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【考察】価値は人間の想像力から

 ダイヤモンドはキラキラしてるから価値があるんじゃない。キラキラしてるものに価値があると思う人間が存在するから、価値があるのだ。  では、なぜ人間はキラキラしてるものに価値があると思うのか? 理由はいろいろあると思う。しかし、ぼくがとりわけ取り上げたいのは、そのキラキラしてるものから「キラキラ以外のもの」を見出す力を人間が本来的に備えているからとゆう理由。  たとえば子どもの頃に見た水面の反映と、石の輝きがダブるなんて瞬間があるかもしれない。もちろん常識的に考えてみれば、水と石は本来くっつくはずがない。しかし、人間の想像の中ではそれが可能になる。この想像力によって、人はあらゆるものに価値を付けてきたとゆうのはなかなか面白い考えだと思う。  そして、この文脈から考えていくと、「美」は究極的にはどうしても個人的にならざるを得ないのではなかろうかと思われてくる。ただ文化や社会などによって「個人的」の程度が似通ってきて、同時代の中ではある程度「美」を共有できるのではないかと。  これは実際的な調査を行ったわけでもなんでもない、単なる憶測でしかない(と同時にある種の願望でもあるのだが)。しかし、少なくともこの考え方に魅了されながら、ぼくは今日も何かを美しいと感じたりするのだと思う。価値とは結局そうゆうものなのではないだろうか。

【考察】「鳥肌」について試しに書いてみる。

 最近、「鳥肌」について考えてる。  一般に、映画とかを見て「鳥肌が立った」と言うのは「感動した」とゆうプラスな評価を表すコメントとして受け取られがちだけど、鳥肌って体がある種の不快感を訴えて出る反応らしい。この「鳥肌」と同じ位置にあるのが「涙」だと思うが、しかしいずれにせよ、単なる生理現象であるはずのものが人間の感情表現の代表格みたいに認識されてるのはなぜなんだろうか?  「鳥肌」=「不快」とゆう図式から考えてみると、そもそも不快であることがすなわち身体にとってマイナスなことなのかとゆうことが問題となる。たとえば「良薬は口に苦し」なんて言うように、辛いからこそ良いものであるとゆう評価はある。「辛いからこそ良い」で個人的に思い出されるのは幼少時代にやられた浣腸。便が出るまでの不快感と出し切った後の爽快感のギャップは今でもよく覚えてる。まあ、結構どうでもいい話だけど。  ところでアリストテレスがギリシャ悲劇を語る時に用いた「カタルシス(魂の浄化)」はもともと「下剤」とゆう意味だったらしい。そう考えてみると、カタルシスを生み出す悲劇とゆうのは「心の浣腸」だったと言えるかもしれない。心の浣腸ならば、不快であるのは当然なのかもしれない。つまり、体が「鳥肌」とゆう反応を出すのは、カタルシスを感じていたからとは考えられないだろうか。  ただ、現象的には、確かに「心の浣腸」で一時的に不快感を覚えて「鳥肌」が立ってると言えるのかもしれないが、それがプラスな感覚として広く共有されてる理由がよく分からない。つまり「とりはだっ!」って叫んだだけで、なぜ良い評価を示せるのだろうか。これは難しい問題だから、別の機会に考えてみることにして、鳥肌に関する「可能性」についてちょっとだけ考えて終わりにしようと思う。  鳥肌は一般的に「感動」したことを証明する激しい感情表現の一種と見られてるところがある。しかし実際のところ、それは不快感に対する身体的な反応でしかなく、それ自体が感動とゆう現象を表現してるわけではない。  ただし、逆に「感動」とゆう激しい情動も本質的には、こうした不快感の一種なのではないかと考えることも出来るだろう。たとえば、鳥肌を引き起こすような感動をすべて「恐怖」とゆう負の感情に当てはめてみると、その感覚は自分の存在が何かとてつもなく巨大なものに飲み込まれて、侵食され