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今後の著作物のあり方について、自分なりに考えてみる


自分の作ったものは、
どこからどこまで自分のものなのか。

この前はツイッターで
「パクツイ」のことが話題になってたけど、
もちろんそれはホントにただの一例。

たとえば、
自分のオリジナルアイデアだと得意になって作ったものが、
実はすでに他の誰かが考え出してたものだった、とか。

たとえば、
誰かが描いたイラストが人気になって、
みんながコピペして自分のTwitterとか
FacebookとかLINEのアイコンにして拡散していく、とか。

「これ誰が描いたんだろ」と思いながら、
その絵をトレースしたり、あるいはタッチを真似したりして、
pixivにアップする、とか。

こんな感じで、
コピペや、それに類する模倣行為というのは
大多数において何の悪意もなく行なわれてる。
もちろんパクって、その作者よりも多くの利益をせしめようとする
悪徳漢が存在しないとは言わない。
しかし、だいたいにおいて、
それは何の悪気もなく、「好きだから」という理由で
無許可に使用されていることが多いように思う。


一方、こういうあり方に、
めっちゃ怒ったり問題視してる人たちがいる。
「自分の頭から湧き出たもの=自分の作ったもの」
という考え方を明確に持った人たちだ。

そもそも著作権、知的財産権なんてのは、
こういう考えから生じてきたものなんだろう、おそらく。
誰かが考えて考えて考え抜いた末に生まれたものを
大切に保護し、その利益を守りたいという気持ち。
オリジナリティを尊重し、正当な利益に結びつけようとする意志。

現代の創作の現場においては、
このオリジナリティ擁護派が、
コピペ拡散派と対立するという様相を呈してる。
そのように、ぼくには見える。
まあ、もちろん創作に限った話ではないんだけど。


けど、実際、
著作権は誰に帰属するのかという問題は、
今後どんどん特定が困難になっていくように思われる。
国民一人ひとりを番号で管理しようという動きが
徐々に始まろうとしてるけど、
日本だけがそんなことをしたところで、
この無限に拡散していく著作物の流れを止めることって、
本当にできるんだろうか?

たとえ世界的な動きに発展したところで、
完璧に阻止することなどできるのか?

「カンペキ」となると難しいそうだ。
なぜなら、意識的な悪意はコントロールできるが、
無意識の善意はコントロールできないからだ。
そして、好きな画像を無許可使用するユーザーには、
「これが好きなんだ」という無意識の善意しかない。

そうした気持ちを否定してでも守るべき利益と
好きという気持ちから起こってくる利益と、
どっちを取るべきなのか、
それが問われてるような気がするのだ、なんとなく。


ぼく個人としては、
すべての著作物を著作権フリーにしてもいいんじゃないか。
そう思ってる。
というか、今後そうなっていくんじゃなかろうか。

そんなこと言ったら
「ええっ!?」
ってなる人もいるかもしれない。

けど、考えてもみてほしい。
なんで著作権が問題になるかといえば、
作品の「クオリティ」を金という数値で評価しようとするからだ。

「素晴らしい作品には、それ相応の金を支払って
賞賛するのが当たり前だろう」

そういう考え方が、著作権の裏づけになってる。
ものすごく19世紀の小金持ちっぽい考え方。

ところが、実際のところ
作品の「質」と金額のレートは釣り合ってない。

それどころか、
アマチュアの人が無料で公開していて
心を打つような素晴らしい作品もたくさん出てきた。

そういう中でわざわざお金を払って
ジャンプのコミックとか
高いハードカバーの単行本を買う人がいるのはなぜか。
金の損得勘定という点で見れば、ぜんぜん合理的じゃない。
ここには2種類の人間がいると思う。

ひとつには
「素晴らしい作品に対してそれ相応の金を支払って賞賛したい」
というブルジョワ的な価値観の人たち。
これは名作・古典の販売に際しては
今後も寄与していくだろう。

しかし、もうひとつ。
単純に、その作者のことが好きなだけの人たちがいる。
その作者の新作がどんなに面白くなかろうと、
お金を払ってあげたいと思ってる純粋なファンだ。
彼らは作品の素晴らしさを賞賛したいわけじゃない。
作家という人を「応援したい」だけなのだ。


よくアイドルオタクが自嘲気味に
「お布施」という言葉を使ってCDを何枚も買うと聞くが、
これもまたファンによる応援の形だろう。

今後、創作というのは
この「応援」という観点から支えられていくのではないか。
作者は自身の著作物に対する対価として金をもらうのではなく、
「お布施」によって日々生活していく。

しかもこれはすでに実現しつつある。
たとえば
坂本龍一が最近やってる「おひねりシステム」が、
アマチュアでも簡単に利用できるようになったら。
またKDP(Amazonの電子書籍Kindleでの個人出版)も然りだろう。
これらよりも、もっともっと違った形で
こうしたあり方を支えていくシステムが
いずれ生まれると思う。


最後に。
コピペの問題ってなんか危険視されてるところがあるけど、
これはどんなに規制したところで
もう、誰にも止められないだろうって思う。

個人の作品は今後どんどん増殖していく。
見境なく、感情抜きに。

そういう中で新しい評価の形が
一角を占めるようになってる。
作品の「質」を評価するのではなく、
作者の「生存」を応援するようなあり方。

ただ、ここで言いたかったのは、
ぼくの頭のなかにある理想を
そのまま実現せよ!ということではない。
コピペ拡散派のパワーを利用して、
より大きな利益を作者にもたらすようなシステムを考えるのって、
ぜったい、無駄なことじゃないよ、ということだ。

「~ないよ」とか、
吉本隆明みたいな言い方しちゃったけど、
ほんとに、そう思うのだ。

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