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吉松隆の様式的な洗練?

■ 2010年11月24日、京都市交響楽団の第54回定期演奏会に行ってきた。 【プログラム】 西村朗:桜人~オーケストラのための~ 吉松隆:マリンバ協奏曲《バード・リズミクス》 OP.109(世界初演) マリンバ独奏:三村奈々恵 ブラームス:交響曲第 2 番ニ長調 OP.73 指揮:飯森範親 前半に西村朗と吉松隆の新曲が並び、後半にブラームスとゆうなんだか変な組み合わせ。 演奏を始める前にプレトークで指揮者の飯森範親さんが言ってたことには、今回のプログラムは「花鳥風月」とゆうコンセプトになってるんだそうな。 つまり、  西村朗=花 吉松隆=鳥 ブラームス=風月 とゆうことらしい。 なぜブラームスが「風月」なのかと言うと、この交響曲第 2 番がオーストリア南部の村ペルチャハとゆう大自然の中で書かれたから、だとゆう・・・。 ■ けど個人的にはこのプログラムに、日本における西洋伝統音楽――つまりクラシック音楽のことだけど――のメインストリームとサブカルチャー、そして日本の一般的なクラシック音楽観を、勝手ながらに垣間見てた。 どうゆうことかと言うと、このプログラムは、最新の(?)音楽をガンガン鳴らして始まったのにもかかわらず、最終的にはブラームスが演奏されることで終わったわけで、これをストーリーに仕立ててみると、次のように解釈できないこともないと思うのだ。 すなわち、 「最近の日本の音楽って、こんなのがイケてる(主流)んですよ」 ↓ 「まあもちろん、ぼくらサブカルにも理解あるんですけどね」 ↓ 「・・・けどまあ、やっぱりクラシックがいちばんですよね」 ■ 演奏会そのものは総じて、とても良い内容だったと個人的には思ってる。メインストリーム(現状)、カウンターカルチャー(反体制)、カノン(目標)とゆう3種類の音楽がひとつの演奏会の中で聴けるなんてそんなに多くないことだと思うから。それに、メインディッシュ(と呼んで別に差し支えないだろう)のブラームスがとても良い演奏をしてたから、後味がぜんぜん悪くなかった。これはとても大事なことだと思う。 ただ、吉松隆を聴いてていくつか気付いた点があって、演奏中ずっとその発見にひとりで興奮してたもんだから、とりあえず文章にして、少しばかり気持ちを落ち着けたいのだ。書いてみたら案外大したことないことなのかもしれないけど、とりあえず今のこの高

〈引き延ばされた音響〉、〈緩やかに移りゆくプロセス〉、そして〈ほとんど何もない〉

※このエントリは2010年11月12日(金)のゼミでぼくが発表した原稿『〈引き延ばされた音響〉、〈緩やかに移りゆくプロセス〉、そして〈ほとんど何もない〉』に大幅な加筆・修正を加えたものです。議論を分かりやすくするためにあまり正確とは言えない表記が見られるかと思いますが、ご了承願います。 ■ どうもこんにちは。にらたです。にらた教授ではない、ただのにらたです。  ぼくは現在、大学の学部生でして、 「現代音楽における美的聴取の可能性」という論題の研究を進めてる (つもりな) んですが 、具体的にはリュック・フェラーリという作曲家を一例に、この現代において美的な聴取 (純粋に「あ、いいな」って感じる音楽体験 ) は可能なのかということを考えています。  もちろんこの問題自体にいろいろな議論があるかとは思うのですが、今はまだ、ぼくも勉強中でして、しっかりとした意見が述べられるような段階には至っておりません。ただリュック・フェラーリの音楽に触れた時に、直感的に、「ここには何かがある」と思い、その言説や音楽上の立ち位置についての確認をしている最中です。正直言ってぼく自身、先がまったく見えてません。 ■  そういう風に不安を抱いてはいるものの、「研究発表」という名のもとに繰り広げられるゼミでの羞恥プレイはどこの大学にもありまして、 今まさに ぼくもその被害を受けてるところなんですね。うちのゼミの場合は、何週間かに一度、30分程度の発表原稿を作成し、同じゼミのメンバーの前で発表をするという流れになってます。今学期になってぼくはすでに1回発表を終えました。つまり今回が2回目の発表ということになります。  前回の発表は、リュック・フェラーリの《ほとんど何もない Presque Rien  》という作品を、解説を交えながら聴き、この曲が、サウンドスケープ的に捉えうるか否かということを簡単にではあるのですが考察しました。 (「サウンドスケープ的」というのはつまり、都市における騒音の問題について声高に叫び、 田舎でしか聞けないような、小鳥のさえずりとか川のせせらぎのような〈環境音 Soundscape   〉を愛でるような態度という意味だと思っていただければいいかと思います。)  そしてその結果、《ほとんど何もない》は (当然ながら) 、田舎のサウンドスケープをありのままに提

【創作】エーエム・ワールド。

「どうやら近頃イゾンショーという病気が流行ってるらしい」 「へぇ、どんな病気なの?」 「分からん。ただ、聞いた話によると、頭からキノコが生えてくるらしい」 「キノコ? 菌類がよく育つの?」 「おそらくそうゆうことだろうな」 「あ、おじいちゃんの頭に生えてるキノコって、ひょっとしてイゾンショーのせい?」 「おそらくそうゆうことだろうな」 「死ぬの?」 「分からん。ただ、頭からキノコが生えたまんまで死ぬのは困るな」 「そうだね。棺桶に入んないもんね」 「まったくだ。どうせならふつうに死んでふつうの棺桶に入りたい」 「やだよ! おじいちゃん! 死んじゃダメだよ!」 「ふふ、お前はかわいい孫だよ」 「いま死なれたら頭のキノコの分だけ棺桶のサイズを大きくしなきゃいけないから家計が大変になるってお母さんが言ってたよ!」 「お前は家計のことを心配してるのか、えらいなぁ」 「うん、だって家計が大変なことになったらサンタさん(親父)がぼくにクリスマスプレゼントをくれなくなるもん!」 「ほぉ、お前はクリスマスに何がほしいんだい?」 「そりゃ当然ラジオさ!」 「はっはっは、ラジオかい。そんならこの老いぼれたじじいがプレゼントしたげよう」 「え、ホントに !?  おじいちゃん、ホントにラジオくれるの !?  てゆうか持ってるの !?  老いぼれたじじいなのに !? 」 「ああ、もちろんだとも。ほら、そこの引き出しを開けてごらん。入ってるだろう?」 「え~と・・・あ、おじいちゃん、これ?」 「はっはっは、孫よ、それはラジオじゃない、エロ本だよ。この国の男どもはそれによって神の一手に近づくことができるんだ」 「なぁんだ、どおりでイヤらしいと思った。あ、じゃ、おじいちゃん、これだね、これがラジオだね」 「ざーんねん、それはお前のおばあちゃんだよ。それとわしが、さっきのエロ本でやってたようなことをして生まれてきたのがお前のお母さんなんだよ」 「ふぅん、生々しいんだね。あ、じゃあ、おじいちゃん、これがラジオだね、そうでしょ!」 「ふふふふ、かわいい孫よ、違うよ、それはプラズマテレビだよ」 「ええぇ~。絶対これだと思ったのにぃ・・・。おじいちゃん、ホントにラジオ持ってるの?」 「もちろんだとも。ほら、ここに」 「あ、おじいちゃんがずっと手に持ってたのが、ラジオだったんだね! ひどいや! おじいちゃん、

【創作】命を乞うことについての考察

先日、観光名所として知られるある洞穴で老婆がひとり死亡した。自動車に乗ったまま、洞穴の中へ飛び込み、壁面に衝突したのだという。人づてに聞いただけなので詳しいことは全く知らないのだが、おそらく即死だっただろう。洞穴の入り口には柵があり、観光客の出入りを制限していた。そこを超えるだけのスピードで突っ込んでいったのだとすれば、壁に激突して助かるわけがあるまい。私はその話を聞いた時そう考えていたし、私にその話をしてくれた親友も――彼も人づてに聞いただけのようだった――私と同じような考えをしているような口ぶりだった。信じられないことって起こるもんなんだよな、まさか洞穴に車に乗ったばあさんが突っ込むなんて。少しばかりの憐みを笑いに含ませながら親友は会話を終わらせた。 私たちはたまたま駅でばったり会っただけだった。お互い目的地へ行く途中に立ち止まって中学校を卒業して以来知らなかったお互いの近況を聞き合っていた。この洞穴に突っ込んだ老婆の話も、その中の他愛のないひとつだったわけだ。そして、親友はきっと私と別れた後、目的の場所で用事を済ませて、帰途について布団に入ってしまえば、翌朝には昨日どこかで誰かと会って何か話した気がするけど何だったっけかな? と思うに違いなかった。この手の話題は、野生のサルが仲間に食べ物のありかを教えるのに似て、単なる音の信号としてしか役に立たない場合が多い。サルはその時々、その場その場に相応しい叫び声を上げるに過ぎず、その一々の音高を記憶しているわけではない。人間だって同じようなものだ。 ただ、世の中には数字を覚えるサルがいるように、その日聞いた話を次の日になっても忘れないでいる人間もいたりする。いやむしろこれはもしかすると動物と人間を分ける重要な特徴なのかもしれない。と言うのも人間には文字というものがあり、紙とペンさえあれば自分の記憶力のなさをごまかすことが出来るからだ。私がこの事件を覚えていたのもその日のうちに忘れず日記に書きつけていたからだった。 曲がりなりにも私は小説を書くことを生業としている人間なので、アイデアに詰まると日記を読み返しながらいろいろなことを考えることにしていた。たとえば日本の習俗に詳しい文化人類学者の書いた本を読んだ日には、雨乞いの話に興味を抱いていたのを思い出した。そこには日記帳に刻みつけるような筆圧で熱心に本の内容が引用してあ

カンディンスキー『形態の問題』を意訳してみた。

時が来ればさ、必然性が熟すわけよ。つまりね、創造の「精神」(抽象の精神と呼んでもいいんだけど)が、人の魂までつながってる通路を見出すってこと。時が立つにつれて、いろんな人の魂に通じる道ってのが見出されて、憧れが引き起こされるわけよ。カッコよく言うと内的衝動、みたいなね。 時がカンペキに成熟するには条件が必要なわけだけど、それが満たされた時にはさ、内的衝動ってのが、(意識しようがしまいが)人の中で働き出してる新しい価値を人間精神の中に仕込んじゃうのよ。新しい価値ってのはさ、創造する力のこと。わかる? 新しい価値が人間の精神に入り込んじゃったその瞬間、意識的にせよ無意識的にせよ、人間ってのはね、自分の中に生き生きとしてる新しい価値にピッタリの造形を見つけようとするんだよ。新しい価値は精神的な形をしてるから、それに合った形を現実世界(物質世界)から見つけなきゃいかんわけ。 要するにさ、精神的な価値を物質化しようとする努力なんだよね。物質ってのは冷蔵庫みたいなもんで、コックが料理するのに「必要なもの(これ大事よ!)」を選ぶみたいに、精神も、物質という冷蔵庫の中から形を選ぶのよ。わかるでしょ。 これぞ、ポジティブかつクリエティブ! イイっしょ? なんつーか、便利な白い光、みたいな? この白い光のおかげで発展とか上昇ってのがあるわけなんだけど、創造の精神ってシャイなやつだからさ、物質の後ろとかに隠れちゃったりするんだよ。ヒドいやつは物質の中に入ってっちゃう。だから、あんまり分厚く物質の層に覆われちゃってる精神を見透かせない人が多いんだよね。バカだけどね。 いまどき宗教とか芸術の中に精神ちゃんがいるって信じてない人が多いのも、まあ、仕方ないのかもね。ある時代全般にわたって精神が否定されるってことがあるのよ。人に精神ちゃんを見る目がないから。 19 世紀ってそうゆう時代だったし、今もそんなに変わらない。みんな、目がくらんでるんだよね。 黒い手がね、みんなの目を覆っちゃうわけよ。憎しみをもってるやつの手って黒いの。こいつ、発展・上昇を阻止するためなら手段選ばないんだよね。めんどくさいヤツなんだよ。 これはネガティブでなんでも破壊しちゃう。悪いやつ。黒い手が死を運んでくる。 「発展」ってのは、つまり前とか上に進んでける状態のことなわけだけど、そんなことが出来るのは行く手が阻まれてない時

大田黒元雄は思ってたよりも毒舌だった

紀元2600年奉祝楽曲の演奏会評を調べてたら、なんと大田黒元雄のがあった。 歌舞伎座における紀元二千六百年奉祝楽曲発表演奏会の曲目を飾つた四つの曲の中ではフランスのイベールの「祝典序曲」が最も纏まつた印象を与へた。殊に旋律的な緩やかな部分には荘重な楽しさがあつた。 ハンガリーのヴエレッシユの交響曲は多音的な作品であつたが、三つの楽章の中では打楽器の活躍する律動的な若々しい終楽章が最も効果に飛んでゐた。 イタリアのピツエツテイの交響曲は演奏に四十五分を要する大作で、多くの美しい瞬間を持つてはゐたけれども全曲の四分の三が緩い楽章から成つてゐる為にすこしく退屈であつて同じ人の傑作である提琴奏鳴曲などに比べると遜色のある作品のやう に思はれ、些か期待を裏切られた。 最後にドイツのリヒアルト・シユトラウスの「祝典音楽」に至つては百六十名の演奏者を要求する大規模な作品である。しかし残念なことに内容的にはむしろ空虚なものであつて、あれだけ多数の楽器を駆使しながらも圧倒的な迫力に欠け、一代の巨匠シユトラウスの老いたことを悟るにとゞまつた。 全体を通じて演奏そのものは寄せ集めの管弦楽としては思つたよりも上出来であつた。たゞシユトラウスの作品以外にまで必要以上に多人数の管弦楽を使ったことは少々悪趣味であり、實際上にも音質の不同などのために却て 演奏の効果を損なふ傾きがあつた。(大田黒元雄) (朝日新聞、昭和15年12月11日付) 面白いと思ったのは今でも比較的、演奏機会のあるイベールが評価されてる点。それからヴェレシュのをほめる一方でピッツェッティを「すこしく退屈」と言うところに、一定の価値観が見出せそう。「緩い楽章」が多いことに「退屈」と言い、「圧倒的な迫力に欠け」ると「空虚」と言うのは、律動的な音楽、迫力のある音楽がもてはやされた時代であったとゆうことなのか。 それにしても、シュトラウスボッコボコ・・・。

フィンジの伝記から、《花輪をささげよう》Let us Garlands bring に関する部分をちょっとだけ訳してみた。

 フィンジはシェイクスピアを、まるで自分が初めてそうする作曲家であるかのように位置づけている。《 花輪をささげよう》の中に は彼にとって最も思い出深い歌曲が2曲ある。あらゆる教養ある作曲家が  ' Come away, come away, death'  の言葉に対して、自分のリズムを考え出してきたことだろう。しかし、  'death'  という言葉についてジェラルド・ムーアが「気高き落下」と呼んだものによって、ふたつの小さな盛り上がりを締めくくったのは、この言葉の内面的な真理を発見したのと同じことなのであった。この歌はフィンジの不協和音の腕前がその最も核心的な点で示されている。それぞれの行の後半における引き伸ばされた解決は、悲しげに引っぱるだけでなく、参列行進のようなオープニングとのバランスを取ってもいる。そして歌手の幅の広い跳躍が緊張感を高めるのだ。この歌はフィンジの作品においては珍しく最後の  'weep'  に 12 音のすごいメリスマ〔節回し〕がある。この詩をパッと見てみると、いかにそれが起こりえたのかが分かる。第一節の、  'O, prepare it!'  という簡素な一行は行末で収まっている。ところが、第二節では同じ箇所がはみ出ている。――  'Lay me, O, where /Sad true lover...'  そこでフィンジは自分のフレーズもはみ出させている。だからその節のバランスを取るのに6小節が必要だった。バチャン島民族の曲がりくねった長いフレーズのひとつの中に、 歌のすべての悲しみを込めるのである 。  フィンジは  'Fear no more the heat o' the sun'  を 20 代で残した。この頃には、彼はミルトンのソネット集と武器よさらばのアリアを作曲している。これらを見てみると、すべてが人生の短さについてである。つまりこのムードで彼はどのようにして「金持ちも女もみんな、煙突掃除屋みたいにゴミになる」に抵抗できたのだろうか? この死はふたつの側面をもってる。元気づけられる? ――それは言う、おそれはもはやなく、日は熱く、冬の猛威、中傷、非難。しかし人生がもはや傷つけられない安堵はドスンという音、幻滅気味の「…

「マーティン・チャズルウィット」から、トムがルースに話して聞かせたこと

 チャールズ・ディケンズの長編「マーティン・チャズルウィット」を読んだ。  第50章になかなか良いセリフがあったんだけど、訳があまりに読みにくかったから、ここだけ自分で頑張って訳してみた。  * * * * *  「妹よ、」トムは言った、「ぼくは君の愛情に正直に応じるよ、本当に正直にね。それは悲しいことだ。それが時々ぼくにとって悲しいことだと分かってた。まあ、ぼくはいつもそれと戦ってきたんだけどね。けど君の大切な誰かが死んだら、君は夢の中で魂になって天国に行くかもしれない。そしてこの地上で目を覚まして悲しくなるかもしれないね、まあ別に、眠りに落ちるより生まれ落ちることの方がつらいってわけでもないんだけどね。ぼくにとって悲しいのは、自分の夢についてよく考えることなんだ、だっていつも夢だと分かってたんだから、初めてその夢を見た時でさえそうだった。けど、ぼくにとって現実ってのは非難すべきものじゃないんだ。現実は現実なのさ。妹よ、ぼくの可愛い話し相手よ、君はここをとても素敵な場所にしてくれてるね、ルース、もしこの見方にぼくが悩んでなかったとしたら、ぼくに注いでくれる君の愛情が実際よりも減ったりするのかな? ぼくの旧友であるジョン、彼はぼくを冷たく扱ったり無視したりするなんて簡単だと思うんだけど、彼のぼくに対する親愛の情は減るのかな? ぼくを取り巻いてるこの世界の良さは損なわれてしまうのかな? ぼくの行く手に素敵で美しい女性が現れて、他の素敵で美しい女性と同じように、ぼくをより幸せにより良くしてくれるのにもかかわらず……まあ、彼女を自分のものと呼べないなんていう自己中心的な悔しさは例外としても……ぼくの言葉がきつくなり、顔つきが不機嫌に、心が冷たくなることがあるのだろうか! いいや、かわいい妹よ、そんなことはないよ、」トムは言った、きっぱりと。「自分にとって幸せって何なんだろうと思い返してみると、ぼくはあえてこのひっそりと佇む何かを悲しみと呼ぼうとは思えない、それに値すると思われるどんなちゃんとした名前でも、ぼくは天に感謝するよ。だってぼくを愛や優しさに対して敏感にして、色んなやり方でぼくを穏やかにしてくれるんだからね。幸せは減らない、絶対に減らないんだよ、ルース!」 "My dear," said Tom, "I will

【考察】価値は人間の想像力から

 ダイヤモンドはキラキラしてるから価値があるんじゃない。キラキラしてるものに価値があると思う人間が存在するから、価値があるのだ。  では、なぜ人間はキラキラしてるものに価値があると思うのか? 理由はいろいろあると思う。しかし、ぼくがとりわけ取り上げたいのは、そのキラキラしてるものから「キラキラ以外のもの」を見出す力を人間が本来的に備えているからとゆう理由。  たとえば子どもの頃に見た水面の反映と、石の輝きがダブるなんて瞬間があるかもしれない。もちろん常識的に考えてみれば、水と石は本来くっつくはずがない。しかし、人間の想像の中ではそれが可能になる。この想像力によって、人はあらゆるものに価値を付けてきたとゆうのはなかなか面白い考えだと思う。  そして、この文脈から考えていくと、「美」は究極的にはどうしても個人的にならざるを得ないのではなかろうかと思われてくる。ただ文化や社会などによって「個人的」の程度が似通ってきて、同時代の中ではある程度「美」を共有できるのではないかと。  これは実際的な調査を行ったわけでもなんでもない、単なる憶測でしかない(と同時にある種の願望でもあるのだが)。しかし、少なくともこの考え方に魅了されながら、ぼくは今日も何かを美しいと感じたりするのだと思う。価値とは結局そうゆうものなのではないだろうか。

【考察】「鳥肌」について試しに書いてみる。

 最近、「鳥肌」について考えてる。  一般に、映画とかを見て「鳥肌が立った」と言うのは「感動した」とゆうプラスな評価を表すコメントとして受け取られがちだけど、鳥肌って体がある種の不快感を訴えて出る反応らしい。この「鳥肌」と同じ位置にあるのが「涙」だと思うが、しかしいずれにせよ、単なる生理現象であるはずのものが人間の感情表現の代表格みたいに認識されてるのはなぜなんだろうか?  「鳥肌」=「不快」とゆう図式から考えてみると、そもそも不快であることがすなわち身体にとってマイナスなことなのかとゆうことが問題となる。たとえば「良薬は口に苦し」なんて言うように、辛いからこそ良いものであるとゆう評価はある。「辛いからこそ良い」で個人的に思い出されるのは幼少時代にやられた浣腸。便が出るまでの不快感と出し切った後の爽快感のギャップは今でもよく覚えてる。まあ、結構どうでもいい話だけど。  ところでアリストテレスがギリシャ悲劇を語る時に用いた「カタルシス(魂の浄化)」はもともと「下剤」とゆう意味だったらしい。そう考えてみると、カタルシスを生み出す悲劇とゆうのは「心の浣腸」だったと言えるかもしれない。心の浣腸ならば、不快であるのは当然なのかもしれない。つまり、体が「鳥肌」とゆう反応を出すのは、カタルシスを感じていたからとは考えられないだろうか。  ただ、現象的には、確かに「心の浣腸」で一時的に不快感を覚えて「鳥肌」が立ってると言えるのかもしれないが、それがプラスな感覚として広く共有されてる理由がよく分からない。つまり「とりはだっ!」って叫んだだけで、なぜ良い評価を示せるのだろうか。これは難しい問題だから、別の機会に考えてみることにして、鳥肌に関する「可能性」についてちょっとだけ考えて終わりにしようと思う。  鳥肌は一般的に「感動」したことを証明する激しい感情表現の一種と見られてるところがある。しかし実際のところ、それは不快感に対する身体的な反応でしかなく、それ自体が感動とゆう現象を表現してるわけではない。  ただし、逆に「感動」とゆう激しい情動も本質的には、こうした不快感の一種なのではないかと考えることも出来るだろう。たとえば、鳥肌を引き起こすような感動をすべて「恐怖」とゆう負の感情に当てはめてみると、その感覚は自分の存在が何かとてつもなく巨大なものに飲み込まれて、侵食され

【音楽】3月13日に気に入ったPV

ひたすら面白PVを見まくる夜だった。全部秀逸だったから、スゴい充実感。 「The Chemical Brothers - Star Guitar」 リズムが電車から見た風景に同期してて面白い。音楽の縦のラインが目に見えて分かるので、なんか快感。→ http://www.youtube.com/watch?v=0S43IwBF0uM コーネリアス「fit song」のPV。ここまで想像力が飛び立てたらどんなに楽しいだろう。→ http://www.youtube.com/watch?v=yxp4X9ITckU 「弾けないギターで弾くんだぜ」電気グルーヴ。2分20秒である男の人生を描き切る。子れはスゴい。 http://www.youtube.com/watch?v=geJthfw049k 「ピエール瀧の体操42歳」電気グルーヴ。こういった、ひたすら意味が分からないことをする、変なものが大好きです。→ http://www.youtube.com/watch?v=PV8bsYWQkpo ルロイ・アンダーソン「タイプライター」 ゼッタイ誰かがやってるだろうなとは思ってたけど、ホントにやってた。ジェリー・ルイスは有名な喜劇俳優らしい。 http://www.youtube.com/watch?v=a7ySmnxy29Q 「Stone Sour - Through Glass」1分50秒あたりから突然面白いことに・・・。→ http://www.youtube.com/watch?v=QS7ikSMKghw ↑これ見て思い出したけど、子どもの頃、人間の後ろ側には何もないと思ってた。自分が後ろ側に回った時だけ、細胞みたいなのがゾワゾワって集まって、背中が出来てるんだと。 「Fantastic Plastic Machine/Tell Me」 人は案外、消去法で動いてるのかも、と思った。ラーメンズの小林賢太郎が出演してる。→ http://www.youtube.com/watch?v=FRgYLEETDhw 「カイル・ミノーグ - カム・イントゥ・マイ・ワールド」 繰り返す時間。増殖する個人。→ http://www.youtube.com/watch?v=vQCirTog0cs 「リリィの愛の歌」サクラメリーメ