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3月, 2011の投稿を表示しています

【翻訳】FEMINISM【フェミニズム】

FEMINISM 広くフェミニズムと呼ばれてるような運動への最初の刺激となったのは、より平等で包括的な社会を構築するために、政治的・経済的・社会的・文化的なディスクールの形態において女性が男性によって軽視され、あるいは下位のものとされている状況を逆転させようという関心だった。理論としては、それはメアリ・ウルストンクラフトの「女性の権利の擁護」( 1792 )にまで遡れる。第二次世界大戦が終わった直後からしばらく間を置いて社会における女性の経済的・政治的な立場への関心が生まれ、フェミニズム論は女性の文化的な経験に注意を向けるようになった。最近では、多くの異なったタイプのフェミニズムが起こってきた。マルクス主義やリベラル・フェミニズムを含め。フェミニズムは 1980 年代に広く新音楽学とカテゴライズされる他の学際的なアプローチと並んで、音楽学の主要な関心となった。このことに先んじて、 1970 年代、音楽学者たちはすでに忘れられた女流作曲家や演奏家を再発見し始めており、この観点から〈天才〉や〈カノン(規範)〉、〈ジャンル〉、〈時代区分〉といったような、既存の概念について吟味し始めていたのだ。しかしながら、 1980 ~ 90 年代を通じて、スーザン・マクレアリやマルシア・シトロン、ルース・ソーリーといった音楽学者たちは、一般的な規範から女流作曲家を閉め出す文化的な理由について考え始めていた。他の著作家たちは女性はどうしても生態的に男性より作曲をするのに適していないという、かなり本質的な見方、つまり決して実証されえなかった主張(ハルステッド 1997 )に疑問を投げかけている。そうではなくて、女性の作曲家が欠落していることは、社会的・政治的な条件次第で説明せねばならないわけだ。 マルシア・シトロンはジェンダーと音楽における規範という問題について研究した。つまり、ジェンダー化されたディスクールとしての音楽という考え方や〈プロ〉という理念、女性の音楽受容という問題について(シトロン 1993 )。彼女の研究はまた、音楽生産の側についても再考している。彼女が注意を引いたのは、 19 世紀初期に、ベートーヴェンやシューベルト、ショパンといった作曲家によるソナタや他の室内楽曲が、プライベートなサロン――それはしばしば女性によって確立されたものだった――において享受されていたとい

【翻訳】MEANING【意味】

MEANING 音楽はしばしばその表現上の可能性や特性についての用語によって表される――それがこの、意味( meaning )という話題を、また「何はともあれ、音楽は何を意味するんだ?」という問題提起を引き起こすのだが。 この問いかけは音楽史・音楽学史、いずれにおいても繰り返し言われており、音楽美学におけるお決まりの問いかけのひとつである。もっとも、この問いかけは長い歴史を持ってはいるが、充分なフォーカスが当てられたのは 19 世紀において――その頃、ロマン主義と呼ばれるような音楽においてますます増大する主観性や表現上の可能性が、音楽に関する書物との相似を発見したのだ。 音楽の本質とその意味についての議論はウィーンの音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックの『音楽美論』( 1854 )という出版物から展開された。この本は音楽や意味についての話題を取り巻いている多くの前提をこの問題の中に呼び込み、音楽における自律性という主張や形式主義者が、音楽作品を理解するためのバイブルとして位置づけられた。ハンスリックにとって、音楽は「響きつつ動く形式」(ハンスリック 1986, 29 )を内容とするものだった。言い換えれば、音楽の内的構造がその本質と固有性を理解するカギだったわけだ。ハンスリックの批判はワーグナーの音楽に、そして他の作曲家や関連する話題に向けられていた。ワーグナーの反応は、自作のオペラ《マイスタージンガー》( 1867 )においてハンスリックをベックメッサーという衒学者として登場させるというものだった。 19 世紀音楽が「非」音楽的、あるいは音楽「外」的な観点と呼ばれうるものを包み込むために、外部を見ていたということは、ワーグナーの楽劇という文脈に通じているのだ。しかしながら、ワーグナーはその時代における音楽風景もその遺産もどちらも支配していたのだが、そこにはまだハンスリックが提唱した形式的・自律的な力としての音楽という概念からの強力な流れがあった。 音楽上の意味に関する最近の研究では、イギリスの音楽学者ニコラス・クックがハンスリックの残したものについて考察し、意味についての議論がまだ形式主義の根底にはあるということを示す。 問題あるハンスリック派の後継者は、たいていその哲学者の作品において――そして、もっと最近では、アカデミックな議論における意味についての問題を再