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【翻訳】ルドルフ・シュタイナー「バルザック」

ルドルフ・シュタイナー バルザック 生誕 100 周年記念に寄せて 初出: Magazin für Literatur 1899, 68. Jg., Nr. 22 オノレ・ド・バルザックは 1799 年 5 月 20 日にフランスに生まれた。彼は芸術家として、われわれの世紀の世界観に、何世紀も昔のキリスト教神学がわれわれに植えつけた精神主義に対して自分の意志を貫き通すために必要な表現への全てのかたよりをもたらした。ある言葉でこれらの近代的な世界観を特徴付けるとするなら、こう言わなければならない。すなわち「それは自然科学的な認識を根拠にして人々の理解を求めていたのである」と。われわれは、宇宙の構成や運動を純粋に、自然法則的に理解しようとする――それが今日のわれわれの念頭にあるわけだ――のと同じように、人の品行もまた明らかにしようとする。われわれはなぜ神は悪魔がこの世界にいることをお許しになられるのかということをただじっくり考えるだけではなく、人間の組織についても――こう言ってもいいのなら――悪魔のように見なされるような発言に至るのと同じように理解しようとする。 こういった精神の潮流をバルザックは大げさに表現したのだ。彼は人間社会の自然調査員であろうとした。ダンテが〈神にまつわる〉喜劇を書いたように、彼は〈人にまつわる〉喜劇を書き、そうしてこう考えたのだ。すなわち「動物学的なあり方があるように、社会的なあり方がある」と。たとえば動物界においてはライオンと犬、哺乳類と鳥類の区別が把握されなければならないが、それと同じように人間社会においては役人と商人、財界人と生まれながらの貴族がいるわけだ。 それによって以下のような見通しを立てた。ライオンの動物的なあり方は個々の事象を通じて論じ尽くされるために、われわれがそのあり方の特質を理解してしまえば、こういったもののどれもがわれわれの関心を引かなくなるのだ。まだ嫁に出てないお嬢さんは、自分のペットの子犬の個人的な特異性について特別な関心を抱くことだろう。こうした特質は、一般的な注意を引き起こすことができないのだ。まったく別のやり方で、問題は人々にまで至る。 ここにおいて、いかなる個体もが問題となるのだ。このあり方は個別的存在に尽きるものではない。どんな人間もわれわれに謎をかけてくるのだ。解説者にとっての心理的な謎――つまり役者

【翻訳】AUTHENTICITY【正当性】

AUTHENTICITY 正当性( authenticity )は、様々な音楽的・音楽学的な文脈において生じるものだが、概してそれが指し示しているのは正しさやマジメさに関する何かしらの主張だ。それはたいていの場合、演奏法との関連において生じるのだが、また批評理論の中であるいはポピュラー音楽との関連においても作用することがある。 「古楽器」あるいはピリオド奏法が流行ると、しばしば誤って「正当 authentic 」と言い表される。このような奏法は以下に挙げる要因のいずれかを、あるいは全てを取り扱おうとしていると思われる。すなわち、作曲家が生きていた時代の楽器。論文や記述された説明などといった証拠資料を参照した上でピリオド奏法のテクニックを披露しようという意識。そして、自筆譜やそれに関係する素材――たとえば改訂版や校正版のような――から明らかになる作曲家の意図したこと。  歴史を意識した、ややもすると「正当 authentic 」な演奏法が探求され出したのは 19 世紀においてであり、この時期に一般的だった歴史意識を反映している。しかしながら、証拠資料に注目が集まったのは音楽学の実証主義的な性格を反映してのことである。もっとも、発展したのは 20 世紀を通じてのことであったが。また正当性に野心が向けられたのは 20 世紀における過去への没頭の結果と見ることもできるだろう。たとえばモダニズムとの関連で見られるように――とりわけ 1920 年代に台頭した新古典主義への没頭。これはアメリカの音楽学者リチャード・タルスキンが非常に明快かつ説得力をもって指摘したことだ(タルスキン 1995 、 90-154 )。タルスキンはまた、「正当 authentic 」なものとしての「歴史的」な奏法と「近代的」な奏法との関係は混同されている、とも主張する。 私が思うに、最も正当な演奏法というのは、誤った前提から型通りに引き継がれているもののことです。しばしば、片や「近代的な演奏法」、片や「歴史的な演奏法」というような分断が両者に見られますが、これはかなりめちゃくちゃなものです。後者こそ、まさに近代的な演奏法なのです――あるいはむしろ、もしお気に召すようなら前衛派とか、近代的な演奏法の最前線とかでもいいでしょう――前者は 19 世紀から受け継がれた古い様式の生き残りで、次第に衰弱しつつ

【翻訳】NATIONALISM【ナショナリズム】

NATIONALISM ナショナリズムとは国民国家――それはナショナリズムという考え方に先行するわけだが――の台頭によって生じた、ひとつの意見であると定義できる。それは芸術家についてだけでなく、しばしばより決定的に言えば、歴史家、批評家、そして聴衆についての意見でもある――ちなみにナショナリティとはひとつの状況である(アームストロング、 1982  タルスキン、 2001 参照)。 国家とは、 必ずしも境界線によって定義されたものというわけではなく、政治的な地位とかある共同体の自己定義という条件を媒介していった結果である――宗教、民族性(スミス、 1986 参照)、人種、言語あるいは文化に応じて。もっとも、そこにおいては協調に関するいかなる行為も必ず排他に関する行為となるわけだが。しかしながら、ナショナリズムはまず一般的に共有されている歴史についての意味、つまり地域的・個人的な違いを乗り越える傾向のある考え方に依っている。ナショナリズムの拡散において重要なのは、主張されてきたように、 16 世紀に登場した印刷メディアの発展であり、歴史学者ベネディクト・アンダーソンが〈想像の共同体〉と呼んだものを形成する際に果たしたその役割であった(アンダーソン、 1983 )。 音楽においてナショナリズムという考え方の先例は様々な音楽様式についての意識から生じた。このことは時に、制度的なサポートの結果として現れた。たとえば 8 世紀から 9 世紀にかけてのカロリング朝の庇護の下におけるグレゴリオ聖歌のように。このような区別は時たま対抗意識という意味を導き出したのだ――たとえば 18 世紀のイタリアとフランスのオペラのような―― けれども 、そこにはまた実りあるやりとりの例があった。たとえば 14 世紀における「 イギリス風」 がフランスへ輸出されたように( Caldwell 、 1991 )。しかしながら、国民国家における文化的・政治的な価値観という意味を表す音楽様式という考え方は、歴史的に見れば比較的最近のことであり、歴史的な出来事から後続している。たとえば 1649 年のイギリス王の斬首において、音楽とナショナル・アイデンティティとの間の新しい種類の政治の直接的なつながりの前兆となった。 ナショナリズムについて研究する音楽学者の関心事のひとつに、国民様式を構築することを決定し

【翻訳】LANGUAGE【言語】

LANGUAGE 音楽というのはしばしば言語の側に関係するものであり、音楽学は書かれた言葉によって提示される。書かれたものは、たとえば作曲家の様式的・和声的な言語みたいなファクターと関係しているわけだが、しかし音楽はどういった点で言語でありうるのかということ、あるいは音楽と言語の関係性や類似点の本質とは何なのかということを、はっきりと説明するのは困難である。 音楽と言語との比較は長い歴史を持つ。音楽は、その歴史の大部分にとり、どうしても声や言葉とつながらざるを得なかった。それは演劇的・礼拝的な文脈――それが音楽の発展への枠組みを作り出したわけだが――においては、テキストというものが重視されたからだ。音楽と言語の関係にいくつかの理論的な基礎を与えられたのは、修辞学という技芸を通じてのことであった。それは古代ギリシア・ローマの修辞学に則った文学において形成されたわけだが、特に 15 世紀初めにクインティリアヌスの『弁論家の教育』が再発見されたことは、音楽的思考に重大なインパクトをもたらしたのである。修辞学はとりわけ、5つに分けられた段階――主張の創案(案出 inventio )からその表現(措辞 elocutio )まで――を踏むことによって、言葉のディスクールを本質的に体系化した。修辞学を音楽へと転写して、この関係性に基礎を置くあるいは関連づけた多くの論文が書かれることで、初期の音楽学は形成されたのである。 バロック期に、修辞学という枠組みによる音楽と言語との比較を最も明確に定義し、理論的な基礎を与えたのは、この時代の最も重要な論文のひとつであるマッテゾンの『完全なる楽長』( 1739 )である。それが提示するのは作曲についての合理的な基礎と構造的なプランだ(ハリス 1981 を参照されたし)。マッテゾンは 配列や詳細、修飾などといった 「修辞学的な」語を用いて、旋律を構造化する基礎にしている(同上 469 )。またバロックという時代には、音楽的な造形を何か音楽上の語彙のようなものにカテゴライズしようとする分類学的なアプローチを取った論文が膨大に生み出されてもいる。対照的に 19 世紀ロマン派の時代には、言語にかなり異なった評価が現れた。シューベルトやシューマン、その他の歌曲において明らかなように、テクストの使用は依然として目立っていた。オペラにおいてもふたたび音

【翻訳】ETHNICITY【民族】

ETHNICITY 民族という語は、生物学上の血統とは反対に、文化的な遺産やアイデンティティといった意味を共有している社会集団に適用される。もっとも、共有されているアイデンティティというこの意味の一部は、階級や人種といったディスクールによく反映されているかもしれない。このように、それはある程度の選択を許す概念なのだ――人種という場合にはしばしば選択や機会の欠如が仄めかされているのだけれども。民族的アイデンティティにもっと幅のある感じが含まれる場合には、ベネディクト・アンダーソンが主張したように「想像の共同体」と表現する(アンダーソン、 1983 )。 社会的・文化的に共通するものという立場から初めて人類を理論化しようと試みたのは 19 世紀、とりわけドイツの社会学者フェルディナント・テンニースとフランスの社会学者・哲学者エミール・デュルケムの仕事にまで遡る。民族という概念は 1960 年代、アフリカやアジアにおける独立運動の全盛期において社会科学が重要視され、ポスト植民地社会の北欧への移住に対する反応として発展した。この時代に台頭したアンチ人種差別的・アンチ植民地的な見方の結果として、民族は文化的な集団に属するポジティブな感情を表現するために社会学者によって作り出されたのであった。ソ連やその衛星国の崩壊よりももっと後になってからは、この概念はよりネガティブな含みをもってくる――旧ユーゴスラヴィアでの「民族浄化」という主張に起因する。このことは現代の民族についての対立的な問題を指し示している――共有された文化やアイデンティティ、所属というポジティブな意味がある一方で、政治的な敵意の標的という意味があるわけだ。 しかし、そこには線引きの問題がある。つまり、どこからがひとつの民族(あるいは人種)なのか、どこまでが別のものなのか? 音楽学者は民族の境界線についての書き直しに巻き込まれてきた。ナチス・ドイツは、 1930 ~ 40 年代、ポッターが説明したようなものをヨーロッパ音楽の残り物に付随する文化的なものと見ていた(ポッター、 1998 )。結果として、たとえばショパンやベルリオーズといった作曲家でさえもが実はドイツ人なのだなどと主張されたわけである。特別な努力は、イギリスがヘンデルのあからさまな帰化を認めたことに反応して、彼がドイツの作曲家であると主張し直すことにまで

【翻訳】AUTONOMY【自律性】

AUTONOMY 音楽において強く主張されている自律性というのはしばしば、意味(meaning)に対するアンチテーゼとして構築される。音楽が自律的な存在として機能するという信念は、形式主義を通じて影響力を持っており、分析という行為を通じて実際的な形を与えられている。音楽を自律的なものとして理解するのは、それをバラバラな、自給自足的な構造として把握するということである。ドイツの哲学者イマヌエル・カントの著作、とりわけ 1790 年における彼の『判断力批判』(ル・ハレイ&デイ 1981, 214-29; カント 1987 )は、美学において自律性について考察する際、しっかりとした参照点となる。『判断力批判』においてカントは、無関心というアイデアを提示する。それが意味するのは、美的な反応は「何ものにもとらわれない( free )」のであり、他のものと――もっと一般的に言えば反応や欲求と、区別されているということである。カントはまた、芸術作品の目的は目的を持たないということなのだといった見方も取り上げている。言い換えれば、芸術作品とは、それ自体が目的なのである。 自律性というコンセプトが音楽との連関で最もダイレクトに使われたのは、 18 世紀、純粋な器楽曲の台頭のおかげで音楽と言語が分離した(つまりは自律性)のを記述するためだった。それは書かれた言葉と社会的な機能といった束縛、たとえば礼拝的・儀式的な文脈のようなもののどちらからも音楽が見事に解放されて以降のことである。言葉と言語の分離はドイツの哲学者 G.W.F. ヘーゲルへと続いていくこととなった。 19 世紀初め頃に行われた彼の美学についてのレクチャーでは「自己充足的な音楽」と言い表されている。 伴奏のための音楽は音楽の外部にある何かを表そうとしています。それが表そうとしているのは、音楽ではなく、それ以外の芸術、たとえば詩のようなものに属す何かと関係しています。さて、もし音楽が純粋に音楽的であろうとするならば、この外的要素は避けられ、根こそぎ排除されねばなりません。唯一それによってのみ、言葉の正確さという束縛から完全に解放されるのです。 (ル・ハレイ&デイ 1981, 351 ) カントにおける目的(機能)の不在は 19 世紀において主張された「芸術のための芸術」に反響し、ロマン主義が自身の持つ表現形式へと夢

【翻訳】DISCOURSE【ディスクール】

DISCOURSE ディスクールというのは 16 世紀から語りの様々なあり方を表現するのに使われてきたが、しかし最近ではポストモダン文化論者たちが、凝り固まった文化的通念のシステムを暴き、社会におけるアイデンティティの、意味の、表現の、そして移り変わりやすい知の、新たな特性を主張することに適用される。フランスの人類学者であり文化論者ミシェル・フーコーにとって、ディスクールとは語り方の体系( system )である。それを通じて世界や社会、あるいは自分そのものを認識し、理解し、相関的な文脈に置くことができるのだ(フーコー 1972 )。この意味で、ディスクールは音楽活動を取り囲んでる評論として、そして美学的な通念――演奏家、作曲家、研究者、そして聴衆といった人たちの物の見方を形成し、影響している――として理解されるかもしれない。ディスクールと音楽活動との関係性の本質は、無意識的なものであり、発展のプロセスに従ってきた。しかしながら、作曲家の自伝や対談本の場合、ディスクールというのはもっとややこしいものになるだろう。たとえばロバート・クラフトによるストラヴィンスキーの対談本に見るように、作曲家や著者の声がどうしてもまぜこぜになってしまうのだから(ストラヴィンスキー 2002 )。あるいはこうした本は、作曲家の持つ自分自身の感性には効果的なものかもしれない。さらに重要なのは、このような評論を通して、作曲家もまた自分の音楽をめぐるディスクールに影響を与えられるということだ。このことはとりわけ作曲家のナショナリズムについての見方に関するディスクール(ヴォーン・ウィリアムズ 1996 )、あるいはたとえばモダニズム(シェーンベルク 1975 )やポストモダニズムといった美学的な立ち位置に影響を与える際に重要だ。 音楽についてのディスクールが問題になるのは、音楽についての議論が音楽とは異なる言語でなされているという事実によるのだが、にもかかわらず言語学は音楽学的な思考に影響を与えてきた。ロシアの言語学者にして文学理論家ミハイル・バフチンの、作者とその〔作中の〕登場人物との散漫な距離に関するアイデアは、アメリカの音楽学者エドワード・コーンの、 音楽作品の中には 〈作曲者の声〉が存在するという示唆に反映されている――そこにおいて作曲者の声というアイデアはオーケストラにおいて語

【翻訳】FEMINISM【フェミニズム】

FEMINISM 広くフェミニズムと呼ばれてるような運動への最初の刺激となったのは、より平等で包括的な社会を構築するために、政治的・経済的・社会的・文化的なディスクールの形態において女性が男性によって軽視され、あるいは下位のものとされている状況を逆転させようという関心だった。理論としては、それはメアリ・ウルストンクラフトの「女性の権利の擁護」( 1792 )にまで遡れる。第二次世界大戦が終わった直後からしばらく間を置いて社会における女性の経済的・政治的な立場への関心が生まれ、フェミニズム論は女性の文化的な経験に注意を向けるようになった。最近では、多くの異なったタイプのフェミニズムが起こってきた。マルクス主義やリベラル・フェミニズムを含め。フェミニズムは 1980 年代に広く新音楽学とカテゴライズされる他の学際的なアプローチと並んで、音楽学の主要な関心となった。このことに先んじて、 1970 年代、音楽学者たちはすでに忘れられた女流作曲家や演奏家を再発見し始めており、この観点から〈天才〉や〈カノン(規範)〉、〈ジャンル〉、〈時代区分〉といったような、既存の概念について吟味し始めていたのだ。しかしながら、 1980 ~ 90 年代を通じて、スーザン・マクレアリやマルシア・シトロン、ルース・ソーリーといった音楽学者たちは、一般的な規範から女流作曲家を閉め出す文化的な理由について考え始めていた。他の著作家たちは女性はどうしても生態的に男性より作曲をするのに適していないという、かなり本質的な見方、つまり決して実証されえなかった主張(ハルステッド 1997 )に疑問を投げかけている。そうではなくて、女性の作曲家が欠落していることは、社会的・政治的な条件次第で説明せねばならないわけだ。 マルシア・シトロンはジェンダーと音楽における規範という問題について研究した。つまり、ジェンダー化されたディスクールとしての音楽という考え方や〈プロ〉という理念、女性の音楽受容という問題について(シトロン 1993 )。彼女の研究はまた、音楽生産の側についても再考している。彼女が注意を引いたのは、 19 世紀初期に、ベートーヴェンやシューベルト、ショパンといった作曲家によるソナタや他の室内楽曲が、プライベートなサロン――それはしばしば女性によって確立されたものだった――において享受されていたとい

【翻訳】MEANING【意味】

MEANING 音楽はしばしばその表現上の可能性や特性についての用語によって表される――それがこの、意味( meaning )という話題を、また「何はともあれ、音楽は何を意味するんだ?」という問題提起を引き起こすのだが。 この問いかけは音楽史・音楽学史、いずれにおいても繰り返し言われており、音楽美学におけるお決まりの問いかけのひとつである。もっとも、この問いかけは長い歴史を持ってはいるが、充分なフォーカスが当てられたのは 19 世紀において――その頃、ロマン主義と呼ばれるような音楽においてますます増大する主観性や表現上の可能性が、音楽に関する書物との相似を発見したのだ。 音楽の本質とその意味についての議論はウィーンの音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックの『音楽美論』( 1854 )という出版物から展開された。この本は音楽や意味についての話題を取り巻いている多くの前提をこの問題の中に呼び込み、音楽における自律性という主張や形式主義者が、音楽作品を理解するためのバイブルとして位置づけられた。ハンスリックにとって、音楽は「響きつつ動く形式」(ハンスリック 1986, 29 )を内容とするものだった。言い換えれば、音楽の内的構造がその本質と固有性を理解するカギだったわけだ。ハンスリックの批判はワーグナーの音楽に、そして他の作曲家や関連する話題に向けられていた。ワーグナーの反応は、自作のオペラ《マイスタージンガー》( 1867 )においてハンスリックをベックメッサーという衒学者として登場させるというものだった。 19 世紀音楽が「非」音楽的、あるいは音楽「外」的な観点と呼ばれうるものを包み込むために、外部を見ていたということは、ワーグナーの楽劇という文脈に通じているのだ。しかしながら、ワーグナーはその時代における音楽風景もその遺産もどちらも支配していたのだが、そこにはまだハンスリックが提唱した形式的・自律的な力としての音楽という概念からの強力な流れがあった。 音楽上の意味に関する最近の研究では、イギリスの音楽学者ニコラス・クックがハンスリックの残したものについて考察し、意味についての議論がまだ形式主義の根底にはあるということを示す。 問題あるハンスリック派の後継者は、たいていその哲学者の作品において――そして、もっと最近では、アカデミックな議論における意味についての問題を再

【翻訳】フランシス・ベーコン《自画像》(1971)

FRANCIS BACON “Self-portrait” , 1971 oil on canvas, Paris, Center Georges Pompidou -  © Artists Rights Society (ARS), New York/VG Bild-Kunst, Bonn 晩年のインタビューの中で、アイルランドの画家フランシス・ベーコンはこんなことを打ち明けた。「ぼくは自分の作品が不穏なものだなんて、一度も考えたことはない」。おそらく彼はそう考えてなかった。しかし、事実として、ベーコンの人物造形―自画像も含め―は、ほとんど冷淡なものをもたらしてきた。最大限の解釈では、ベーコンのスタイルはこれまでの絵画の規範すべてを拒否している、美に関するものだけではなく。それはまた、彼の時代に支配的だった抽象表現主義に反対してのことだった。彼はピカソを認めて、「ピカソは形態的な絵画を生んだ第一人者だ。それは外観についてのルールをひっくり返してしまった。彼はお決まりの記号を使わずに、つまり形態の、見た目上の真実に対して敬意を表さずに、そうじゃなくて、不合理なものが持つ生命力を使った外観を示したんだ。見た目をより強く、より直接的なものにするためにね。だからその形は、脳みそを介すことなく、目から腹へと直接届くんだ(…)」〈ゴヤ的な〉何か―〈惨禍〉や〈黒い絵〉といったゴヤの作品から来てる何か―が、ベーコンの自画像にはある、他にも議論を呼ぶ絵画が彼にはたくさんあるのだけれど。たとえば教皇の肖像画とか、友人のジョージ・ダイアーについての形態的な習作であるとか。 Francis Bacon: self-portrait, 1971 http://www.theartwolf.com/self-portraits/bacon-self-portrait.htm

【翻訳】ABSOLUTE【絶対性】

Musicology: The Key Concepts (Routledge)  から。 ABSOLUTE 絶対音楽という概念は19世紀のロマン主義に台頭し、まず初めにヘルダーのような哲学者やE.T.A.ホフマンのような批評家の書物から、うまく言語化されました。しかしながら、逆説的ではありますが、リヒャルト・ヴァーグナーの書物においてそれは、音楽的・哲学的な表象に付与されたものでした。彼はこの用語を鋳造したわけです(ダールハウス 1989年a, 18)。それは純粋にそれ自体を超えた何ものも参照せずに存在しているように思われる器楽曲に関係し、しばしば標題音楽の、あるいは叙述的な内容をもつ音楽の、対立項として見られていたのである。それはしたがってウィーンの批評家エドゥアルト・ハンスリック論争において特徴的である。彼はワーグナー作品の音楽外的な側面に攻撃をしかけ、そして、純粋で絶対な音楽の理解を通じて、美的な自律性と音楽形式主義という主張を導き出したのだ。 E.T.A.ホフマンのベートーヴェンに関する書物は器楽曲の重要性を向上させ、それをロマン主義の文脈の中に位置づけた。有名なベートーヴェンの交響曲第5番(1807-8)のレビューにおいて、ホフマンは以下のことを明らかにする: 音楽が独立した芸術として語られる時この用語はもしかすると器楽曲にしか適用できないかもしれない。それはあらゆる助力を、他の芸術のあらゆる混合を、そして与えられた純粋な表現を、それ自体のもつ特定の性質のために軽視しているのだ。それは全ての芸術の中で最もロマン主義的なもの―純粋にロマン主義的な、唯一のものと言えるかもしれない―なのだ。 この「独立した芸術」という示唆は、絶対音楽の暗示によって、器楽曲を向上させ、偉大な作品という規範の形成を通じて、つまり交響曲というコンテクストによってかなり明白に定義されたプロセスを通じて、高い美的価値に帰した。 ワーグナーにとって、絶対音楽は、自身の楽劇という観点から、批判の対象だった、それは最も広範囲な音楽的かつ音楽外的な世界を包含することを求めるものだったのだ。しかしながら、ベートーヴェンの交響曲第9番(1822-4)への参照を通じて、ワーグナーは移行という、あるいは台頭という意味を提示する。第4楽章における器楽的なレチタティーヴォについて、ワーグ

【翻訳】RECORDING【録音】

なんとなく、Musicology: The Key Concepts (Routledge) の気になった項を訳してみる。 自分の勉強になると思われるから。 RECORDING  録音(recording)というのは、19世紀からずっと音楽と特別な関係を持つようになった考え方である。音を録り、再生するという電子的な手法が生まれたことは、楽譜のない(non-notated)音楽の研究や分析に重大なインパクトをもたらした。それはポピュラー音楽やジャズ(アイゼンバーグ 1988、クック 1998b参照)、民謡、そして非西洋音楽も含んでいる。  録音技術という存在は民族音楽学の成立においてさえも重要な役割を担っていた。すべての音楽を録音することは政治的・社会的・そして文化的な結果だったのだ――近頃では所有権や著作権の問題が生じてきてしまっているが(アタリ 1985、カイル&フェルト 1994、ヘズモントハルフ 2000)。録音という存在は演奏の歴史を研究する(フィリップ 1998)、学者が正当性という考え方を再評価できる(タルスキン 1995、235-61参照)、そういった可能性を生み出したのである――録音の歴史が始まったというだけではないのだ(Chanan 1995)。1940年代、50年代からは、スタジオが作曲のツールとして使われるようになった――それは新しい音楽の形式、ジャンル、そして、たとえばサンプリングのような技術を導き出すものだったのだ(Hebdige 1987、Metzer 2003参照)。特定のタイプの音楽――たとえばセリアリズムのような――は録音され、放送メディアが支え、維持した。それは聴衆の趣味に影響を与えるのに効果的な特色を持っていた(Doctor 1999)。録音は様々な種類の音楽の混合を導き出した。それは1960年代後半のポピュラーミュージックやジャズに前衛的な技法が入り込んでいったことからも確かめられるだろう。ビートルズのように、ライヴ演奏を捨てて、録音という形式を好むミュージシャンたちもいた。しかしながら、録音は多くの問題ある理論上の問題を生じさせた。そのいくつかを以下に概述しよう。  1930年代の終り、ドイツの批評家ヴァルター・ベンヤミンとテオドール・アドルノの間に、画像と音声を再生産するのに使用されるテクノロジーというテーマに