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disの最新作『The Odyssey of Iska』について

この度クロアチアのゲーム開発会社dis(Dalmatia Interactive Studio)から、新作『The Odyssey of Iska』(以下OI)が発表された。
前回はビールの投げ合い戦争ゲームを公開して、地味ながらも多少注目されたらしい。この会社から出てる他のゲームに比べて、そこそこのダウンロード数だった。まあ、あくまで「そこそこ」だったけど。
今回プレイしてみて、いくつか思ったことがあったので、以下、そのことについてつらつらと書いていく。
スクショも載せようかと思ったが、面倒なのでやめた。申し訳ない。

■スマホのゲームは好きじゃない

さて、さっそく私事で申し訳ないけど、ぼくはスマホでゲームをするというのがあまり好きではない。理由はふたつある。
ひとつはタッチパネルの特性上、反応や判定の厳しいものが多くて、すぐ死んでしまうからだ。敵を一方的にボコボコにできないと、非常にストレスが溜まってすぐイヤになってしまうタイプの、ゲーマーの風上にも置けないぼくにとってこれは大きなウェイトを占める問題といえる。
もうひとつの理由は、細かな場面でセーブができないということ。だいたいスマホのゲームは、ひとつのステージをクリアする毎に自動的にセーブされるというものが多い(気がする。実際はどうか知らない)
しかし、だ。ちょっと操作をミスって、
「あ、しまった」
と思った瞬間にはもう死んでしまったり詰んで先へ進めなくなったりして、また一からやり直し・・・というのを繰り返してると、もう、どうにもやる気がなくなってしまう。我ながらゲーマーの風上にも置けないとおもう。
以上のふたつの悪条件を満たすスマホゲームで代表格といえば「Angry Bird」だろう。指先ひとつで微妙な角度がつけられ、その精度如何によってゲームの進行そのものが左右される。そして、少しでも手元が狂えば、また最初からやり直し。いい感じに進んでいった途中で、セーブをしておくということさえできれば、その最高の状態から何度でもやり直すことができるのに、このゲームにそんな細やかさはない。もし自動セーブにするなら、
幼稚園児でもクリアできるくらい簡単にするべきだと、ぼくは思うわけである。(本気で言ってるわけじゃないですよ)

■ありきたりなゲームだけど、なんか変。

そんなぼくが、どういうわけか、『OI』に目を止め、ダウンロードしたのは、まあ、たまたま開発した国がクロアチアだったからという、ただそれだけのことだった(ぼくはなぜかこの国に強く惹かれている)。あと、スクリーンショットのキャラのデザインが、いかにも東欧の人形っぽくてかわいかったというのもある。日本では絶対に生まれない造形だ。ちなみに開発したのはクロアチアの会社だけど、言語は英語だし、ストーリーも、さらわれたお姫様を助けに行く勇者Iskaの物語。「黄金形式」から抜け出ることはない。さらにはクエストも後から確認できるので迷子になる心配もない。
ただ、あらかじめ言っておくが、このゲームは決して「面白い」とは言えない。RPGを謳ってるのにストーリー性は皆無に等しいし、敵を倒すのも、そんなに大変ではない(これについては後述する)。むしろ、このゲームは、囚われたお姫様を救いに行かなくても、敵を倒して珍しいアイテムを集めなくても、充分に楽しめてしまうかもしれない。少なくともぼくにとっては。
個人的に独特だなと思ったのは、キャラの移動システムだ。最近のゲームでは移動といえば目的地をタップしてそこまでキャラを動かすのがもはやお馴染みとなっているけれども、『OI』ではプレイヤーがキャラを指で「つま」んで運ぶ。ちょうど、チェスの駒を動かすような感覚だ。2本の指でピンチしてキャラを捕まえる。スライドすると宙に浮いたまま移動。2本の指の間隔を広げるとキャラが落ちる。しかし奇妙なことに(?)、プレイヤーの、この神様的な役割に対する言及は特にない。もちろんチュートリアル画面で、キャラの移動法について説明はあるけど、それ以外の、ゲームをプレイしてる最中、直接的に登場人物が自分を移動させてくれている存在(=プレイヤー)について話をしたりすることはない。そこは律儀なほどRPGのコードが守られてる、ということなのか・・・? つまり、どうやらこのゲームが要求してるのは、あくまでも主人公である勇者の役目(roll)を演じる(play)ことらしい。いや、感情移入できないでしょ。
「自分、神なんで」
なんだこのシュールさ。シビれる。

■これはわざと?わざとなのか?

『OI』のもうひとつ特徴的なことは、これはひょっとして単なるバグなのかもしれないが、主人公の行ける場所に制限がないということだ。だいたいのゲームというのは、最初のうち主人公の移動範囲が狭く、レベルが上ったり、ストーリーが進むにつれて、行ける範囲が広くなっていく。そういう「成長」の要素が組み込まれて、それが楽しかったりする。
ところが『OI』にそんなものはない。マップに書いてありさえすれば、いろんなところに降り立つことができる(ただし海の上で放した時は落ちずに宙に浮いたままになる)。
なので、勇気さえあれば、レベルの低いまま、好き勝手にゲーム内を冒険することができる。これはつまり、ストーリーをガン無視して、ゲーム開始直後にそのままラスボスの城に乗り込んで魔王に戦いを挑めるということだ。
(先程「ストーリー性が皆無に等しい」と言った意味がお分かりいただけただろう)
そして、たとえ移動中に敵と遭遇したとしても、戦闘システムは、スワイプで斬りつけたり攻撃を避けたりするある種のアクションゲームなので、レベルが高くなくてもコツさえつかめば充分に倒せる(先程「敵を倒すのも、そんなに大変ではない」と言った意味がお分かりいただけただろう)。

■「ジャズのやまないRPG」

『OI』について自分なりにレビューしてみたけど、最後にひとつだけ。ぼくが個人的に、このゲームにキャッチコピーをつけるとしたら、「ジャズのやまないRPG」にしたいと思う。いや、別に気取ってるわけではなくて、なぜかこのゲーム、プレイ中に流れるBGMが全部ジャズなのだ。快活なビバップとか気怠いブルーズとかが、オープニング画面からエンディング・クレジットまで、始終流れ続ける。ゲーム内は剣と魔法の世界。まったく合っておらず、このゲームから緊張感を抜き取っている。たぶん、ゲームの内容の割に容量がデカイのも、この大量のジャズのせいなんじゃないだろうか。とにかくプレイヤーはゲームを終えるまで粗悪なビートやムードから逃れることができない。なんでこんな音楽をつけたんだろ? というのは、このゲーム最大の謎として、きっと、ぼくの中に残り続けることだろう。
いやしかし、ぼくがこのゲームをダウンロードする直前で、セーブが出来てたらなぁ・・・。

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