スキップしてメイン コンテンツに移動

読みたい物語。


物語を作るには最低3つのシーンが必要だ。
始まりとエピソードと終わりの3つ。
下手をすれば始まりと終わりのシーンさえあれば
それらしい形になってしまう。
極端なことを言えば、すごく面白い始まりのシーンと、
すごく面白い終わりのシーンがあれば、
それなりに面白いものができてしまう。
これが物語を書く不思議でもあり、楽しいところでもある。

しかしこれだと、とても短いものしか書けない。
そこで、始まりと終わりの間にエピソードを挟んでいく。
当然、エピソードの数を増やせば、物語は自ずと長くなっていく。
たとえば本1冊分の小説を書くとなると、
いったい、いくつのエピソードが必要になるだろう?
ひとつのエピソードに2〜3ページを費やしたとすると、
90〜100くらいのエピソードが必要かもしれない。

小説を書く人であれば、
お風呂に入ってて突然
「ひらめいた!」
と小説のアイデアがひとつ浮かんできたなんて、
そんな経験があるかもしれない。
これはすごいとか、今後とも大事にあたためておきたいアイデアだとか、
自分の気に入ったアイデアに対する思い入れというのは、
往々にして強くなるものだ。
それを大切に、小説の形にしていく。
しかし、本当に面白くって内容のある小説には、
そういう「ひらめいた!」レベルのエピソードが、
つまり作者がずっと大事にあたためてきた、熱い思い入れのあるアイデアが、
何十も、何百もページの中に満ちている。
もちろん、そういう本はすごくすごくすごく、すごく珍しい。

ぼく個人としては、
無理をしてまで珍しい本を書こうとする必要はないと思う。
というのも、それをしようとすると、
たいていはひとつかふたつのそれなりに良いアイデアに、
適当な始まりやいい加減な終わりがくっつけられて、
まるで生物実験から生まれたキメラみたいにいびつになるのが関の山だからだ。
自分の作品に対する愛も、思い入れも、そこには感じられない。
そんなものは読んでて楽しくない。
始まりと、エピソードと、終わりのシーン。
これだけで十分だ。
それが読みたい。

x

コメント

このブログの人気の投稿

【翻訳】エリフ・シャファク『イスタンブールの私生児』

エリフ・シャファク『The Bastard of Istanbul』(直訳:イスタンブールの私生児) TEDで知ったトルコの作家エリフ・シャファク。 Amazonで探したけど、 残念ながら日本語訳はまだされてないらしい。 仕方ないので英語で出ているやつを、 Kindleで無料お試し版をダウンロード。 ついでなので冒頭の部分だけちょっと和訳。 このエントリがきっかけになって、 誰かちゃんと翻訳してくれんものかしら。。。 書き出しはひたすら雨について書いてます。 雨だけでこんなに個性的に書けるのかと 感心してしまいます。 むしろこの後、 どういう風に展開していくのか気になりますね。 ■ ONE シナモン  いかなるものが天上から降ってこようとも、神にそれを呪ってはならない。そこには雨も含まれる。  たとえどんなものが降り注いできたとしても、たとえどんなに重い重い豪雨であったとしても、あるいはどんなに冷たい雹(ひょう)であったとしても、天国が用意してくれているものに対してはいかなる冒瀆(ぼうとく)も決してなされてはならない。誰もが知っている。そこにはゼリハも含まれる。  だが、7月の1周目の金曜日に、彼女はそこにいた。絶望的なほど混み合った道路の横に面した歩道を歩いていた。騎兵のように汗をかきながら、崩れたアスファルトの石に向けて――自分のハイヒールに向けて――声を荒げたところで道路の渋滞がなくなりはしないというのが都市における真理だというのに、狂ったように警笛を鳴らしまくるありとあらゆる運転手に向けて――その昔コンスタンティノープルという街を手にし、その間違いのために行き詰まりを見せたオスマン帝国に向けて――そして、そう、雨に向けて・・・このサイテーな夏の雨に向けて――次から次へと小さな声で悪態をつきながら。  雨はここでは苦行だった。世の中の別の部分で見れば、土砂降りというのはほとんどの人・物にとって間違いなく恵みとしてやってくるものだろう――穀物にとって良い、その地の動植物にとって良い、そしてロマン主義的な・余計なオマケを付けておくならば、恋人たちにとっても良いのである。もっとも、イスタンブールでは別だ。私たちにとって雨とは、必ずしも濡れてしまうということではない。汚れるということですらない。強いて言え...

フィンジの伝記から、《花輪をささげよう》Let us Garlands bring に関する部分をちょっとだけ訳してみた。

フィンジは、まるで自分が初めてシェイクスピアを曲にしているかのように、その詩に曲をつける。彼の最も記憶に残る2曲を含む「Garlands bring」には、そのことがよく表れている。「Come away, come away, death」の言葉のために彼が選んだリズムは、文学的な素養を持つ作曲家であれば誰でも考えつくことができるだろう。しかし、ジェラルド・ムーアが「高貴なドロップ」と呼んだ、2つの小さな上昇音の後に「death」という言葉を置くことは、言葉の内なる真実を見出すことだった。この曲は、フィンジの最も確かな不協和音の扱いを見せる。各節の後半の遅れた解決は、悲しげに引きずられるだけでなく、進行的なオープニングとバランスをとっている。そして、歌手の広い跳躍は緊張感を高める。この曲は、最後の「weep」の12音符の大きなメリスマのために、フィンジの作品の中では珍しい。詩を見ると、どのようにしてこの曲が生まれたのかがわかる。1節では、「O, prepare it!」という短い行は韻律的に区切られているが、2節ではその対応する行は「Lay me, O, where /Sad true lover...」と続いており、フィンジも同様にフレーズを続けている。そして、2つの節をバランスさせるために6小節が必要となり、歌の悲しみをすべて1つの長いバッハ的な曲折のあるフレーズに集約している。 フィンジは、「Fear no more the heat o' the sun」を20代に作曲しており、ミルトン・ソネットや「Farewell to Arms」のアリアと同じ頃である。それらすべてに共通しているのは、人生の短さというテーマである。そのような気分の中で、彼は「Golden lads and girls all must, as chimney-sweepers, come to dust」に抵抗することはできなかっただろうか。この詩は曖昧である。それは慰めだろうか?「fear no more」と、太陽の熱、冬の激しさ、中傷、批判を恐れることはないと言っているが、もはや人生が傷つけることができないという安堵感は、「...come to dust」という落胆したリフレインによって否定されている。フィンジは、感情をフォーマルでゆっくりとしたダンス・メジャーに抑え込んだ。...

【翻訳】AUTONOMY【自律性】

AUTONOMY 音楽において強く主張されている自律性というのはしばしば、意味(meaning)に対するアンチテーゼとして構築される。音楽が自律的な存在として機能するという信念は、形式主義を通じて影響力を持っており、分析という行為を通じて実際的な形を与えられている。音楽を自律的なものとして理解するのは、それをバラバラな、自給自足的な構造として把握するということである。ドイツの哲学者イマヌエル・カントの著作、とりわけ 1790 年における彼の『判断力批判』(ル・ハレイ&デイ 1981, 214-29; カント 1987 )は、美学において自律性について考察する際、しっかりとした参照点となる。『判断力批判』においてカントは、無関心というアイデアを提示する。それが意味するのは、美的な反応は「何ものにもとらわれない( free )」のであり、他のものと――もっと一般的に言えば反応や欲求と、区別されているということである。カントはまた、芸術作品の目的は目的を持たないということなのだといった見方も取り上げている。言い換えれば、芸術作品とは、それ自体が目的なのである。 自律性というコンセプトが音楽との連関で最もダイレクトに使われたのは、 18 世紀、純粋な器楽曲の台頭のおかげで音楽と言語が分離した(つまりは自律性)のを記述するためだった。それは書かれた言葉と社会的な機能といった束縛、たとえば礼拝的・儀式的な文脈のようなもののどちらからも音楽が見事に解放されて以降のことである。言葉と言語の分離はドイツの哲学者 G.W.F. ヘーゲルへと続いていくこととなった。 19 世紀初め頃に行われた彼の美学についてのレクチャーでは「自己充足的な音楽」と言い表されている。 伴奏のための音楽は音楽の外部にある何かを表そうとしています。それが表そうとしているのは、音楽ではなく、それ以外の芸術、たとえば詩のようなものに属す何かと関係しています。さて、もし音楽が純粋に音楽的であろうとするならば、この外的要素は避けられ、根こそぎ排除されねばなりません。唯一それによってのみ、言葉の正確さという束縛から完全に解放されるのです。 (ル・ハレイ&デイ 1981, 351 ) カントにおける目的(機能)の不在は 19 世紀において主張された「芸術のための芸術」に反響し、ロマン主義が自身の持つ表現形式へと夢...