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「アラベスク」九鬼周造

オシリス、アビス、牛の神 鰐の齒、蛇の目、獅子の髪 輪廻轉生とはの浪 天動要義、幾何原理 生軆解剖、血は淋漓 木乃伊(みいら)は朽ちず禁苑裏 ツウタンカモン、金字塔 パピルス繪巻、獅子像 名器珍賓無盡藏 黒絽のかつぎ、頬冠(ほほかむり) 耳輪の飾、惚れ薬(ぐすり) クレオパトラは色を賣り 日月、星辰、棗椰子(なつめやし) 紅海、砂漠、ニルの葦(あし) 昔も今も變り無し

リュック・フェラーリ紹介

 「現代音楽」という音楽ジャンルは、(ほかのジャンルと同じように)常に伝統的な枠組みから抜け出そうとする強固な意志によって形成されてきた。とりわけ「現代音楽」にはキーパーソンが存在したから分かりやすい。ジョン・ケージ(1912‐1992)だ。  「音楽」そのものを問い直した彼のスタンスは、当時の西洋世界においてかなりショッキングなものであった。というのも、日本ではなかなかイメージしにくいが、西洋では伝統的に「楽器」から発せられた音響によって音楽は構成されると考えられていたからだ。木々のざわめきや川のせせらぎ、虫の声などは単なる雑音(楽器以外の音)に過ぎず、とうてい音楽となり得るようなものではなかった。  そうした「伝統的な耳」に厳しく沈黙という音楽のあり方を突きつけたのが、「4分33秒」だった。 John Cage: 4'33"  ケージの考えによれば音楽はふたつの音によって成っているという。ひとつは意図的に発せられる音(楽器の音など)、そしてもうひとつは意図的でない音(楽器以外の音)。そして、この「4分33秒」という作品においては、沈黙、つまり「意図的な音がない」という状態に聴衆の耳を傾けさせることに意義があった。一般的にはひとつのジョークとして受け取られている節がないでもないが、「音」という対象の幅を拡大したケージの功績は大きいと言わざるを得ない。 *  このようにケージがアメリカで楽器の音の鳴らない音楽を発表したのとほぼ時を同じくして、ヨーロッパでも似たような動きがあった。フランスにおいてピエール・シェフェール(1910‐1995)とピエール・アンリ(1927‐)が結成した「ミュージック・コンクレート(具体音楽)」だ。「具体」という言葉を使うのは、楽器の音に比べて、たとえば電車の音や人の話し声が、何か具体的なイメージを想起するから。彼らはその頃出始めたばかりの録音機材で様々な音を録音し、それらをつなぎあわせて作品にする、ということをしたわけだ。  しかしながらこの具体音をつなぎあわせて作る音楽は、できあがりを聴いてみると当時の技術的な問題もあるのかもしれないが、どこかチグハグで、秀逸なMAD動画などを見慣れている現代の感覚からすると多少残念な心持ちがしてくるものだ。  また、確かに当時の耳からすると音響的

海外小説の訳文についてちょこっと。

最近になって海外の小説をよく読むようになりました。 けど、なんでもかんでも楽しく読めてるわけではなくて、 いやむしろほとんどが読みにくくて、途中でやめてしまいます。 とくに、翻訳している人の文章が気に入らなくてやめてしまう、 ということが多いような気がします。 なかでも、ぼくは柴田元幸の訳文がかなり苦手のようで、 いままで彼の訳した小説を最後まで読みきれたことがありません。 どんなに、「うわ、これ、面白そう!」と思っても、 数ページ読んで、すぐに「うわぁ・・・」となって、 訳者を確認したら、柴田元幸だった、ということがよくあります。 (とくにこの人は翻訳してる作品が多いから・・・) いや、もちろん、柴田元幸の悪口が書きたいわけじゃないんです。 なぜ柴田元幸の訳文を読みにくいと感じてしまうのか、 ということを、前からずっと考えていたんです。 そんな折、『すばる』2015年5月号に載っていた 水村美苗と鴻巣友季子の対談を読んで、 ある箇所に、ピーンときた。 水村  鴻巣さんは片岡義男さんとの対談集『翻訳問答』の中で、翻訳のtransparecy(透明性)についてお話なさっていましたが、あれはすごく面白かった。欧米における「透明な翻訳」とは、もともと自国語で書かれたような訳文を指す。それに対し、日本では、逆に 原文が透けて見えてこれは翻訳だとわかるような訳文 のことを指す、ということですね。これは、やはり、中心的な文化と周縁的な文化との違いもあるでしょう。その非対称的な関係が、翻訳にもそのまま現れる。周縁的な日本では、翻訳があって当然で、翻訳の文章は、普段使っている「日本語」とは違って構わないという大前提がありますよね。 鴻巣  だから、あえて引っかかりのある異化翻訳もできます。それが日本での「透明な翻訳」です。 水村   「外国」というものに触れているという印象があったほうがいい ということですね。香水の匂いがするのであって、伽羅ではないのだ、という。「天国」などという言葉は、翻訳を通じて、今や日本語の一部となったように見えますが、それでもやはり異国情緒が残りますよね。 「翻訳の透明性」というとわかりにくい方もおられるかもしれませんが、 たとえば洋画を見るときに、 洋画見るなら、やっぱ字幕スーパーでしょ! っ