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「図書館女子」という言葉をご存知でしょうか。
「図書館女子」という言葉をご存知でしょうか。
中学・高校時代、クラスの中では静かでおとなしい感じで、
たいてい小柄で、黒髪で、メガネをかけてて、
毎日のように図書室や図書館へ行って、
自分の好きな作家の新刊をチェックし、
昼休みはもっぱら図書館のバーコードのついた単行本を開いている、
そういう類(たぐい)の女の子がひとりはいたと思うんです。
(これの男子バージョンを「図書館男子」とか「文学少年」なんて呼んでも構わないでしょう)
とにかく「子どもの頃から本が好き」というタイプには、
こういう子が多いようにぼくは思うわけです。
実際、「図書館女子」に分類されるような女の子に萌える男もいると聞きます。
どうやら結構人気のジャンルのようです。
しかし、ぼくは
「文学少年/図書館女子って可哀想だな」
と常々思っていて、かつ、これまでその理由をうまく説明できずにいました。
「文学少年/図書館女子って可哀想だな」
と常々思っていて、かつ、これまでその理由をうまく説明できずにいました。
そこへ来て、先日ふと浮かんだのが次のツイート。
文学少年/図書館女子の弱点って、手に入れた本は3日以内(遅くとも一週間以内)に読み終えなければならないという強迫観念に駆られてることだと思う。 個人的には、10年後、あるいは死ぬまでに読み終えたらいいやっていう感覚で楽しむ読書もなかなか乙なもんだと思うんだけどなぁ。
— にらた (@pr_nirata) October 30, 2013
そうなのだ、彼/彼女たちが不幸に見えるのは、
手に入れた本は3日以内(遅くとも一週間以内)に読み終えなければならない
という強迫観念に駆られてるみたいだから、なのだ。
彼らにとって読書というのは、
一冊の本を、最初から最後まで、どれくらいのスピードで読めるかという、
タイムアタックみたいになってしまってる。
けど、本当に読書ってそういうものなのでしょうか?
今日お話したいのはそのことについてです。
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本というものがほかのメディアに異なる点は
いろいろあるんだけど、
そのひとつとして「時間の伸縮性」というポイントがあると思います。
たとえば映画や音楽というのは、
見たり聞いたりしていれば、勝手に時間が進んでいく。
だから寝てたり聞き逃したりすると
「あれ? いつの間に終わってたの?」
なんてことが起こるわけです。
ところが本は自分が読み進めなかったら
時間が流れていきません。
本を読んでいる途中で寝てしまったとしても、
勝手にページが進んでいくということはありえない。
自分が速く読もうと思えば話のスピードは速くなるし、
ゆっくり読もうと思えばどこまでも遅くできる。
このように
自分のペースに合わせて
時間を伸ばしたり縮めたりすることができるという伸縮性に、
読書の利点と楽しみのひとつがあると言って、
ことさら反論する方はいらっしゃらないでしょう。
さらに言えば、個人的には、
自分の思うままに時間を引き伸ばしたり縮めたりできる、
この特殊な時間感覚こそ、
読書において大切なものなんじゃないかとすら思います。
しかし、先に言ったとおり、
この世には一定数、その読書の特性のうちの
一方しか楽しまない人がいるように思われます。
すなわち、どこまで時間を縮められるか、
どれだけ速く読めるか、という点に重きを置く読み方です。
たとえば、象徴的だなと思ったのは、
読書仲間のひとりが
「最近、年をとったせいか知らないけど、
昔みたいなスピードで本が読めなくなったわ~」
と嘆いていたときです。
また、それとは別の人いわく、
「800ページ超の大長編とか読みきれないし、短篇集しか読まないっすわ」
前者は、ハイスピードでページを繰っていくことが
ある種の快感になっている人なのかもしれません。
そういう人にとって、ゆっくり読むことは、
フラストレーションのたまる行為でしかないでしょう。
後者については
「読みきる」ということに重点が置かれてます。
しかもそれは「一定期間内に」という条件がつくのでしょう。
だって、どんなに長い本だって、
一日1ページでも読み進めれば、
いつかは終わりに辿り着けるわけですから。
つまり「ただ単に読みきる」のではなく、
「一定期間内に読みきる」ことが重要になってるのではないでしょうか。
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では、その「一定の期間」とはどのくらいなのかというと、
正確な数値や統計は取ってませんのであくまでも憶測ですが、
3日、長くても1ヶ月といったところが一般的かもしれません。
というのも、たいていの図書館が
それくらいのスパンで本の貸し出しを行なっているからです。
なお、付け加えておくならば、
たとえ貸し出し期間が1ヶ月間だったとしても
往々にして、たいていの人は期限が近くなるまで本を開くことがありません。
なので、結局のところ本を読んでる実質的な時間は
1ヶ月よりも少ないことの方が多いのではないでしょうか。
いずれにせよ、一定層が当たり前だと思ってる読書スタイルについて、
図書館のシステムってなかなか大きな影響力を持ってるような気がします。
けど、読書にも多様なスタイルがあって然るべきです。
たとえば1000ページの本を、1ヶ月に10ページ進めるという読書。
年間120ページ。
コンスタントに続ければ、読み終えるのが8年後?
そういう時間感覚の読書って、
ほとんどの人が体験したことがないんじゃないでしょうか。
かく言うぼくもありません。
8年がかりの読書なんて、もはや消費の域を超えています。
「本とともに生きる」レベルの贅沢です。
けど、これが本ではなく、お酒だったら?
我が家には20年以上前に、
たまたまお中元でいただいた「ナポレオン」が
いまだに残っていて、大事な席にだけ開けられて、
大切に保管されています。
本当に、ほんのちょっとずつ飲まれてきたものです。
そういう種の楽しみが、
読書にだって、あってもいいと思います。
世に「古典」と呼ばれる文学は、
自動販売機で買ったジュースのように
ぐびぐび飲めるものではありません。
トルストイを3日で読みきろうとするのは、
高級なブランデーをラッパ飲みするようなものです。
いいじゃないですか、読み終わるのが10年後でも。
もちろんその反対に、エンターテイメント小説を、
じっくり時間をかけて読むというのもまたおかしな話であるわけですが。
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