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6月, 2013の投稿を表示しています

今後の著作物のあり方について、自分なりに考えてみる

■ 自分の作ったものは、 どこからどこまで自分のものなのか。 この前はツイッターで 「パクツイ」のことが話題になってたけど、 もちろんそれはホントにただの一例。 たとえば、 自分のオリジナルアイデアだと得意になって作ったものが、 実はすでに他の誰かが考え出してたものだった、とか。 たとえば、 誰かが描いたイラストが人気になって、 みんながコピペして自分のTwitterとか FacebookとかLINEのアイコンにして拡散していく、とか。 「これ誰が描いたんだろ」と思いながら、 その絵をトレースしたり、あるいはタッチを真似したりして、 pixivにアップする、とか。 こんな感じで、 コピペや、それに類する模倣行為というのは 大多数において何の悪意もなく行なわれてる。 もちろんパクって、その作者よりも多くの利益をせしめようとする 悪徳漢が存在しないとは言わない。 しかし、だいたいにおいて、 それは何の悪気もなく、「好きだから」という理由で 無許可に使用されていることが多いように思う。 ■ 一方、こういうあり方に、 めっちゃ怒ったり問題視してる人たちがいる。 「自分の頭から湧き出たもの=自分の作ったもの」 という考え方を明確に持った人たちだ。 そもそも著作権、知的財産権なんてのは、 こういう考えから生じてきたものなんだろう、おそらく。 誰かが考えて考えて考え抜いた末に生まれたものを 大切に保護し、その利益を守りたいという気持ち。 オリジナリティを尊重し、正当な利益に結びつけようとする意志。 現代の創作の現場においては、 このオリジナリティ擁護派が、 コピペ拡散派と対立するという様相を呈してる。 そのように、ぼくには見える。 まあ、もちろん創作に限った話ではないんだけど。 ■ けど、実際、 著作権は誰に帰属するのかという問題は、 今後どんどん特定が困難になっていくように思われる。 国民一人ひとりを番号で管理しようという動きが 徐々に始まろうとしてるけど、 日本だけがそんなことをしたところで、 この無限に拡散していく著作物の流れを止めることって、 本当にできるんだろうか? たとえ世界的な動きに発展したところで、 完璧に阻止することなどできるのか? 「カンペ

村上春樹のおもしろかった本、つまらなかった本。

Googleドキュメントの表をコピペしたら Bloggerでも表が作れると聞いて、 さっそく試してみたくなった。 けど、今のところ表を使って何か書かなきゃいけないものもないので、 戯れに、これまで読んできた村上春樹の本で、 自分がおもしろいと思ったものと つまらないと思ったものを仕分けて、 村上春樹の示してる分類ごとに比べてみようか。 おもしろかった つまらなかった 短篇小説 神の子どもたちはみな踊る 東京奇譚集 中編小説 アフターダーク 風の歌を聴け 長編小説 世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド 羊をめぐる冒険 長編小説 ねじまき鳥クロニクル 1Q84 エッセイ 走ることについて語るときに僕の語ること 意味がなければスイングはない。 ■ 短編部門は 『神の子どもたちはみな踊る』が面白かった。 「地震は私が起こしたんだ」とか 「かえるくんがミミズくんになっちゃった」とか、 印象的なシーンが多い。 ただし、表題作は他の短編に比べると微妙な印象。 『東京奇譚集』は、 ある程度、村上春樹というものに 慣れてきた頃に読んだものだった。 ははーん、村上春樹は今まで こういうものが書きたかったんだな と思いました。 けど、ほんとにそれだけでした。 どのエピソードも非常に物足りなく感じた。 ■ 中編部門は『アフターダーク』 ぼくは長い間、村上春樹が大嫌いだったんだけど、 この作品を読んで、評価を改めた。 文章はぎこちなく、下手くそだけど(わざとなのか?)、 ラブホテルという場所や 「カメラ」という視点をうまく使って 印象的なシーンをいくつも作り出してる。 一人称を三人称で語るってのは、 ちょっと小説を書いた人なら誰でも思いつくものだけど、 そのアイデアをここまで発展させたのには さすがに唸った。 『風の歌を聴け』は退屈でした。 本人も作家としての仕事は 『羊をめぐる冒険』からスタートって言ってますしね。 ■ 長編小説は 『 世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド 』 〈ハードボイルド・ワンダーランド〉だけだったら 文句なしに面白かった。 もちろん〈世界の終わり〉と対にして

トーマス・ニューマンの映画音楽

■ 中学生の頃に激しく感動した映画やマンガというのは、 大人になっても変わらず自分の「名作」であり続けるらしい。 ぼくにもそういう作品がいくつかある。 そのひとつが、 トム・ハンクス主演の映画『ロード・トゥ・パーディション』。 マフィアである父と子の絆を描いた (・・・と言うと超陳腐な感じですが)良作です。 初めて見たのは映画館。 暗闇の中、エンドクレジットを眺めながら涙し、 「これが映画を見る楽しみか・・・っ!」 とひとりで勝手に納得し、 それから狂ったようにビデオを借りたり 映画館に足を運んだり、深夜映画を録画したり、 いろんな手段を使っては映画を見まくる日々を送ることになった。 たぶん1日3本は欠かさず見てたと思う、2年ぐらいの間。 (ってことは単純計算で730本?意外と少ないな。。。) 要するに、ぼくが映画が好きになるきっかけが、 この『ロード・トゥ・パーディション』だったというわけだ。 この映画、どうしても贔屓目に見てしまうところはあるんだけど、 やっぱり役者もいいし、ストーリーもいいし、映像もいい。 ただ、何より惹きつけられるのは音楽の良さだ。 トーマス・ニューマンによる、しっとりとしたリリックな、 だけど西洋音楽の手法にきちんと則った安定感のあるサウンド。 特に素晴らしいのがエンドクレジットで流れるこの音楽。 ■ ちなみにトーマス・ニューマンは この他にも多くの作品の音楽を担当してます。 特にヒューマン・ドラマ系の作品には 心に残るフレーズを残してる。 たとえば: ショーシャンクの空に The Shawshank Redemption (1994) ジョー・ブラックをよろしく Meet Joe Black (1998) グリーンマイル The Green Mile (1999) ペイ・フォワード 可能の王国 Pay It Forward (2000) ロード・トゥ・パーディション Road to Perdition (2002) ファインディング・ニモ Finding Nemo (2003) ウォーリー WALL・E (2008) トーマス・ニューマンが音楽やってる映画を 片っ端から見て

現代における、理想的な創作スタイルとは。

■ 『食べて、祈って、恋をして』の作者。 エリザベス・ギルバートによるプレゼン。 お題は「創造性をはぐくむには」。 だけど、実際のところは 健康的に創作活動をするのに大事なことは何か 、 みたいなものとして見た、ぼくは。 ■ 「精神をやまないために」っていう考え方が革新的。 作家は一度ヒット作を生み出したりしてしまうと 次の作品では、前作を超えることができるだろうかみたいな、 そんな不安を抱いてしまう。 ぼくも2年ほど前、 『美学芸術学科にらた教授の講義録』を書いて このブログで発表したら、多くの人に読まれて、 続きを書く際には、第1講義と同じかそれ以上に面白いものを作れるだろうかと、 同様の不安を覚えた(結果としてプレッシャー負けして書けなかった)。 アマチュアでさえそうなのだから、 プロの場合なんか相当のものだろう。 想像するだにおそろしい。 彼女がプレゼンで提案するのは、 そういう 精神的なストレスに打ち勝つには どうすればいいか という実際的なアイデアだ。 ■ そのアイデアっていうのは要するに 人間には「意味不明な気まぐれ」ってのがあって、 そいつが自分をコントロールして 小説を書かせたり、音楽を作らせたり、絵画を描かせたりさせる、 そういうものなんだという考え方。 よくアーティストの人も 「降りてくる」 という表現で言いあらわしたりする。 人によっては若干「うさんくさい」という感じさえしてしまうかもしれない。 ■ しかし、古代ギリシャ・ローマだとそれは逆だ。 彼らは詩というものを 「ダイモン」(英語だとデーモン)によって書かされたものだと考えてた。 つまり、結果としてどんなにひどいものが出来ても、 それはダイモンが書いたものだから、 俺の責任じゃない 。 どんなに良いものが出来たとしても、 それはダイモンのおかげで書けたのだから、 俺には関係ない 。 そういう風に、 責任を転嫁すれば、肩の荷がおりる。 逆に言えばそうでもしないとやってられないくらい、 創作にかかるプレッシャーというのは重いということだ。 ■ ところで、このプレゼン、 ぼくは友人のにさだこ(@nisadako)といっしょに見てたんだけど、 その際、いろいろ面白いコメン