エリフ・シャファク『The Bastard of Istanbul』(直訳:イスタンブールの私生児)
TEDで知ったトルコの作家エリフ・シャファク。
Amazonで探したけど、
残念ながら日本語訳はまだされてないらしい。
仕方ないので英語で出ているやつを、
Kindleで無料お試し版をダウンロード。
ついでなので冒頭の部分だけちょっと和訳。
このエントリがきっかけになって、
誰かちゃんと翻訳してくれんものかしら。。。
Kindleで無料お試し版をダウンロード。
ついでなので冒頭の部分だけちょっと和訳。
このエントリがきっかけになって、
誰かちゃんと翻訳してくれんものかしら。。。
書き出しはひたすら雨について書いてます。
雨だけでこんなに個性的に書けるのかと
感心してしまいます。
むしろこの後、
どういう風に展開していくのか気になりますね。
■
ONE
シナモン
シナモン
いかなるものが天上から降ってこようとも、神にそれを呪ってはならない。そこには雨も含まれる。
たとえどんなものが降り注いできたとしても、たとえどんなに重い重い豪雨であったとしても、あるいはどんなに冷たい雹(ひょう)であったとしても、天国が用意してくれているものに対してはいかなる冒瀆(ぼうとく)も決してなされてはならない。誰もが知っている。そこにはゼリハも含まれる。
だが、7月の1周目の金曜日に、彼女はそこにいた。絶望的なほど混み合った道路の横に面した歩道を歩いていた。騎兵のように汗をかきながら、崩れたアスファルトの石に向けて――自分のハイヒールに向けて――声を荒げたところで道路の渋滞がなくなりはしないというのが都市における真理だというのに、狂ったように警笛を鳴らしまくるありとあらゆる運転手に向けて――その昔コンスタンティノープルという街を手にし、その間違いのために行き詰まりを見せたオスマン帝国に向けて――そして、そう、雨に向けて・・・このサイテーな夏の雨に向けて――次から次へと小さな声で悪態をつきながら。
雨はここでは苦行だった。世の中の別の部分で見れば、土砂降りというのはほとんどの人・物にとって間違いなく恵みとしてやってくるものだろう――穀物にとって良い、その地の動植物にとって良い、そしてロマン主義的な・余計なオマケを付けておくならば、恋人たちにとっても良いのである。もっとも、イスタンブールでは別だ。私たちにとって雨とは、必ずしも濡れてしまうということではない。汚れるということですらない。強いて言えば、怒りだ。ひどく嫌なもので、めちゃくちゃで、怒りの対象なのである――まるでそれぞれが充分に補い合えていないかのように。それから、もがき。いつだってもがくことになるのだ。子猫が水でいっぱいのバケツに放り込まれた時のように、1億の私たちがみな、雨粒に無駄な戦いを仕掛けるのである。この喧嘩は独りでやるものではない、と言ってもいい。というのは、道路もまたその中にいるからだ――ブリキの標識に貼りつけられた古くさい名前を掲げて。また、至るところに散財しているいくつもの聖人の墓石も。ほぼすべての角で待機している山積みのゴミも。けばけばしい現代建築に建て替えるべくすぐさま穴のあけられたおそろしく大きな構造物も。そして、カモメも・・・。ひらけた空から頭上に唾を吐きかけられたら、誰だって怒る。
しかし最後の雨粒が地面に、そしてそれ以上に多くが今や塵ひとつない葉によろよろと落ち着いていくと、その無防備な瞬間に――やっと雨が止んだのかと――雨が降ってないとまだ完全には確信していない時に、まさにその間、世界は静寂となる。
長い時間のあいだに、空はまるで自分が私たちに混乱を残していったことを謝っているかのようだ。私たちは、自分の頭にまだ少しばかり雨粒を残しながら、袖を汚しながら、人目を集めてわびしさを味わいながら、空を睨み返す。するとさっきよりも軽やかで今までにも増して明確な、濃い青色の影があるのだ。私たちは見上げはするが微笑み返すことはできない。私たちは彼女を許す。いつもそうする。
しかしながらその時はまだ雨が降っていたし、ゼリハは何であろうと心の中に許しなどほんの少しも持たなかった。彼女は傘を持っていなかった。というのも、彼女はこう心に決めていたからだ。もし自分が、太陽が戻ってきたらあちこちに忘れていくのに余分な傘を求めて余分な商人に一握りのお金を投げ与えるくらいの阿呆だとしたら、骨までずぶ濡れになる方がマシだと。
ともあれ、今となっては何をするにも遅すぎた。彼女はすでにぐしょぐしょに濡れていたのだ。それは嘆くためになぞらえる雨についてのひとつのことだった。あなたは触れないまま、安全なまま、乾いたままにしておくのにいちばんのことをしましたが、もし失敗した時には、絶え間ないほとばしりとしての雨粒という立場から問題を見ずに始めてしまったという一点に辿り着くのです。そしてそれによってあなたは自分がずぶ濡れになってもいいやと決めるのです。
たとえどんなものが降り注いできたとしても、たとえどんなに重い重い豪雨であったとしても、あるいはどんなに冷たい雹(ひょう)であったとしても、天国が用意してくれているものに対してはいかなる冒瀆(ぼうとく)も決してなされてはならない。誰もが知っている。そこにはゼリハも含まれる。
だが、7月の1周目の金曜日に、彼女はそこにいた。絶望的なほど混み合った道路の横に面した歩道を歩いていた。騎兵のように汗をかきながら、崩れたアスファルトの石に向けて――自分のハイヒールに向けて――声を荒げたところで道路の渋滞がなくなりはしないというのが都市における真理だというのに、狂ったように警笛を鳴らしまくるありとあらゆる運転手に向けて――その昔コンスタンティノープルという街を手にし、その間違いのために行き詰まりを見せたオスマン帝国に向けて――そして、そう、雨に向けて・・・このサイテーな夏の雨に向けて――次から次へと小さな声で悪態をつきながら。
雨はここでは苦行だった。世の中の別の部分で見れば、土砂降りというのはほとんどの人・物にとって間違いなく恵みとしてやってくるものだろう――穀物にとって良い、その地の動植物にとって良い、そしてロマン主義的な・余計なオマケを付けておくならば、恋人たちにとっても良いのである。もっとも、イスタンブールでは別だ。私たちにとって雨とは、必ずしも濡れてしまうということではない。汚れるということですらない。強いて言えば、怒りだ。ひどく嫌なもので、めちゃくちゃで、怒りの対象なのである――まるでそれぞれが充分に補い合えていないかのように。それから、もがき。いつだってもがくことになるのだ。子猫が水でいっぱいのバケツに放り込まれた時のように、1億の私たちがみな、雨粒に無駄な戦いを仕掛けるのである。この喧嘩は独りでやるものではない、と言ってもいい。というのは、道路もまたその中にいるからだ――ブリキの標識に貼りつけられた古くさい名前を掲げて。また、至るところに散財しているいくつもの聖人の墓石も。ほぼすべての角で待機している山積みのゴミも。けばけばしい現代建築に建て替えるべくすぐさま穴のあけられたおそろしく大きな構造物も。そして、カモメも・・・。ひらけた空から頭上に唾を吐きかけられたら、誰だって怒る。
しかし最後の雨粒が地面に、そしてそれ以上に多くが今や塵ひとつない葉によろよろと落ち着いていくと、その無防備な瞬間に――やっと雨が止んだのかと――雨が降ってないとまだ完全には確信していない時に、まさにその間、世界は静寂となる。
長い時間のあいだに、空はまるで自分が私たちに混乱を残していったことを謝っているかのようだ。私たちは、自分の頭にまだ少しばかり雨粒を残しながら、袖を汚しながら、人目を集めてわびしさを味わいながら、空を睨み返す。するとさっきよりも軽やかで今までにも増して明確な、濃い青色の影があるのだ。私たちは見上げはするが微笑み返すことはできない。私たちは彼女を許す。いつもそうする。
しかしながらその時はまだ雨が降っていたし、ゼリハは何であろうと心の中に許しなどほんの少しも持たなかった。彼女は傘を持っていなかった。というのも、彼女はこう心に決めていたからだ。もし自分が、太陽が戻ってきたらあちこちに忘れていくのに余分な傘を求めて余分な商人に一握りのお金を投げ与えるくらいの阿呆だとしたら、骨までずぶ濡れになる方がマシだと。
ともあれ、今となっては何をするにも遅すぎた。彼女はすでにぐしょぐしょに濡れていたのだ。それは嘆くためになぞらえる雨についてのひとつのことだった。あなたは触れないまま、安全なまま、乾いたままにしておくのにいちばんのことをしましたが、もし失敗した時には、絶え間ないほとばしりとしての雨粒という立場から問題を見ずに始めてしまったという一点に辿り着くのです。そしてそれによってあなたは自分がずぶ濡れになってもいいやと決めるのです。
私もシャファクさんのスピーチをTEDで見て、たった今イスタンブールの隠し子を読み終わりました。
返信削除この後の展開は、ものすごいです。
このコメントは投稿者によって削除されました。
返信削除Tacumi1469様
返信削除コメントありがとうございます。
やはりそうですか。
遅々とした歩みではありますが、
ぼくもきっちり読み終えたいと思います。
いやしかし、改めて読み直すとひどい訳文だ。。。
返信削除今後ちまちまと書き直していこう。
彼女の作品「The Forty Rules of Love」を読み終えて、他の作品もすべて読みたくなりました。イスラム社会とキリスト教、仏教、ユダヤ教など他の宗教文化圏のブリッジを模索して彼女に出会いました。邦訳が出ていないのであれば、ぜひ挑戦したいですね。
返信削除