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5月, 2013の投稿を表示しています

2013/5/19 映画とアニメとマンガ。

■ 最近、ホラーが平気になってきた。 ジャパニーズホラーは相変わらず苦手だが、 スプラッター系くらいならまだイケる感じにまで耐性がついてきたらしい。 で、調子に乗って、 YouTubeで『モータルコンバット』のFatality動画など、 グロ系で噂には聞いていたが、 今まで手が出せなかったものに挑戦してみることにした。 ■ ニコニコ動画に上がっていた『白鯨伝説』を見る。 メルヴィルの『白鯨』から着想を得て、 独自のSF世界と壮大なストーリーが展開される。 子どもの頃、とぎれとぎれに見ていたものだが、 いま見ても面白い。 胸が熱くなる展開。魅力的なキャラクターたち。 非常に素晴らしいアニメです。 ■ 『新ナニワ金融道』が無料で読めるというので、 ダウンロードして読み始めた。 反則級の面白さだ。 時間も忘れてどんどん読んでしまう。 読んでいると元気も出てくる。 最近読んだ中でもイチオシのマンガだ。 x

【翻訳】MARXISM【マルクス主義】

Musicology: The Key Concepts (Routledge) から。 MARXISM マルクス主義というのは主にカール・マルクスとその共著者フリードリヒ・エンゲルスの著作に関するものだが、こういった著作を解釈し確固としたものにしようとするのちの試みもまた含まれる。その関心と影響の中心的な領域は経済と政治だけれども、マルクス主義には社会的・哲学的な側面もある。マルクスが強調しようと試みたのは、資本主義を検証することによって社会の経済的な基礎と、はっきりと社会的・経済的に規定された階級に抵抗・挑戦する意志である。マルクスにとって、社会とは経済的な基礎によって規定されるものだった。このことは、下層階級プロレタリアートの抑圧と搾取に基づいた社会・政治の関係を決定した。しかしながら、マルクスはこの階級を潜在的な力とみなした。それは革命的な政治的文脈の中で開放されうる。1848年のヨーロッパ中で起こった革命的な大変動はこの時期のマルクスの著作に劇的な文脈をもたらした。その年、彼の『共産党宣言』はふたつの極がひたすら負かし合ってきたという歴史観を呈した。 これまで社会に存在した歴史というのはすべて階級闘争の歴史であります。自由人と奴隷、貴族と平民、君主と農奴、親方と徒弟、ひとことで言えば、抑圧する者とされる者はコンスタントに取っ替え引っ替えを繰り広げてきたのです。邪魔されずに、時に隠れ、時に公然と戦いを続けてきました。それぞれの時代を、革命による社会の大規模な再構築か、戦っている階級の共倒れかのどちらかで終わらせてきた戦いを。(マルクス=エンゲルス 1998, 34-35) この歴史観が現在におけるマルクス理解を決定づけた。それはまたヘーゲル哲学の意識や弁証法的思考のあり方にも影響を与えた。マルクスはこれらの抵抗と敵対をテーゼとアンチテーゼの瞬間として、衝突をもたらす対照的な極として見た。そして、ここから新しい革命的な瞬間が生じようとしていた。しかしながら、たいていの議論はこのような行動や出来事の不可避性の問題と密接に関係してきた。 マルクスの著作が社会との関係の中で文化を理解することと大きく関係しているにもかかわらず、彼は芸術と文化の位置づけに関して、充分に発展させた理論はおろか、特にはコメントさえ寄せなかった。しかしながら、マルクス

ジェイムズ・ディッキー『白の海へ』

■ コーエン兄弟の映画にはいつも驚嘆させられる。 『バーバー』のどぎついジョークの淡々とした描き方、 『ファーゴ』のグロいのになんか笑えてしまうブラックな面白さ、 『ノー・カントリー』のハビエル・バルデム演じる殺人鬼の気色悪いくらいの怪演、 『バーン・アフター・リーディング』の飛び抜けたバカっぷり・・・などなど。 とは言うものの、 デビュー作である『ブラッド・シンプル』はおろか、 アカデミー賞にノミネートされた『トゥルー・グリッド』でさえ、 まだ見られてないので、 コーエン兄弟のファンを自認できるような人間ではありません。 ただ、「 コーエン兄弟 」という名前がくっついてると、 「おお、コーエン兄弟かぁ。これは見てみないとなぁ」 となる程度には好きなのだ。 ■ そんなもんだから、 『 コーエン兄弟        × ブラッド・ピット 映画化決定、舞台は日本!! 』 なんて売り文句の本があったら、 読んでみたくなってしまうのも当然なわけです。 それが、ジェイムズ・ディッキー『白の海へ』。 ■ 1945年、東京大空襲のさなかに 不時着したアメリカ人兵士が、 父と暮らしたアラスカの大地を思い出しながら、 東京から北海道へとひたすらに北進していく。 その途上ではアサシン顔負けの武術を使って、 日本の一般人を次々とぶっ殺して 食料やら衣料やらを手に入れて、 北の国で暮らしていく準備を整えていく。 ただ、「暮らしていく」とは言っても、 彼が憧れている暮らしとは テレビ見ながら呑気に暮らすというのではなく、 「フィッシャーテン」のように毎日、 その日の食料を狩って生き抜く、いわばモンハンのような生活だ。 なので、ストーリーが進むとともに装備もかなり充実してくる。 白鳥の羽を詰めた上着、熊や山羊の毛皮、 いろんな用途に使えるナイフ、北の地に住む先住民から入手した槍・・・。 こうした要素を主人公が奪っていく過程は、 その暴力性とは裏腹に非常に静かに描かれる。 こんな表現は「詩人」みたいで嫌いだけど、 「雪が降り積もっていくように」ゆっくりと積み重なっていく。 着実に着実に、軍隊の規律というよりも、 合理的な「狩り」のための計画が遂行されていく。 ■ 作品のラスト付近にはこん

【翻訳】エリフ・シャファク『イスタンブールの私生児』

エリフ・シャファク『The Bastard of Istanbul』(直訳:イスタンブールの私生児) TEDで知ったトルコの作家エリフ・シャファク。 Amazonで探したけど、 残念ながら日本語訳はまだされてないらしい。 仕方ないので英語で出ているやつを、 Kindleで無料お試し版をダウンロード。 ついでなので冒頭の部分だけちょっと和訳。 このエントリがきっかけになって、 誰かちゃんと翻訳してくれんものかしら。。。 書き出しはひたすら雨について書いてます。 雨だけでこんなに個性的に書けるのかと 感心してしまいます。 むしろこの後、 どういう風に展開していくのか気になりますね。 ■ ONE シナモン  いかなるものが天上から降ってこようとも、神にそれを呪ってはならない。そこには雨も含まれる。  たとえどんなものが降り注いできたとしても、たとえどんなに重い重い豪雨であったとしても、あるいはどんなに冷たい雹(ひょう)であったとしても、天国が用意してくれているものに対してはいかなる冒瀆(ぼうとく)も決してなされてはならない。誰もが知っている。そこにはゼリハも含まれる。  だが、7月の1周目の金曜日に、彼女はそこにいた。絶望的なほど混み合った道路の横に面した歩道を歩いていた。騎兵のように汗をかきながら、崩れたアスファルトの石に向けて――自分のハイヒールに向けて――声を荒げたところで道路の渋滞がなくなりはしないというのが都市における真理だというのに、狂ったように警笛を鳴らしまくるありとあらゆる運転手に向けて――その昔コンスタンティノープルという街を手にし、その間違いのために行き詰まりを見せたオスマン帝国に向けて――そして、そう、雨に向けて・・・このサイテーな夏の雨に向けて――次から次へと小さな声で悪態をつきながら。  雨はここでは苦行だった。世の中の別の部分で見れば、土砂降りというのはほとんどの人・物にとって間違いなく恵みとしてやってくるものだろう――穀物にとって良い、その地の動植物にとって良い、そしてロマン主義的な・余計なオマケを付けておくならば、恋人たちにとっても良いのである。もっとも、イスタンブールでは別だ。私たちにとって雨とは、必ずしも濡れてしまうということではない。汚れるということですらない。強いて言え

オホゲツヒメノカミのこと。

「古事記に出てくる神で誰が一番好きー?」 「オホゲツヒメノカミ」 「誰それー?」 「鼻とか口とかケツから食べ物を出す神」 「え・・・」 「スサノオノミコトに汚すぎ!って殺されたんだって」 「ええ・・・」 「その死体の頭から蚕が、目から稲が、耳から粟が、鼻から小豆、アソコから麦、アナルから大豆が生まれたんだって」 「えええ・・・」