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11月, 2013の投稿を表示しています

村上春樹の、質問に対する答え。

Q. 村上さんはマラソンにある創造性とは何だとお考えでしょうか? (20代・男性) A. 創造性はないよね。ただの反復だから(笑)。 でも音楽だって楽器の練習は反復じゃないですか。反復しなければ何もできない。 反復自体には創造性はないけれど、反復によって創造性の土壌ができるんだと思います。 (村上 春樹) ----------------------------------- 反復がないと、そもそも創造性そのものが生まれない、 という考え方。 何度も何度も繰り返していって、 自分の身体に染みこんでいった時に、 初めて、それ以上の、誰も見たことのない、 刺激的なものが姿を現す。 そのことを理解してると、 作品を見る時の、ものの見方が変わると思う。 美術にせよ、音楽にせよ、文学にせよ。

読みたい物語。

■ 物語を作るには最低3つのシーンが必要だ。 始まりとエピソードと終わりの3つ。 下手をすれば始まりと終わりのシーンさえあれば それらしい形になってしまう。 極端なことを言えば、すごく面白い始まりのシーンと、 すごく面白い終わりのシーンがあれば、 それなりに面白いものができてしまう。 これが物語を書く不思議でもあり、楽しいところでもある。 ■ しかしこれだと、とても短いものしか書けない。 そこで、始まりと終わりの間にエピソードを挟んでいく。 当然、エピソードの数を増やせば、物語は自ずと長くなっていく。 たとえば本1冊分の小説を書くとなると、 いったい、いくつのエピソードが必要になるだろう? ひとつのエピソードに2〜3ページを費やしたとすると、 90〜100くらいのエピソードが必要かもしれない。 ■ 小説を書く人であれば、 お風呂に入ってて突然 「ひらめいた!」 と小説のアイデアがひとつ浮かんできたなんて、 そんな経験があるかもしれない。 これはすごいとか、今後とも大事にあたためておきたいアイデアだとか、 自分の気に入ったアイデアに対する思い入れというのは、 往々にして強くなるものだ。 それを大切に、小説の形にしていく。 しかし、本当に面白くって内容のある小説には、 そういう「ひらめいた!」レベルのエピソードが、 つまり作者がずっと大事にあたためてきた、熱い思い入れのあるアイデアが、 何十も、何百もページの中に満ちている。 もちろん、そういう本はすごくすごくすごく、すごく珍しい。 ■ ぼく個人としては、 無理をしてまで珍しい本を書こうとする必要はないと思う。 というのも、それをしようとすると、 たいていはひとつかふたつのそれなりに良いアイデアに、 適当な始まりやいい加減な終わりがくっつけられて、 まるで生物実験から生まれたキメラみたいにいびつになるのが関の山だからだ。 自分の作品に対する愛も、思い入れも、そこには感じられない。 そんなものは読んでて楽しくない。 始まりと、エピソードと、終わりのシーン。 これだけで十分だ。 それが読みたい。 x

フォークナーのお気に入りカクテル。

ノーベル賞作家フォークナーは 「トディー」というカクテルがお気に入りだったらしい。 レシピは以下のとおり。     バーボン(ホワイトウイスキーでも可)・・・・・・・・・60ml     水(お湯でも可)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・120ml     レモンスライス1枚(あたたかいのを作る場合は半片)とレモン汁+皮付き     砂糖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1さじ ところで、フォークナーといえば『野生の棕櫚』、 と言ってもぜんぜん共感してもらえないんですが、 ぼくがフォークナーの中でもお気に入りのフレーズはこちら。 「雪明りの最後の光も消え、いまはなにかエイゼンシュタインがダンテを映画にしたような光景へ入っていった」 (フォークナー『野生の棕櫚』より) この「エイゼンシュタインがダンテを映画にしたような」って形容の仕方、 絶妙すぎませんか? すんません、それだけです。 Paris Review - Faulkner’s Cocktail of Choice http://www.theparisreview.org/blog/2013/10/23/faulkners-cocktail-of-choice/

本を読むスピードについて。

■ 「図書館女子」という言葉をご存知でしょうか。 中学・高校時代、クラスの中では静かでおとなしい感じで、 たいてい小柄で、黒髪で、メガネをかけてて、 毎日のように図書室や図書館へ行って、 自分の好きな作家の新刊をチェックし、 昼休みはもっぱら図書館のバーコードのついた単行本を開いている、 そういう類(たぐい)の女の子がひとりはいたと思うんです。 (これの男子バージョンを「図書館男子」とか「文学少年」なんて呼んでも構わないでしょう) とにかく「子どもの頃から本が好き」というタイプには、 こういう子が多いようにぼくは思うわけです。 実際、「図書館女子」に分類されるような女の子に萌える男もいると聞きます。 どうやら結構人気のジャンルのようです。 しかし、 ぼくは 「文学少年/図書館女子って可哀想だな」 と常々思っていて、 かつ、これまでその理由をうまく説明できずにいました。 そこへ来て、先日ふと浮かんだのが次のツイート。 文学少年/図書館女子の弱点って、手に入れた本は3日以内(遅くとも一週間以内)に読み終えなければならないという強迫観念に駆られてることだと思う。 個人的には、10年後、あるいは死ぬまでに読み終えたらいいやっていう感覚で楽しむ読書もなかなか乙なもんだと思うんだけどなぁ。 — にらた (@pr_nirata) October 30, 2013 そうなのだ、彼/彼女たちが不幸に見えるのは、 手に入れた本は3日以内(遅くとも一週間以内)に読み終えなければならない という強迫観念に駆られてるみたいだから、なのだ。 彼らにとって読書というのは、 一冊の本を、 最初から最後まで、どれくらいのスピードで読めるかという、 タイムアタックみたいになってしまってる。 けど、本当に読書ってそういうものなのでしょうか? 今日お話したいのはそのことについてです。 ■ 本というものがほかのメディアに異なる点は いろいろあるんだけど、 そのひとつとして「時間の伸縮性」というポイントがあると思います。 たとえば映画や音楽というのは、 見たり聞いたりしていれば、勝手に時間が進んでいく。 だから寝てたり聞き逃したりすると 「あれ? いつの間に終わってたの?」