〈飼いならされた感性〉について。
〈飼いならされた〉という言葉は魅力的です。この修飾語によって
「誰かにコントロールされている」
というニュアンスが出て、
〈自分が好きなもの〉だけを良しとする価値観に
一石を投じられるからです。
ただ、難点もあります。
すなわち、その背後に、
「野生バンザイ!」
という響きを感じてしまうことです。
「作られてない」「ありのまま」
「ナチュラル」「飾らない」
そういうCMのキャッチコピーから作られる、
「エセ自然主義」的な価値観に転化してしまう。
けど、それとは違う気がするんですね。
何が違うのか。
それは日常生活の中で育まれるものです。
つまり、生活によって「作られる」のです。
だから、少しでも日常から離れたと感じてしまうと、
その感性は、不安に駆られてしまう。
たとえば、
ツイッターでリプライを期待してツイートしたのに、
誰も反応してくれない、ふぁぼってもくれない。
そういうときに感じる孤独感は、
〈飼いならされた感性〉が満たされないからです。
そういう風に考えて下さったら結構です。
その他の事例については
あとの文章の中で話します。
その事例を見ると一見、
ツイッターのこととはぜんぜん違うように見えるかもしれませんが、
根っこは同じだとぼくは考えています。
そして問題は、
この感性が創作にモロに影響すると、
すっごくつまらないものになっちゃうよね、ということ。
というか、
〈飼いならされた感性〉と〈創造性〉って、
正反対のものだよね、という話をしたいと思ってます。
ぼくは小説を書いたりするので、
そういう立場を前提にしてしまうのですが、
なるべく、他の立場の人にも通ずるような話し方を
以下、心掛けていきたい。がんばります。
形式について。
ぼくは作曲家の矢代秋雄が言ってたみたいに、
表現に先立って感覚を表現する形式というのが
まずは存在していると考えてます。
というか、存在していてほしい。
でないと、この世から
美しいものを作り出す楽しみがなくなってしまう。
もちろん自然な美しさというものは確かに存在します。
何も手を加えてないのにきれいなもの、確かにあります。
穏やかな水平線、早朝の晴れた山道、入道雲、夕焼け空etc...。
しかし、
「こういう表現がしたい時は、この形式を当てはめる・・・」
「そういう表現には・・・」
「ああいう表現をするなら・・・」
そういう、マニュアル的な要素も、大事にしたいんです。
たとえば、
思ったことを思いついたまま、
言葉にして吐き出すというのは、
飲み物を何の容器にも入れないまま
相手に振舞おうとするのに等しい。
そんなの、誰にも飲めませんよね。
技術について。
しかし、そうかと言って、
技術だけで何かを創造することは不可能です。
技術を扱う「喜び」とか「楽しみ」がなければならない。
その技術を使う原動力というか、
モチベーションが存在します。
誰かに褒めてもらいたいとか、お金がもらえるとか。
このモチベーションが人によって様々だから、
同じようなテーマを扱っていても受ける印象が異なる。
稚拙さを見下すことについて。
なので、形式は大事だと思うけれども、
その形式の援用レベルというか、
形式を見事に扱ってみせる技術というのは、
あまり重要ではないと思う。
「文章が下手で、ストーリーテリングも稚拙」
という表現形式もまた、
立派な形式の一つだと思うからです。
これに関して、
ぼくはアホちゃうの?って思うことがあります。
何かと言うと、
この世に(日本だけなんでしょうか?)、
一定数、稚拙な形式を蔑視する傾向の人たちがいる、
ということです。
そういう人は、
「技術が稚拙なのは未発達だから」と考えます。
なので、
「これからこういう風にすれば面白いものが作れるようになるよ!」
と無邪気に助言する。
相手は別に
「面白いものを作りたい」なんて
思ってないことだってあるのにもかかわらず。
たとえば小説だったら
「面白いもの」「みんなが夢中になって読むもの」
という理想型が念頭にあって、
それに至らないものは尽く吐き捨てるか、
「がんばろうね!」と
(優しい語調だけど明らかに上から目線で)言います。
アホちゃうん?
「プロ」という意識の功罪。
それもこれも、諸悪の根源は〈飼いならされた感性〉ではないのか。
普段、消費者として過ごすわれわれは
日常の中にほとんど「完成形」のものしか存在しない
ということを無意識に当たり前と思ってる。
しかし、ちょっと前まではいろんなものが手作りで、
自分の身の周りには完成途中の未完成品がゴロゴロ転がってたはず。
作りかけのイス、形のいびつなビン、書き損じの紙くず・・・。
「ものづくりの国」というプロフェッショナル意識から、
完成品に対してプライドを持ちすぎるところが、
日本人にはないでしょうか。
「いや、そんなことないと思うけど・・・」
とたいていの人は思うでしょう。
そんなこと、意識したこともないですから。
しかし、ひょっとすると
中国のパチモンとか不良品をバカにする傾向も、
同様のメンタリティからきてるんじゃないでしょうか。
もしそうなら、
そんな精神しか持ち合わせてない人々の暮らす場所が、
「豊かな国」と言えるのでしょうか。
ある心理学者によれば、
他人を馬鹿にしたり見下したりするのは、
自分に自信がなく、寛容に受け入れる余裕がないからだそうです。
なるほど確かに、「プロ」という意識から、
日本人は精度の高い製品やサービスを
コンスタントに生み出してきましたかもしれません。
しかし、その反面、そういうプロとしての意識を持ってしまうと、
考えが画一的になり、固定されがちになるのではないでしょうか。
別に、サラリーマンだったら、それで全然OKでしょう。
ここで勘違いしないでほしいのは、
ぼくは
「そういうプロ意識なんかやめてしまえ!」
と言いたいわけじゃないということです。
少なくとも創作活動に従事する限り、
「プロ」という意識はまずいんじゃないでしょうか、
ということが言いたいんです。
と言っても、
それはどっかの新書が謳ってる、
「プロの意識なんか持たなくていい」
というような意味ではありません。
あれは「気楽にやろうよ」的なニュアンスが強いです。
そうじゃなくて、
ぼくが思うアマチュア精神とは、
アマチュアだからこそ極められる、「下手さ加減」のことです。
愛情に技術が追いついてない、あの熱心さのことです。
それは、プロにはとうてい到達できない
(まあプロ意識のある人は到達したいとも思わないでしょう)、
ひとつの境地への道を示します。
〈創造性〉の境地です。
〈創造性〉の豊かさへ。
「真に作家の個性が発揮されるのは失敗においてである」
――と言ったのが誰だったか忘れてしまったのですが、
ぼくの考え方は、この言葉で充分に言い当てられるものです。
不思議なことに、
素晴らしいもの、高度に洗練されたものは、
なぜかどことなく似通ってくるものです。
ところが稚拙なもの、洗練をそれほど経てないものは、
常に強烈に個性的なんです。
それは、成功のヴァリエーションよりも、
失敗のヴァリエーションの方が遥かに豊富だからです。
『アンナ・カレーニナ』の冒頭文を彷彿とさせますね。
確かに職人気質なプロの、
精度の高い製品は「便利」かもしれません。
しかし、創作において「便利さ」というのは、
まったく無用なものです。
創作は、個性的であればあるほど、
「その人だからこそ」とか、
「その人ならでは」というユニークポイントが
豊かであればあるほど
人々の創造性を刺激するものです。
ある人の創造性が、
他の人の創造性に火を点ける。
「うおぉ、おれも何かやってみてぇ!」
という行動につながる、そういう刺激です。
それこそが、
〈創造性〉の豊かさがなせる業だと思うのです。
生きる上では必要ないもの。
とんでもなくすごいもの、
誰かが行動せずにはいられなくなるものって、
おそらく、部屋でひとりでシコシコと作っているのでは、
ほとんど生まれないと思うんです。
だって、それは「プロ」のやり方だから。
「プロ」のやり方から生まれるのは、
どこのコンビニでも売ってそうな、
画一的なもの、「便利な」ものです。
たとえばエンタメ小説を、
ぼくは「便利なもの」だと思ってます。
電車の中の暇な時間を潰してくれます。
そして、当たり前ですが、
「そんなもんは燃やしちまえ!」とは思いません(笑)
それは生活にとってなくてはならないもののひとつです。
〈創造性〉の豊かなものは、
必ずしも、なくてはならないものではありません。
それは下手すると、
生きる上ではまったく必要ないかもしれません。
だって、生きる上でいちばん大事なものはお金です。
お金は仕事をすればもらえます。
仕事は、上部の言うことを聞いておけば
ひとまずなんとかなることが多いです。
〈創造性〉なんてなくても、お金は手に入るんです。
「クリエイティブに仕事をする」なんて嘘ですよ。
創造的なものは、人間に重く圧し掛かります。
強くその人を揺さぶり、本質的なものを変えてしまうことさえある。
よく言われることですが、
美術であろうが文学であろうが音楽であろうが、
クリエイティブだとされるものには、そういう「毒物」が含まれます。
気味が悪い、わけが分からない、怖い、不快・・・
もちろん一概に全部そうだとは言い切れませんが、
たとえば、『カラマーゾフの兄弟』を
朝の通勤電車の中でじっくり読んで、
そのまま会社で仕事をきっちりするなんて、
不可能だと思うんです。
「毒」が回ってしまうからです。
朝から「神はいるのか、いないのか」という、
はっきり言ってどうでもいい問題に頭を悩ませながら
出社し、スイッチを切り替えて仕事に取り組めるのか。
少なくとも、ぼくには無理ですね(笑)
ですので、教養を付けたいがために、
わざわざ古典・名作文学に挑戦するのは、
ぼくはかなり精神を削る作業になるし、
あまりオススメはできないなぁと思うわけです。
それだったら、
疲れたひと時を癒してくれる楽しい小説や映画で、
笑い、泣き、日々の仕事で抱えた嫌な感情をリセットして、
次の日の活力のために消費する方が、
何倍も合理的ではないでしょうか。
エンターテイメントはそういう意味で「便利」です。
生活に必要なものです。
しかし、それは日々の安定した生活を支えてくれる代わりに
創造者の感性を飼い慣らします。
たとえば新しいエネルギーや活力を生み出すことはできません。
そこが〈創造性〉と大きく異なる点です。
〈飼いならされた感性〉を殺すために。
〈創造性〉が持っている毒は、
日々の生活の安定を壊し、
新たなものを作り出す行動へとつなげていく、
活力を促すものでなくてはならない。
個人的に「べき論」は好きではないのですが、
しかし、自分の経験上、
この考え方については譲れないものがあります。
ぼくはいくつかの文学作品に出会い、
その〈創造性〉を目の当たりにしました。
横光利一、ガルシア=マルケス、大江健三郎等の作品を読み、
そのたびに大変なショックを受けました。
「自分も書かなきゃダメだ・・・っ!」
と焦りを感じました。
また、ネットの小説投稿サイトやサークルで、
幾度かそういうものに出会いました。
「自分も何か書きたい、書いて、この作者にレスポンスを示したい」
と胸を熱くさせられることがありました。
またKDPでもすでに、そういうものの萌芽を見ます。
そういうものに出会った時、
創作ってのは本当にいいものだと思うんです。
そして、その刺激を受けて、何かを書き終えた時、
自分の中で〈飼いならされた感性〉が一匹、死んだのを感じます。
宣言:創造技術時代の到来
とりあえず、みんな〈飼いならされた感性〉から解放されようぜ。
解放されるには、創作に手を染めるしかないんだぜ。
いまや世界はベンヤミンの言った「複製技術時代」による革命の渦中にあるけど、
(それはまだ完了していない)
このあとには、「創造技術時代」の到来が控えてると、
ぼくは信じてるんだぜ。
どんな時代か知らないけど、そんな気がするんだぜ。
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