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村上春樹のおもしろかった本、つまらなかった本。


Googleドキュメントの表をコピペしたら
Bloggerでも表が作れると聞いて、
さっそく試してみたくなった。

けど、今のところ表を使って何か書かなきゃいけないものもないので、
戯れに、これまで読んできた村上春樹の本で、
自分がおもしろいと思ったものと
つまらないと思ったものを仕分けて、
村上春樹の示してる分類ごとに比べてみようか。



おもしろかった
つまらなかった
短篇小説
神の子どもたちはみな踊る
東京奇譚集
中編小説
アフターダーク
風の歌を聴け
長編小説
世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド
羊をめぐる冒険
長編小説
ねじまき鳥クロニクル
1Q84
エッセイ
走ることについて語るときに僕の語ること
意味がなければスイングはない。


短編部門は
『神の子どもたちはみな踊る』が面白かった。
「地震は私が起こしたんだ」とか
「かえるくんがミミズくんになっちゃった」とか、
印象的なシーンが多い。
ただし、表題作は他の短編に比べると微妙な印象。

『東京奇譚集』は、
ある程度、村上春樹というものに
慣れてきた頃に読んだものだった。
ははーん、村上春樹は今まで
こういうものが書きたかったんだな
と思いました。
けど、ほんとにそれだけでした。
どのエピソードも非常に物足りなく感じた。


中編部門は『アフターダーク』
ぼくは長い間、村上春樹が大嫌いだったんだけど、
この作品を読んで、評価を改めた。
文章はぎこちなく、下手くそだけど(わざとなのか?)、
ラブホテルという場所や
「カメラ」という視点をうまく使って
印象的なシーンをいくつも作り出してる。
一人称を三人称で語るってのは、
ちょっと小説を書いた人なら誰でも思いつくものだけど、
そのアイデアをここまで発展させたのには
さすがに唸った。

『風の歌を聴け』は退屈でした。
本人も作家としての仕事は
『羊をめぐる冒険』からスタートって言ってますしね。


長編小説は
世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド
〈ハードボイルド・ワンダーランド〉だけだったら
文句なしに面白かった。
もちろん〈世界の終わり〉と対にして
ひとつの作品を提示したかったんだろうけど、
昭和のダメな部分の香りがして受け付けなかった。

『羊をめぐる冒険』は退屈でした。


『ねじまき鳥クロニクル』
これはたぶん、ぼくが今まで読んだ村上春樹の本で
いちばん面白く読めた作品だったと思う。
村上春樹の、あのウザい文体が、
ストーリーと見事に調和してる珍しい作品。
皮剥ぎの刑のシーンは
数ある暴力シーンの中でも圧巻。

『1Q84』
これを読んでぼくは村上春樹が嫌いになった。
とにかく読んでて腹が立って、始終気分が悪かった。
単行本で買ったのに
手元に置いておくのが嫌すぎて
ブックオフに二束三文で売り飛ばした。
逆に考えると、不快にさせるだけの何かが
自分の内面と共鳴したのかもしれないので、
いずれ読み返したいと思っている。


『走ることについて語るときに僕の語ること』
村上春樹が「修行僧」のようなキャラを
世間に打ち出したエッセイ。
彼なりの創作論が展開されだしたのも
おそらくこの本くらいではないかしら。
おもしろいです。

意味がなければスイングはない
音楽オタクによる縦横無尽のエッセイ。
この人とは友達になれないなと思った。


ちなみに『海辺のカフカ』と『ノルウェイの森』、
『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』も
読んではいますが、今回は含めませんでした。
いずれも、まあ、おもしろかったです。
そんな感じです。

コメント

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