 「オホゲツヒメノカミ」 「誰それー?」 「鼻とか口とかケツから食べ物を出す神」 「え・・・」 「スサノオノミコトに汚すぎ!って殺されたんだって」 「ええ・・・」 「その死体の頭から蚕が、目から稲が、耳から粟が、鼻から小豆、アソコから麦、アナルから大豆が生まれたんだって」 「えええ・・・」

『光圀伝』が読み終わらない。

今日は二冊の本をカバンに忍ばせ、 街中をウロウロ。 ランス・アームストロングの自伝 『ただマイヨジョーヌのためでなく』 孔子をdisりまくる古代中国のパンクロック思想書 『荘子』 どっちもハードカバーなので、クソ重いです。 迂闊でした。 しかも、そんだけ頑張って本を持ち運んだのに、 結局タブレットを開いて、 『光圀伝』中巻を読み終えてしまう。 もはや紙の本はアクセサリーでしかないのかもしれません。 ■ 『光圀伝』は、確かに面白いし、 「物語の進め方を記した技法書」みたいにも読めて興味深いんだけど、 なんというか、作者の気合が入り過ぎてるからか、 長時間ぶっ続けで読んでられない。 これはぼくだけの問題なのかもしれないけど、 1日に読める量というのが決まってしまってるのだ。 いったんその量にまで達してしまうと、 どんなに続きが気になってても、 次の日になるまで読み進められないのだ。 魔力のゲージ回復を待つ感覚に近いかもしれない。 ゲージ回復が1日で終わらない時さえある。 そういう時は他の本を読む。 特にノンフィクションとか人文科学系の本なんかを読むと、 気分がリセットされることが多い。 そういう風にしてコンディションを整えながら、 牛歩どころではないスピードで読み進めるのが、 ぼくの『光圀伝』の読書の仕方だ。 いつ読み終わるのか検討もつかないが、 まあ年内には当ブログにて、 レビューが書けたらいいなと思ってます。

コントローラーという迷路

■ ぼくはPS2以来、 まともにゲーム機に触ってすらいない上に、 30分もプレイしないうちにゲームのスイッチを切ってしまう、 非常に根気のない「ヌルゲーマー」だ。 ゲームについて偉そうなことは何も言えない。 ただ、ゲーム内のルールに、 何かしらの「区切り」とか「制限」があることが、 そのゲームを面白くするのと同じように、 ゲーム外のインターフェイスにだって 「限界」があった方が面白いに決まってると、 かねてから考えている。 ぼくにとって、スマホとかタブレットの、 タッチスクリーンを使用したゲーム操作というのは、 うんざりさせるだけのものに過ぎない。 「自由さ」とか「入力情報の多さ」からやって来る、 あんなシビアな当たり判定なんか必要ないのだ。 ■ なるほどたしかに、 そうしたものをうまく利用したアプリゲームはある。 しかし、それにもかかわらず、 シビアな当たり判定が突きつけてくるのは、 「ヘタなお前が悪い」という現実だ。 ゲームはプレイヤーに成長を強要する。 違う、そうじゃない。 欲しいのは正しさであり、確かさであり、 コントローラーを持つ手元に対する信頼である。 ■ だからぼくはスマホのタッチスクリーンという、 あのどこまでもフラットなコントローラーに、 少なからぬ違和感を抱くのだ。 むしろ従来のゲーム機のコントローラーみたいに、 丸いボタンや十字キーでデコボコになった迷路を、 親指で彷徨ったり、もたれかかったり、 あるいは、したたか指をぶつけたりしたい。 そのようにしてぼくは、 身を任せたいのだ、デコボコの障害物に。 それによって自分の指の位置を知ることのできる、 正確さと頑迷さの象徴であるようなプラスチックの突起物に。 x

disの最新作『The Odyssey of Iska』について

この度クロアチアのゲーム開発会社dis(Dalmatia Interactive Studio)から、新作『The Odyssey of Iska』(以下OI)が発表された。 前回はビールの投げ合い戦争ゲームを公開して、地味ながらも多少注目されたらしい。この会社から出てる他のゲームに比べて、そこそこのダウンロード数だった。まあ、あくまで「そこそこ」だったけど。 今回プレイしてみて、いくつか思ったことがあったので、以下、そのことについてつらつらと書いていく。 スクショも載せようかと思ったが、面倒なのでやめた。申し訳ない。 ■スマホのゲームは好きじゃない さて、さっそく私事で申し訳ないけど、ぼくはスマホでゲームをするというのがあまり好きではない。理由はふたつある。 ひとつはタッチパネルの特性上、反応や判定の厳しいものが多くて、すぐ死んでしまうからだ。敵を一方的にボコボコにできないと、非常にストレスが溜まってすぐイヤになってしまうタイプの、ゲーマーの風上にも置けないぼくにとってこれは大きなウェイトを占める問題といえる。 もうひとつの理由は、細かな場面でセーブができないということ。だいたいスマホのゲームは、ひとつのステージをクリアする毎に自動的にセーブされるというものが多い(気がする。実際はどうか知らない) しかし、だ。ちょっと操作をミスって、 「あ、しまった」 と思った瞬間にはもう死んでしまったり詰んで先へ進めなくなったりして、また一からやり直し・・・というのを繰り返してると、もう、どうにもやる気がなくなってしまう。我ながらゲーマーの風上にも置けないとおもう。 以上のふたつの悪条件を満たすスマホゲームで代表格といえば「Angry Bird」だろう。指先ひとつで微妙な角度がつけられ、その精度如何によってゲームの進行そのものが左右される。そして、少しでも手元が狂えば、また最初からやり直し。いい感じに進んでいった途中で、セーブをしておくということさえできれば、その最高の状態から何度でもやり直すことができるのに、このゲームにそんな細やかさはない。もし自動セーブにするなら、 幼稚園児でもクリアできるくらい簡単にするべきだと、ぼくは思うわけである。(本気で言ってるわけじゃないですよ) ■ありきたりなゲームだけど、なんか変。 そんなぼくが、どういうわけか、『OI』に目を止め、ダウンロー

『各国の文芸誌の表紙に見る、日本における近代文学の〈形〉』みたいなタイトルのエッセイが書きたい。

■文芸同人誌の表紙 文芸同人誌の表紙のデザインというのは、 どれもこれもおそろしく似通ってる。 ↑こういう感じ。 ■文芸同人誌の表紙の源流 けど、そもそも、こういうデザインって、 誰が始めたんだ? と思って調べてみると、 文芸春秋 白樺 なるほど。 ここらへんっぽいな。 こういう「近代文学の黄金期」みたいなのを、 自分も追体験してみたい! っていう欲望というか、 そういう純朴なイデオロギーが、 同人文芸の表紙デザインには隠されてる気がする。 ■文芸誌の表紙の源流 けど、たぶんもしかしてひょっとすると、 この文芸誌の表紙デザインにも、 なんらかの元ネタがあるんじゃない? 調べましょう。 新フランス評論( La Nouvelle Revue Française ) ロシア思想( Русская мысль ) サザン・レヴュー( The Southern Review ) ふーん、なるほどなぁー。

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』感想

村上春樹の新刊で、 発売前からタイトルが長い!と話題になってました、 『 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 』 先ほど読み終えましたので、 さっそく感想を書いておきます。 あらすじを書くとネタバレ!と怒られそうなので、 読む気ないしどんな話なのか気になるという人は、 自分で調べて他のサイトを回って下さいな。 ■村上春樹が書きたかった小説? ひとことで申し上げますと、面白く読めました。 ぼくはハルキストでもなんでもないので、 すべての作品を読んだわけではありませんが、 正直、今まで読んだ村上春樹の中で、 いちばん読みやすい作品だったかもしれません。 『1Q84』では過剰すぎてワケが分からんことになってたエンタメ性と文学性が、 今作では、かなりきれいな形で調和してます。 (ちなみにここで言う「エンタメ性」はお芝居を見る時のような楽しみ、「文学性」は読者に対する心のケアという程度の意味だと思って下さい) 作中で音楽の話題が多かったので (なにせ『巡礼の年』ですからね!) 、 それになぞらえて言いますと、 ちょうど若い頃は音楽のルールを破りまくってたモーツァルトが、 晩年にバッハの古典的な形式を踏襲したような、 そういうところが村上春樹にもあるような気がします。 (別に村上春樹を「文学におけるモーツァルトやでえ!」とは思いませんが。。。) 村上春樹はおそらく「こういう小説」が書きたくて、 今まで頑張ってきたんだろうなという感じさえしました。 そういう意味で、ひとつの集大成なのかもしれません。 ■「猥褻」表現は相変わらず健在 まあ、この小説に対する非常に無難なコピーを考えると、 「面白くって、しかも心にジーンと沁みる小説」 ってことになると思います。 ただ、そこはやっぱりさすが「ハルキ・ムラカミ」というか、 一筋縄ではいきません。 たとえば、そう、 夢精 ですね。 あまり具体的に書くとネタバレ!って怒られそうなので、 ふわふわっと書きますが、 村上春樹ではもはや恒例となってます、 夢の中で女の子となんだかよく分からないままにセックスして、 起きたらパンツの中に射精してる

ウィキペディアで世界のベストセラー小説の一覧を見てみる。

■ ディケンズ『二都物語』 ⇒2億部で堂々の1位。 トールキン『指輪物語』 ⇒1億5000万部。 ダン・ブラウン『ダ・ビンチ・コード』 ⇒5000万部。 村上春樹『ノルウェイの森』 太宰治『人間失格』 ⇒1200万部で同着。 ■ ここから分かるのは、 1000万部売れる小説を書くだけでも、 「世界の○○」という名声を手に入れるには十分ということだ もちろんお気付きだとは思うが、 それはつまり、 「超絶イケメンになれば毎日違う女の子とデートできる」 という寝言と変わるところはない。 今日のエントリはこれが言いたいがために書いた。 参考: ベストセラー本の一覧 - Wikipedia  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

こころで会話する。

(´-`).。oO( ぼくはもう恥ずかしくて恥ずかしくて死にたい  なんかあったの? )Oo。.(゜-゜) (´-`).。oO( いやさ、突如として、ぼくに親切にしてくれる人に対して申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになってきてね ああ、そう )Oo。.(゜-゜) (´-`).。oO( つらい・・・ まあ、元気出しなよ )Oo。.(゜-゜) (´-`).。oO( そうは言ってもさ・・・ 楽しく生きなきゃ。君に親切にしてくれる人に申し訳が立たないよ  )Oo。.(゜-゜) (´-`).。oO( そうだね。まったくその通りだ 出た? 元気 )Oo。.(゜-゜) (´-`).。oO( うん。出た じゃあ、300円でいいよ )Oo。.(゜-゜) (´-`).。oO( キサマ・・・

トルコの女性作家、エリフ・シャファクのスピーチ。

Elif Şafak (1971 - ) TEDで『フィクションの利害関係 The Politics of Fiction』というスピーチをしていた トルコの小説家、エリフ・シャファク。 非常に興味深いスピーチです。

歯車と松の実、ピニョンの語源

ピニョン(pignon)という単語がある。 フランス語で「歯車」を意味する。 ただ、この言葉、なぜか「歯車」の他に 「松の実」という意味まで持ってる。 歯車はピニョン。 松の実もピニョン。 なんだこれと思って語源を調べた。 すぐ分かった。 ピニョンの語源は、 ラテン語のペンナ(penna)というところにあるらしい。 そしてペンナというのは英語の「フェザー」、 つまり「羽根」のことだ。 ・・・歯車とも松の実とも関係ないじゃないか。 と思ってさらに調べると、 このペンナ、「羽根」の他に、 羽根をむしる、身動きを取れなくする という意味もあることがわかった。 「ちょっと奥さん! あんたんとこのニワトリ、 ちゃんとペンナしとかないと飛んでっちゃうよ!」 「あらあらごめんなさい!今度から気を付けるわね!」 羽をむしって身動きを取れなくする というイメージは、 ギチギチと一定の動きをすることしか許されてない 歯車のイメージと重なるものがある。 ここからペンナ、ひいてはピニョンに 歯車という意味が付与されたのではないか。 同時に羽根をむしった鳥の姿って、 松の実の形と似てるんじゃないか? そういうところからピニョンというフランス語は 松の実という意味も手に入れたのではないか。 ちなみに、 ペンという言葉の語源も、 ラテン語のペンナから来てる。 だって、昔のヨーロッパのペンって羽根がついてるもんね。 さらにパスタのペンネ。 あれもペンの先みたいな形をしてるから、 そう呼ばれてる。 こういう風にあれこれ考えてみると、 ピニョンという言葉から、 歯車、松の実、ペンナ、ペン、ペンネという、 まったく関係のないように思われる語たちが 相互に関連付けられていく。 なかなか、面白くないですか?

縄文、天台本覚、「尽くし」、悪党、和儒、密教的神道、水戸学的、「カギリ」、飄窃、色悪、包装

日本の美について。 ■ われわれは日本の伝統文化というと、すぐに「もののあはれ」や「ワビ・サビ」だけを思いすぎる傾向がある。そのくせ「もののあはれ」と「ワビ・サビ」をちゃんと説明できる人なんて数えるほどしか見たことがない。 ・・・ たとえば縄文の感覚、天台本覚の感覚、「尽くし」の感覚、悪党の感覚、和儒の感覚、密教的神道感覚、水戸学的感覚、「カギリ」の感覚、飄窃の感覚、色悪の感覚、包装の感覚などは、いずれも日本の伝統文化や伝統思想のどこかに深く結びついている。ところが、これらが引っ張り出せない。ついつい日本の美学は「秋草」だと思いすぎている。 804夜『伝統の創造力』辻井喬|松岡正剛の千夜千冊 http://1000ya.isis.ne.jp/0804.html ■ マジかよ。

哀歌

お分かりいただけるだろうか。 高校時代からの付き合いだった奴に、 別れを告げなければならない悲しさ。 当時、定価68000円だったところを、 半額以下で購入したミニコンポ。 いまやCDを入れても 「NO DISC」と表示するばかりで、 何も認識しようとしないミニコンポ。 部屋に届いた時の、 あの8年前の興奮は消え失せ、 もはや興醒めすら引き起こさない。 ああ、エレジイ、エレジイ。 5年間の保証書もただの紙。 SONYのポータブルプレーヤーと、 Time Domainのスピーカーを買おうかしらと、 心はすでに次のことを考え浮き立ってる。 さよなら、エレジイ。