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投稿

坂本龍一『B-2 Unit』(1980)

無性に坂本龍一の『B-2 Unit』がききたくなった。 べつにインタビューを読んだりとかしてないので根拠はないし、これはただの想像にすぎないんだけど、坂本龍一はこのアルバムを制作にするにあたって「いかにしてポップスのクリシェをじぶんの語法のなかに引き込むか」ということを考えてたんじゃないかな。 1980年までに坂本龍一は(主にYMOで)一躍人気ミュージシャンになった。マスメディアと関わること……大衆に音楽を提供すること……と西洋近代の「芸術家」的なあり方との狭間でどうバランスを取っていくのかということはじぶんの人生の方向性を決定づける大きな問題だったとおもう。言い換えるなら、音楽で「食ってく」ことと「自分らしさ」をどう両立するか、ということだ。仕事をしないと体が保たないが、じぶんの表現をしないと精神が保たない。 とはいっても、このアルバムをきいていて彼が大衆的な音楽を軽視してたとはおもえなくて、むしろ楽しんで制作していたようにおもう。じぶんが仕事で扱っている音楽と、表現としての音楽(彼が大学で学んだであろうアカデミックな音楽語法)とをどう結びつけるのか。どうすれば結びつくのか。そういう接点を探しているようにもきこえる。そういう思考(試行)の痕跡が音として形式化した音楽。ぼくはそういうものに憧れる。だから、こういう想像をするのはたぶん、じぶんの願望をこのアルバムに投影してるからなのかもしれない。 あとこれは余談なのだけど、「これ、全部アナログで音つくってひとつひとつ録って重ねてるんだなー」と、その途方もない作業量を想像して目眩がする。現代のDAWとソフトシンセに甘やかされてるじぶんにはとうてい耐えられそうにない。そういう観点も忘れちゃいけない。
最近の投稿

葉月Ⅲ

フランス語みたいな映画だ と葉月はおもった 外国語の授業を受けていた教室のにおい 隣の席だった男の子と一度 学食でごはんを食べた 「今度いっしょに遊ぼうよ」と彼 「うん、また今度ね」 どっちともとれる曖昧な返事だ ずるいな と葉月はおもった 何もしなくても 眠ってるうちに 喋ってるうちに トマトみたいにつぶれてしまう フランス語みたいな映画 窓の隙間から わたあめになる前の ザラザラの砂糖 積乱雲の都市(まち) nirata · August III / 葉月Ⅲ

所信表明

音楽にせよ、文章にせよ、書きかけの、未完成のものが山積みになっている。 このブログに載せようとおもっていた記事も下書きの状態で眠っているものがいくつもある。 サビだけおもいついてスケッチだけした音楽のプロジェクトファイルも100以上ある。 たまにひらいて続きをつくろうとするのだが、何も思いつかず手が止まってしまう。 じぶん自身そこまで意識したことはないのだが、どうやら何かすごいことをしなければならないと気負っているらしい。 「ブログにしてはあまりに内容がなさすぎる」とおもってしまったり、前に作った曲と同じ展開でつまらない(新曲として発表するには中身が薄すぎる)とおもってしまったり。年々あたらしく何かを作り続けるうちに、どんどんじぶんのハードルをじぶんで上げていってたようだ。 ところが、ブログに書かないで溜め込んでしまったものをTwitterに放出してしまうと「ツイートにしては重すぎる」ものが他人のTLに雪崩込んでしまい、迷惑だ。 そういうわけで少なくともブログに関してはハードルをどんどん下げていきたいと考えている。 しばらくその位置づけがわからず放置されていたけれど、日記のようなものとしてこのブログをあらためて活用できたらいいなと。 うまくいくかはわからないけれど、ひとまず所信表明として、ね。

「ICO」をプレイしたこと

美術館が好きになった瞬間ならいまでも思い出せる。 富山県美術館に行ったときだった。 自動ドアを抜けると、淡いベージュを基調にした内装。何十年も前からあるようにもみえるし、開館してまだ1日しか経ってないようにもみえる。メインフロアは大きな吹き抜けになっていて、螺旋状のスロープが階上へと続いている。巨大なジッパーの付いた怪物の描かれた岡本太郎ならではの絵、黒地に花火が横殴りに降り掛かってるような抽象画、どこを描いたのか何を描いてあるのかわからないほど色褪せて沈んだ色合いの風景画、フランシス・ベーコンの描いた誰かの肖像画。どれも物静かで、激しく感情を揺さぶられるなんてこと(多くのひとが芸術に求める)はないのだが、美術館を後にする頃にはとても満足していた。 「ICO」をプレイして数時間が経過した頃ぼくはこの美術館での感覚を思い出していた。といっても、このゲームの世界に美術品が陳列されているわけではない。この世界にあるのは息を止めたように静まり返った古城と窓から空から射し込んでくる眩い陽光、迫りくる黒い影、そして角の生えた少年(イコ)と白い肌の少女(ヨルダ)だ。 ぼくはイコを操作してヨルダといっしょに古城から脱出することを目指す。しかし困ったことにヨルダは放っておくと勝手にどこかへ行ってしまい、挙げ句、黒い影に連れ去られてしまうとゲームオーバーとなる(イコは石になってしまう)。そのため手をつないで行動をともにし、ヨルダを守らなければならない。 はじめの印象こそ「ゼルダの伝説」に似た謎解き3Dアクションといった趣だったが、次第にゲーム性は二の次になっていった。たまにヨルダを捕まえようと姿をあらわす黒い影たちを木の棒で殴り倒す……それよりも派手なことはめったに起こらない。舞台である城内はつとめて薄暗く冷たい静謐を湛えているのだ。しかし、ひとたび城の外に出れば空からは噓のようにやさしい陽光が降り注ぎ、小鳥がさえずっている。その様子があまりにのどかなので、あたりに茂った背の低い緑のなかにおもわず体を預けたくなるほどだ。 個人的にお気に入りのシーンは「石柱」と呼ばれるパートで見られる、謎の大広間だ。よくよく見るとこの部屋には怪物を模したような石像が其処此処に配されていて、天井も他の部屋に比べて高かったようにおもう。もしかすると何かの儀式をするための特別な空間なのかもとおもいたくなった。

「アラベスク」九鬼周造

オシリス、アビス、牛の神 鰐の齒、蛇の目、獅子の髪 輪廻轉生とはの浪 天動要義、幾何原理 生軆解剖、血は淋漓 木乃伊(みいら)は朽ちず禁苑裏 ツウタンカモン、金字塔 パピルス繪巻、獅子像 名器珍賓無盡藏 黒絽のかつぎ、頬冠(ほほかむり) 耳輪の飾、惚れ薬(ぐすり) クレオパトラは色を賣り 日月、星辰、棗椰子(なつめやし) 紅海、砂漠、ニルの葦(あし) 昔も今も變り無し

リュック・フェラーリ紹介

 「現代音楽」という音楽ジャンルは、(ほかのジャンルと同じように)常に伝統的な枠組みから抜け出そうとする強固な意志によって形成されてきた。とりわけ「現代音楽」にはキーパーソンが存在したから分かりやすい。ジョン・ケージ(1912‐1992)だ。  「音楽」そのものを問い直した彼のスタンスは、当時の西洋世界においてかなりショッキングなものであった。というのも、日本ではなかなかイメージしにくいが、西洋では伝統的に「楽器」から発せられた音響によって音楽は構成されると考えられていたからだ。木々のざわめきや川のせせらぎ、虫の声などは単なる雑音(楽器以外の音)に過ぎず、とうてい音楽となり得るようなものではなかった。  そうした「伝統的な耳」に厳しく沈黙という音楽のあり方を突きつけたのが、「4分33秒」だった。 John Cage: 4'33"  ケージの考えによれば音楽はふたつの音によって成っているという。ひとつは意図的に発せられる音(楽器の音など)、そしてもうひとつは意図的でない音(楽器以外の音)。そして、この「4分33秒」という作品においては、沈黙、つまり「意図的な音がない」という状態に聴衆の耳を傾けさせることに意義があった。一般的にはひとつのジョークとして受け取られている節がないでもないが、「音」という対象の幅を拡大したケージの功績は大きいと言わざるを得ない。 *  このようにケージがアメリカで楽器の音の鳴らない音楽を発表したのとほぼ時を同じくして、ヨーロッパでも似たような動きがあった。フランスにおいてピエール・シェフェール(1910‐1995)とピエール・アンリ(1927‐)が結成した「ミュージック・コンクレート(具体音楽)」だ。「具体」という言葉を使うのは、楽器の音に比べて、たとえば電車の音や人の話し声が、何か具体的なイメージを想起するから。彼らはその頃出始めたばかりの録音機材で様々な音を録音し、それらをつなぎあわせて作品にする、ということをしたわけだ。  しかしながらこの具体音をつなぎあわせて作る音楽は、できあがりを聴いてみると当時の技術的な問題もあるのかもしれないが、どこかチグハグで、秀逸なMAD動画などを見慣れている現代の感覚からすると多少残念な心持ちがしてくるものだ。  また、確かに当時の耳からすると音響的

海外小説の訳文についてちょこっと。

最近になって海外の小説をよく読むようになりました。 けど、なんでもかんでも楽しく読めてるわけではなくて、 いやむしろほとんどが読みにくくて、途中でやめてしまいます。 とくに、翻訳している人の文章が気に入らなくてやめてしまう、 ということが多いような気がします。 なかでも、ぼくは柴田元幸の訳文がかなり苦手のようで、 いままで彼の訳した小説を最後まで読みきれたことがありません。 どんなに、「うわ、これ、面白そう!」と思っても、 数ページ読んで、すぐに「うわぁ・・・」となって、 訳者を確認したら、柴田元幸だった、ということがよくあります。 (とくにこの人は翻訳してる作品が多いから・・・) いや、もちろん、柴田元幸の悪口が書きたいわけじゃないんです。 なぜ柴田元幸の訳文を読みにくいと感じてしまうのか、 ということを、前からずっと考えていたんです。 そんな折、『すばる』2015年5月号に載っていた 水村美苗と鴻巣友季子の対談を読んで、 ある箇所に、ピーンときた。 水村  鴻巣さんは片岡義男さんとの対談集『翻訳問答』の中で、翻訳のtransparecy(透明性)についてお話なさっていましたが、あれはすごく面白かった。欧米における「透明な翻訳」とは、もともと自国語で書かれたような訳文を指す。それに対し、日本では、逆に 原文が透けて見えてこれは翻訳だとわかるような訳文 のことを指す、ということですね。これは、やはり、中心的な文化と周縁的な文化との違いもあるでしょう。その非対称的な関係が、翻訳にもそのまま現れる。周縁的な日本では、翻訳があって当然で、翻訳の文章は、普段使っている「日本語」とは違って構わないという大前提がありますよね。 鴻巣  だから、あえて引っかかりのある異化翻訳もできます。それが日本での「透明な翻訳」です。 水村   「外国」というものに触れているという印象があったほうがいい ということですね。香水の匂いがするのであって、伽羅ではないのだ、という。「天国」などという言葉は、翻訳を通じて、今や日本語の一部となったように見えますが、それでもやはり異国情緒が残りますよね。 「翻訳の透明性」というとわかりにくい方もおられるかもしれませんが、 たとえば洋画を見るときに、 洋画見るなら、やっぱ字幕スーパーでしょ! っ