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舞城王太郎『淵の王』(新潮1月号掲載)

舞城王太郎『淵の王』は、 『ディスコ探偵水曜日』以降の舞城王太郎を総括する傑作です。 ぼくはこれまで出来うる限りの舞城王太郎作品を読んできたつもりですが 『ディスコ探偵水曜日』を書いてからの 舞城が 何をやろうとしているのか、いまいちわからないでいました。 しかし、今回『淵の王』を読んで、 自分なりに腑に落ちるところがありました。 まだ具体的にうまく説明することはできないのですが、 個人的にこれからの舞城の活動にはかなり期待を寄せているところです。 ちなみに、舞城王太郎でいちばん好きな作品はなんですかと聞かれたら、 これまでは『ドナドナ不要論』と『Good But Not Same』と答えてましたが (どっちも単行本未収録)、 これからはここに『淵の王』が加えようと思っています。 それくらい感銘を受けました。 『NECK』における想像力と恐怖、 『ディスコ探偵水曜日』における意思と時空、 『ビッチマグネット』における関係性と暴力といったテーマが、 『九十九十九』や『JORGE JOESTAR』のような、 ゲーム的リアリズムの手法で有機的に(論理的に、ではなく) つなげられていくプロセスに、 読んでいるあいだじゅう、興奮しっぱなしでした。 舞城王太郎『淵の王』は、 『ディスコ探偵水曜日』以降の舞城王太郎を総括する傑作です。 舞城好きを自称しておきながらまだお読みでない方(とくに『ビッチマグネット』以降、読んでないという方)、 ぜひお読みになるべきです。 舞城は違うステージへ(次のステージではなく)突入したような気がします。

舞城王太郎『イキルキス』文庫版を読む。

舞城王太郎『イキルキス』文庫版 単行本に収録されていた「イキルキス」も「鼻クソご飯」も「パッキャラ魔道」も、すべて雑誌掲載時に読んだものばかりだったから、その時には買わなかった。 で、文庫化されて、書き下ろし作品が2作(アンフーアンフー、無駄口を数える。)入ってると聞いたので買って、先ほど読み終えた。 ■アンフーアンフー 息子の見る夢が、現実世界にも影響を及ぼすという謎の現象を目の当たりにして、妻と「僕」はどうしようかと思案する。妻は、幼い頃に木の枝をヤスリで削って作った手製の神様(ひんぽぽ様)のように、「僕」を手のひらで形を整え、息子のための神様にする(「僕」の外見も中身も特に変わるわけではない)。それ以降、息子の夢は、夢の中で完結され、現実には影響を及ぼさなくなる。けど今度は逆に「悪夢ばっかりじゃなくて、いい夢がこの世に持ち込まれてたはずじゃない?いい夢だよ?この世には元々は無かったんだよ?」と妻が言い出し、子供が世界に影響を与えていたかもしれない可能性について話す。いろいろ話して、けど、全部仮定と可能性の話だと言って眠りにつく。 ■無駄口を数える。 女の子とも男の子ともうまくやれない「私」が、うまいこと結婚して、子ども(万理子)が生まれるが、高校時代からの友人、北原可織にその万理子が殺されそうになるという事件が発生。北原可織は逮捕され、執行猶予付きの有罪になるけど、「私」は北原可織その人には別に特別な感情をいだかない。それが逆に周囲の友達に不信感を与えてしまい、家に遊びに来た子なんかは「あの子、不妊だったんだよー?同情できるんじゃない少しくらい?」と詰め寄ってくる。うんざりした「私」はその友達を追い返すが、ドアの向こうでわめき続ける声はひとつひとつ台詞としてではなく、「無駄口」にしか聞こえない。「まだ続いてる、まだ何か続けてる」。 どちらも、夢と現実とか、内と外とか、そういう小道具をうまいこと使って、うまいことまとめてきてる。うん、そうだ、まとめられている。 舞城王太郎というと、いろんな要素をとことん取り散らかして、最後は何はともあれいい感じのまとめっぽいフレーズでラストを締めくくるっていうイメージがあったんだけど(『煙か土か食い物か』から『ビッチマグネット』、『獣の樹』まで)、『NECK』を境にして、なのか、なんなのか、

呼びかけると

呼びかけると えらそうになってしまう。 平静を装うと こわばってしまう。 簡単に書こうとすると 詩のようになってしまう。 これは詩ではない。 岡田  なぜ校長先生の話はつまらないのか。 それは誰に向けても話していないからだと。 話法には三つあるそうです。 「みんなに話す」 「あなたに話す」 「空中に話す」。 校長先生はずっと空中に話してるんですね。 内田  空中ってのはおもしろいね。 岡田  ほとんど独り言なんです。 内田  でも、ぼくもほとんど空中に話してる(笑)。 話してるうちに、だんだん目線が上にいっちゃうんだよね。 ( 内田樹・岡田斗司夫『評価と贈与の経済学』 より)   「空中に話す」っていう感覚、 すごくよく分かる。 たとえば誰か特定の人のことを言っているわけじゃなくて、 一般論を述べるときの感覚。 そういうとき、ぼくはひどく饒舌になってしまう。 「何を言ってもいい」という、万能感に包まれる。 それはあまり良いものではないのかもしれない。 けど、注意が必要なのは、 口では「あなた」と二人称で呼びかけていても、 うっかり空中に話しているときがある ということだ。 まずはそれに気づくことから。

マーガレット・アトウッド『侍女の物語』

先日マーガレット・アトウッド『侍女の物語』を読み終えました。 舞台は近未来、出生率が下がったおかげで妊娠できる女性は希少な存在なんですが、それにもかかわらず「子どもを生む機械」程度の地位しか与えられてない――そういう国が突如として(地理的に言えばアメリカ大陸に)立ち上がって、国民を監視してる。この国の思想的な根拠はキリスト教です。聖書の中の子どものできない妻の代わりに侍女が代理出産をするというエピソードがあるんですが、それを根拠にして、字義通り実行しているわけです。自由の国アメリカでクーデターが起こって大統領が暗殺されて、ガチガチの宗教国家が誕生するという設定は秀逸ですね。この新国家「ギレアデ共和国」というんですが、国旗には目玉に翼の生えたシンボルマークがあしらわれていて、監視国家であることがこれでもかと言わんばかりに表現されています。女性作家の作品なのに、設定はかなり大味な感じがしますね。。。いや、女性はあんまり細かい設定とか好まないのかもしれませんね。実際、物語は主人公の一人称視点で、過去の回想を交えながらしっとりと書かれていきます。感受性や着眼点も、女性的というよりは少女的ですらある。だからといってまったく退屈しないのがこの小説のすごいところです。海外の本関連の記事を見てたらかならずと言っていいほどその書名があらわれるのも納得の内容。特に物語のラストの絶望と希望とを行き来するような、両義的な幕引きと物語の構造を明らかにする「資料」が純粋な読者にとっても、ちょっと小難しいことを考えるのが好きな批評家にとっても配慮された内容になっていて良かったです。日本では邦訳が絶版な上に、映画もDVD/BD化されていないという有り様。非常に残念なことですね。 で、いろいろネットで調べていたら、『侍女の物語』の各シーンを描いたイラストを見つけましたのでご紹介しておきます。このくすんだ色合いといい、錆びた鉄のような質感といい、小説の雰囲気がよく出てます。 Margaret Atwood’s The Handmaid’s Tale – in pictures http://onehundredpages.wordpress.com/2012/01/23/margaret-atwoods-the-h

サリンジャー(村上春樹訳)『フラニーとズーイ』を読んだ。

今まで読んできた本の中でも 3本の指に入るくらい、面白い小説に出会えた。 サリンジャー(村上春樹訳)『フラニーとズーイ』 「フラニー」と「ズーイ」という2つの中編小説が入ってる。 実は野崎訳で一回読んでたんだけど、そこまで面白いという記憶はなかった。 村上春樹訳で読むとなぜここまで面白いのか、まったく分からない。 とりあえず、 どちらもグラス家っていう天才ばっかりの一家の物語なんだけど、 「フラニー」の方は、この天才7人兄弟のいちばん下の女の子で、 天才的なお兄ちゃんたちに幼い頃から 『ウパニシャッド』とか、エックハルトの説教書とか 『金剛般若経』なんかをテキストに英才教育を受けたもんだから、 名門私立大学に通う彼氏の文学談義なんかが低俗すぎて 吐き気を催したりしてしまって、そんな自分に自己嫌悪して、 宗教書にハマってるっていうお話。 「ズーイ」はその話の続き。 満身創痍で家に帰って、ゴロゴロしてるフラニー。 お兄ちゃんのズーイは、 自分の殻に閉じこもってないで出てこいよ!的な感じで(母親に頼まれて、だけど)、 あの手この手を使ってフラニーを救い出そうとする。 この救出の仕方がほんとに感動的。 そんな感じの、まさにニューエイジ思想の機運に満ちた中編が2篇入った お得な文庫本with村上春樹(630円+税)。

本を読むことが大好きであり、大嫌いでもある。

本を読むことが好きか嫌いかと言えば、大好きでもあり大嫌いでもある、というのが本心かもしれない。本屋に出かけると面白そうな本が膨大にあって、どう考えてもこれらを全部読むことはできなさそうだし、また仮に読んでしまったら人の作品を読むことだけに一生を費やして、アウトプットの時間は永遠に持てない絶望に見舞われるからだ。だから、私はこうすることにした。一生のうちにできるだけ多くの本を読めるよう務めるけれども、数ではなく1冊の本をどれだけ丁寧に深く読み込むかに重点を置く。                                   『素粒子』-ミシェル・ウエルベック読了記: Où est mon chat? 本を読むことが大好きであり、大嫌いでもある、という感覚、すごくわかる。 本屋に出かけると面白そうな本が膨大にあって、 どう考えてもこれらを全部読むことはできなさそうだし、 また仮に読んでしまったら 人の作品を読むことだけに一生を費やして、 アウトプットの時間は永遠に持てない絶望に見舞われるからだ。

ネットの言葉について考えていること。

あけましておめでとうございます。 すっかりブログの更新を怠っていたら、 2013年が終わっていました。 3が日は酒を飲み続け、映画を見る日々でしたが まあなにはともあれ年が明けたことだし、 とりあえずひとつ今の心境について書き残しておこうかと、 こういうわけで今日ブラウザを開きました。 ■ ブログの更新を怠っていた、とは言いましたが、 実を言うと記事そのものは毎日のように書きためていたんです。 Bloggerの「下書き」フォルダや Googleキープのメモがどんどん溜まっていって、 けど、そのほとんどを発表しなかった。 大学生の頃の自分であれば、 「完成度が低いから公開したくなかった」なんて 生意気なことを言ってたでしょうが さすがに社会人になってまで そんなことを口にするのは恥ずかしい。 じゃあなぜ発表しなかったのか? 自分の「言葉」の見方が変わったからと (また生意気な言い方かもしれませんが) そういう風に言えるかもしれません。 ■ ネットという開放された場所において あえて閉鎖的な空間を作る意義というのが これまでぼくにはいまいち理解できませんでした。 2ちゃんねるやmixiが嫌いだったのも、 そこで流通する言葉がネット全体に普及するものではなく あくまでもその場所においてしか効果を発揮しない、 すごく狭い言葉のように思われたからです。 「わたし、かわいくないから・・・」 と言う女子の大半は、相手から 「そんなことないよ!(かわいいよ!)」 と言われるのを待ってるものですが、 ちょうどそれと同じような気持ち悪さを、 閉鎖的なネット空間から感じていたような気がします。 逆に自分がネットで言葉を発する時は、 そうではない言葉で語りたいと心に決めていました。 他人のリアクションを前提にしない、 気持ち悪くない言葉。 それを追究していたのが、 ぼくの10代後半から20代前半期ということになります。 けど、それはネットというのがまだ 仕切りの少ない、無法地帯だったからこそ 喧伝できたことだったんです。 今やさまざまなサービスが乱立し、 ネットの至るところに、簡単に、 自分のスペースをつくれるようになりました。 その場所に応じて演じ分けられる自分のキャラも