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村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』感想



村上春樹の新刊で、
発売前からタイトルが長い!と話題になってました、
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
先ほど読み終えましたので、
さっそく感想を書いておきます。

あらすじを書くとネタバレ!と怒られそうなので、
読む気ないしどんな話なのか気になるという人は、
自分で調べて他のサイトを回って下さいな。

■村上春樹が書きたかった小説?


ひとことで申し上げますと、面白く読めました。
ぼくはハルキストでもなんでもないので、
すべての作品を読んだわけではありませんが、
正直、今まで読んだ村上春樹の中で、
いちばん読みやすい作品だったかもしれません。

『1Q84』では過剰すぎてワケが分からんことになってたエンタメ性と文学性が、
今作では、かなりきれいな形で調和してます。
(ちなみにここで言う「エンタメ性」はお芝居を見る時のような楽しみ、「文学性」は読者に対する心のケアという程度の意味だと思って下さい)

作中で音楽の話題が多かったので(なにせ『巡礼の年』ですからね!)
それになぞらえて言いますと、
ちょうど若い頃は音楽のルールを破りまくってたモーツァルトが、
晩年にバッハの古典的な形式を踏襲したような、
そういうところが村上春樹にもあるような気がします。
(別に村上春樹を「文学におけるモーツァルトやでえ!」とは思いませんが。。。)

村上春樹はおそらく「こういう小説」が書きたくて、
今まで頑張ってきたんだろうなという感じさえしました。
そういう意味で、ひとつの集大成なのかもしれません。

■「猥褻」表現は相変わらず健在


まあ、この小説に対する非常に無難なコピーを考えると、
「面白くって、しかも心にジーンと沁みる小説」
ってことになると思います。

ただ、そこはやっぱりさすが「ハルキ・ムラカミ」というか、
一筋縄ではいきません。

たとえば、そう、夢精ですね。

あまり具体的に書くとネタバレ!って怒られそうなので、
ふわふわっと書きますが、
村上春樹ではもはや恒例となってます、
夢の中で女の子となんだかよく分からないままにセックスして、
起きたらパンツの中に射精してるというシーンが、
今回もちゃんと盛り込まれてますよ。
きっと彼の中では重要なテーマなんでしょうね、夢精。

『1Q84』では、
まだ毛も生えてない小学生(だっけ?)とのセックスに、
一部のロリコンが盛り上がったと聞きましたが、
それに比較する感じで言うと、
今作では腐女子の方々が盛り上がる場面があるかもしれません(笑)
(いや、別に盛り上がらないか・・・)
ちなみにぼくはそのシーンがいちばん強烈に頭に残りました(なかなかショッキングです)
気になる方はご自身で確かめてみて下さい。

あと、主人公の勃起も相変わらずです。
何かふとしたはずみに不能になったり、
またすぐに勃ったりと、おちんちんが大活躍(笑)

もちろんそういう「猥褻」的な要素を、
村上春樹は人間の心の奥に隠された「暗闇」を表現する、
文学的な「装置」として利用してるようですが、
まあ、そんなめんどくさいこと、関係ないですよね。←

ですので、村上春樹のあけっぴろげな性描写に
前々から嫌悪感を感じてらっしゃる方は、
やっぱり今回にも不快感を抱かれるんじゃないかと思います。
話題作だからと言って安易に買うことは、
個人的にはオススメしません。
(正直言ってぼくもブログに感想を書くという目的がなかったらあえて新刊で買って読もうとは思いません。。。)


■まとめ?


本来、小説は好きな人が好きなだけ読んだらいいものです。
これって小説に限らず当たり前のことなのに、
なぜか村上春樹のこととなると、
みんなこの大原則が理解できなくなる。
たとえば:

「村上春樹。別に好きじゃないんだけど、読んでしまうんだよなぁ」←好きなことアピールすんな。

「わたし、村上春樹読んだことないんだぁ(^^;」←無関心アピールすんな。

「村上春樹ぃ・・・? オレ、超嫌いなんだよね(#^ω^)」←嫌いなのアピールすんな。

「昔は読んでたんだけどね、昔は」←〈過去の自分〉アピールすんな。

「村上春樹は嫌いじゃないけど、村上春樹好きなやつは嫌い」←〈他とはちょっと違う視点〉アピールすんな。

みんなが、自分のステータスの表明に、村上春樹を利用してる。
まこと不思議な作家です。


コメント

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