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投稿

坂本龍一『B-2 Unit』(1980)

無性に坂本龍一の『B-2 Unit』がききたくなった。 べつにインタビューを読んだりとかしてないので根拠はないし、これはただの想像にすぎないんだけど、坂本龍一はこのアルバムを制作にするにあたって「いかにしてポップスのクリシェをじぶんの語法のなかに引き込むか」ということを考えてたんじゃないかな。 1980年までに坂本龍一は(主にYMOで)一躍人気ミュージシャンになった。マスメディアと関わること……大衆に音楽を提供すること……と西洋近代の「芸術家」的なあり方との狭間でどうバランスを取っていくのかということはじぶんの人生の方向性を決定づける大きな問題だったとおもう。言い換えるなら、音楽で「食ってく」ことと「自分らしさ」をどう両立するか、ということだ。仕事をしないと体が保たないが、じぶんの表現をしないと精神が保たない。 とはいっても、このアルバムをきいていて彼が大衆的な音楽を軽視してたとはおもえなくて、むしろ楽しんで制作していたようにおもう。じぶんが仕事で扱っている音楽と、表現としての音楽(彼が大学で学んだであろうアカデミックな音楽語法)とをどう結びつけるのか。どうすれば結びつくのか。そういう接点を探しているようにもきこえる。そういう思考(試行)の痕跡が音として形式化した音楽。ぼくはそういうものに憧れる。だから、こういう想像をするのはたぶん、じぶんの願望をこのアルバムに投影してるからなのかもしれない。 あとこれは余談なのだけど、「これ、全部アナログで音つくってひとつひとつ録って重ねてるんだなー」と、その途方もない作業量を想像して目眩がする。現代のDAWとソフトシンセに甘やかされてるじぶんにはとうてい耐えられそうにない。そういう観点も忘れちゃいけない。

葉月Ⅲ

フランス語みたいな映画だ と葉月はおもった 外国語の授業を受けていた教室のにおい 隣の席だった男の子と一度 学食でごはんを食べた 「今度いっしょに遊ぼうよ」と彼 「うん、また今度ね」 どっちともとれる曖昧な返事だ ずるいな と葉月はおもった 何もしなくても 眠ってるうちに 喋ってるうちに トマトみたいにつぶれてしまう フランス語みたいな映画 窓の隙間から わたあめになる前の ザラザラの砂糖 積乱雲の都市(まち) nirata · August III / 葉月Ⅲ

所信表明

音楽にせよ、文章にせよ、書きかけの、未完成のものが山積みになっている。 このブログに載せようとおもっていた記事も下書きの状態で眠っているものがいくつもある。 サビだけおもいついてスケッチだけした音楽のプロジェクトファイルも100以上ある。 たまにひらいて続きをつくろうとするのだが、何も思いつかず手が止まってしまう。 じぶん自身そこまで意識したことはないのだが、どうやら何かすごいことをしなければならないと気負っているらしい。 「ブログにしてはあまりに内容がなさすぎる」とおもってしまったり、前に作った曲と同じ展開でつまらない(新曲として発表するには中身が薄すぎる)とおもってしまったり。年々あたらしく何かを作り続けるうちに、どんどんじぶんのハードルをじぶんで上げていってたようだ。 ところが、ブログに書かないで溜め込んでしまったものをTwitterに放出してしまうと「ツイートにしては重すぎる」ものが他人のTLに雪崩込んでしまい、迷惑だ。 そういうわけで少なくともブログに関してはハードルをどんどん下げていきたいと考えている。 しばらくその位置づけがわからず放置されていたけれど、日記のようなものとしてこのブログをあらためて活用できたらいいなと。 うまくいくかはわからないけれど、ひとまず所信表明として、ね。

「ICO」をプレイしたこと

美術館が好きになった瞬間ならいまでも思い出せる。 富山県美術館に行ったときだった。 自動ドアを抜けると、淡いベージュを基調にした内装。何十年も前からあるようにもみえるし、開館してまだ1日しか経ってないようにもみえる。メインフロアは大きな吹き抜けになっていて、螺旋状のスロープが階上へと続いている。巨大なジッパーの付いた怪物の描かれた岡本太郎ならではの絵、黒地に花火が横殴りに降り掛かってるような抽象画、どこを描いたのか何を描いてあるのかわからないほど色褪せて沈んだ色合いの風景画、フランシス・ベーコンの描いた誰かの肖像画。どれも物静かで、激しく感情を揺さぶられるなんてこと(多くのひとが芸術に求める)はないのだが、美術館を後にする頃にはとても満足していた。 「ICO」をプレイして数時間が経過した頃ぼくはこの美術館での感覚を思い出していた。といっても、このゲームの世界に美術品が陳列されているわけではない。この世界にあるのは息を止めたように静まり返った古城と窓から空から射し込んでくる眩い陽光、迫りくる黒い影、そして角の生えた少年(イコ)と白い肌の少女(ヨルダ)だ。 ぼくはイコを操作してヨルダといっしょに古城から脱出することを目指す。しかし困ったことにヨルダは放っておくと勝手にどこかへ行ってしまい、挙げ句、黒い影に連れ去られてしまうとゲームオーバーとなる(イコは石になってしまう)。そのため手をつないで行動をともにし、ヨルダを守らなければならない。 はじめの印象こそ「ゼルダの伝説」に似た謎解き3Dアクションといった趣だったが、次第にゲーム性は二の次になっていった。たまにヨルダを捕まえようと姿をあらわす黒い影たちを木の棒で殴り倒す……それよりも派手なことはめったに起こらない。舞台である城内はつとめて薄暗く冷たい静謐を湛えているのだ。しかし、ひとたび城の外に出れば空からは噓のようにやさしい陽光が降り注ぎ、小鳥がさえずっている。その様子があまりにのどかなので、あたりに茂った背の低い緑のなかにおもわず体を預けたくなるほどだ。 個人的にお気に入りのシーンは「石柱」と呼ばれるパートで見られる、謎の大広間だ。よくよく見るとこの部屋には怪物を模したような石像が其処此処に配されていて、天井も他の部屋に比べて高かったようにおもう。もしかすると何かの儀式をするための特別な空間なのかもとおもいたくなった。...

「アラベスク」九鬼周造

オシリス、アビス、牛の神 鰐の齒、蛇の目、獅子の髪 輪廻轉生とはの浪 天動要義、幾何原理 生軆解剖、血は淋漓 木乃伊(みいら)は朽ちず禁苑裏 ツウタンカモン、金字塔 パピルス繪巻、獅子像 名器珍賓無盡藏 黒絽のかつぎ、頬冠(ほほかむり) 耳輪の飾、惚れ薬(ぐすり) クレオパトラは色を賣り 日月、星辰、棗椰子(なつめやし) 紅海、砂漠、ニルの葦(あし) 昔も今も變り無し

リュック・フェラーリ紹介

 「現代音楽」という音楽ジャンルは、(ほかのジャンルと同じように)常に伝統的な枠組みから抜け出そうとする強固な意志によって形成されてきた。とりわけ「現代音楽」にはキーパーソンが存在したから分かりやすい。ジョン・ケージ(1912‐1992)だ。  「音楽」そのものを問い直した彼のスタンスは、当時の西洋世界においてかなりショッキングなものであった。というのも、日本ではなかなかイメージしにくいが、西洋では伝統的に「楽器」から発せられた音響によって音楽は構成されると考えられていたからだ。木々のざわめきや川のせせらぎ、虫の声などは単なる雑音(楽器以外の音)に過ぎず、とうてい音楽となり得るようなものではなかった。  そうした「伝統的な耳」に厳しく沈黙という音楽のあり方を突きつけたのが、「4分33秒」だった。 John Cage: 4'33"  ケージの考えによれば音楽はふたつの音によって成っているという。ひとつは意図的に発せられる音(楽器の音など)、そしてもうひとつは意図的でない音(楽器以外の音)。そして、この「4分33秒」という作品においては、沈黙、つまり「意図的な音がない」という状態に聴衆の耳を傾けさせることに意義があった。一般的にはひとつのジョークとして受け取られている節がないでもないが、「音」という対象の幅を拡大したケージの功績は大きいと言わざるを得ない。 *  このようにケージがアメリカで楽器の音の鳴らない音楽を発表したのとほぼ時を同じくして、ヨーロッパでも似たような動きがあった。フランスにおいてピエール・シェフェール(1910‐1995)とピエール・アンリ(1927‐)が結成した「ミュージック・コンクレート(具体音楽)」だ。「具体」という言葉を使うのは、楽器の音に比べて、たとえば電車の音や人の話し声が、何か具体的なイメージを想起するから。彼らはその頃出始めたばかりの録音機材で様々な音を録音し、それらをつなぎあわせて作品にする、ということをしたわけだ。  しかしながらこの具体音をつなぎあわせて作る音楽は、できあがりを聴いてみると当時の技術的な問題もあるのかもしれないが、どこかチグハグで、秀逸なMAD動画などを見慣れている現代の感覚からすると多少残念な心持ちがしてくるものだ。  また、確かに当時の耳からすると音響的...

海外小説の訳文についてちょこっと。

最近になって海外の小説をよく読むようになりました。 けど、なんでもかんでも楽しく読めてるわけではなくて、 いやむしろほとんどが読みにくくて、途中でやめてしまいます。 とくに、翻訳している人の文章が気に入らなくてやめてしまう、 ということが多いような気がします。 なかでも、ぼくは柴田元幸の訳文がかなり苦手のようで、 いままで彼の訳した小説を最後まで読みきれたことがありません。 どんなに、「うわ、これ、面白そう!」と思っても、 数ページ読んで、すぐに「うわぁ・・・」となって、 訳者を確認したら、柴田元幸だった、ということがよくあります。 (とくにこの人は翻訳してる作品が多いから・・・) いや、もちろん、柴田元幸の悪口が書きたいわけじゃないんです。 なぜ柴田元幸の訳文を読みにくいと感じてしまうのか、 ということを、前からずっと考えていたんです。 そんな折、『すばる』2015年5月号に載っていた 水村美苗と鴻巣友季子の対談を読んで、 ある箇所に、ピーンときた。 水村  鴻巣さんは片岡義男さんとの対談集『翻訳問答』の中で、翻訳のtransparecy(透明性)についてお話なさっていましたが、あれはすごく面白かった。欧米における「透明な翻訳」とは、もともと自国語で書かれたような訳文を指す。それに対し、日本では、逆に 原文が透けて見えてこれは翻訳だとわかるような訳文 のことを指す、ということですね。これは、やはり、中心的な文化と周縁的な文化との違いもあるでしょう。その非対称的な関係が、翻訳にもそのまま現れる。周縁的な日本では、翻訳があって当然で、翻訳の文章は、普段使っている「日本語」とは違って構わないという大前提がありますよね。 鴻巣  だから、あえて引っかかりのある異化翻訳もできます。それが日本での「透明な翻訳」です。 水村   「外国」というものに触れているという印象があったほうがいい ということですね。香水の匂いがするのであって、伽羅ではないのだ、という。「天国」などという言葉は、翻訳を通じて、今や日本語の一部となったように見えますが、それでもやはり異国情緒が残りますよね。 「翻訳の透明性」というとわかりにくい方もおられるかもしれませんが、 たとえば洋画を見るときに、 洋画見るなら、やっぱ字幕スーパーでしょ! っ...

舞城王太郎『淵の王』(新潮1月号掲載)

舞城王太郎『淵の王』は、 『ディスコ探偵水曜日』以降の舞城王太郎を総括する傑作です。 ぼくはこれまで出来うる限りの舞城王太郎作品を読んできたつもりですが 『ディスコ探偵水曜日』を書いてからの 舞城が 何をやろうとしているのか、いまいちわからないでいました。 しかし、今回『淵の王』を読んで、 自分なりに腑に落ちるところがありました。 まだ具体的にうまく説明することはできないのですが、 個人的にこれからの舞城の活動にはかなり期待を寄せているところです。 ちなみに、舞城王太郎でいちばん好きな作品はなんですかと聞かれたら、 これまでは『ドナドナ不要論』と『Good But Not Same』と答えてましたが (どっちも単行本未収録)、 これからはここに『淵の王』が加えようと思っています。 それくらい感銘を受けました。 『NECK』における想像力と恐怖、 『ディスコ探偵水曜日』における意思と時空、 『ビッチマグネット』における関係性と暴力といったテーマが、 『九十九十九』や『JORGE JOESTAR』のような、 ゲーム的リアリズムの手法で有機的に(論理的に、ではなく) つなげられていくプロセスに、 読んでいるあいだじゅう、興奮しっぱなしでした。 舞城王太郎『淵の王』は、 『ディスコ探偵水曜日』以降の舞城王太郎を総括する傑作です。 舞城好きを自称しておきながらまだお読みでない方(とくに『ビッチマグネット』以降、読んでないという方)、 ぜひお読みになるべきです。 舞城は違うステージへ(次のステージではなく)突入したような気がします。

舞城王太郎『イキルキス』文庫版を読む。

舞城王太郎『イキルキス』文庫版 単行本に収録されていた「イキルキス」も「鼻クソご飯」も「パッキャラ魔道」も、すべて雑誌掲載時に読んだものばかりだったから、その時には買わなかった。 で、文庫化されて、書き下ろし作品が2作(アンフーアンフー、無駄口を数える。)入ってると聞いたので買って、先ほど読み終えた。 ■アンフーアンフー 息子の見る夢が、現実世界にも影響を及ぼすという謎の現象を目の当たりにして、妻と「僕」はどうしようかと思案する。妻は、幼い頃に木の枝をヤスリで削って作った手製の神様(ひんぽぽ様)のように、「僕」を手のひらで形を整え、息子のための神様にする(「僕」の外見も中身も特に変わるわけではない)。それ以降、息子の夢は、夢の中で完結され、現実には影響を及ぼさなくなる。けど今度は逆に「悪夢ばっかりじゃなくて、いい夢がこの世に持ち込まれてたはずじゃない?いい夢だよ?この世には元々は無かったんだよ?」と妻が言い出し、子供が世界に影響を与えていたかもしれない可能性について話す。いろいろ話して、けど、全部仮定と可能性の話だと言って眠りにつく。 ■無駄口を数える。 女の子とも男の子ともうまくやれない「私」が、うまいこと結婚して、子ども(万理子)が生まれるが、高校時代からの友人、北原可織にその万理子が殺されそうになるという事件が発生。北原可織は逮捕され、執行猶予付きの有罪になるけど、「私」は北原可織その人には別に特別な感情をいだかない。それが逆に周囲の友達に不信感を与えてしまい、家に遊びに来た子なんかは「あの子、不妊だったんだよー?同情できるんじゃない少しくらい?」と詰め寄ってくる。うんざりした「私」はその友達を追い返すが、ドアの向こうでわめき続ける声はひとつひとつ台詞としてではなく、「無駄口」にしか聞こえない。「まだ続いてる、まだ何か続けてる」。 どちらも、夢と現実とか、内と外とか、そういう小道具をうまいこと使って、うまいことまとめてきてる。うん、そうだ、まとめられている。 舞城王太郎というと、いろんな要素をとことん取り散らかして、最後は何はともあれいい感じのまとめっぽいフレーズでラストを締めくくるっていうイメージがあったんだけど(『煙か土か食い物か』から『ビッチマグネット』、『獣の樹』まで)、『NECK』を境にして、なのか、なんなのか、...

呼びかけると

呼びかけると えらそうになってしまう。 平静を装うと こわばってしまう。 簡単に書こうとすると 詩のようになってしまう。 これは詩ではない。 岡田  なぜ校長先生の話はつまらないのか。 それは誰に向けても話していないからだと。 話法には三つあるそうです。 「みんなに話す」 「あなたに話す」 「空中に話す」。 校長先生はずっと空中に話してるんですね。 内田  空中ってのはおもしろいね。 岡田  ほとんど独り言なんです。 内田  でも、ぼくもほとんど空中に話してる(笑)。 話してるうちに、だんだん目線が上にいっちゃうんだよね。 ( 内田樹・岡田斗司夫『評価と贈与の経済学』 より)   「空中に話す」っていう感覚、 すごくよく分かる。 たとえば誰か特定の人のことを言っているわけじゃなくて、 一般論を述べるときの感覚。 そういうとき、ぼくはひどく饒舌になってしまう。 「何を言ってもいい」という、万能感に包まれる。 それはあまり良いものではないのかもしれない。 けど、注意が必要なのは、 口では「あなた」と二人称で呼びかけていても、 うっかり空中に話しているときがある ということだ。 まずはそれに気づくことから。

マーガレット・アトウッド『侍女の物語』

先日マーガレット・アトウッド『侍女の物語』を読み終えました。 舞台は近未来、出生率が下がったおかげで妊娠できる女性は希少な存在なんですが、それにもかかわらず「子どもを生む機械」程度の地位しか与えられてない――そういう国が突如として(地理的に言えばアメリカ大陸に)立ち上がって、国民を監視してる。この国の思想的な根拠はキリスト教です。聖書の中の子どものできない妻の代わりに侍女が代理出産をするというエピソードがあるんですが、それを根拠にして、字義通り実行しているわけです。自由の国アメリカでクーデターが起こって大統領が暗殺されて、ガチガチの宗教国家が誕生するという設定は秀逸ですね。この新国家「ギレアデ共和国」というんですが、国旗には目玉に翼の生えたシンボルマークがあしらわれていて、監視国家であることがこれでもかと言わんばかりに表現されています。 物語は主人公の一人称視点で、過去の回想を交えながらしっとりと書かれていきます。感受性や着眼点も、女性的というよりは少女的ですらある。だからといってまったく退屈しないのがこの小説のすごいところです。海外の本関連の記事を見てたらかならずと言っていいほどその書名があらわれるのも納得の内容。特に物語のラストの絶望と希望とを行き来するような、両義的な幕引きと物語の構造を明らかにする「資料」が純粋な読者にとっても、ちょっと小難しいことを考えるのが好きな批評家にとっても配慮された内容になっていて良かったです。日本では邦訳が絶版な上に、映画もDVD/BD化されていないという有り様。非常に残念なことですね。 で、いろいろネットで調べていたら、『侍女の物語』の各シーンを描いたイラストを見つけましたのでご紹介しておきます。このくすんだ色合いといい、錆びた鉄のような質感といい、小説の雰囲気がよく出てます。 Margaret Atwood’s The Handmaid’s Tale – in pictures http://onehundredpages.wordpress.com/2012/01/23/margaret-atwoods-the-handmaids-tale-in-pictures/

サリンジャー(村上春樹訳)『フラニーとズーイ』を読んだ。

今まで読んできた本の中でも 3本の指に入るくらい、面白い小説に出会えた。 サリンジャー(村上春樹訳)『フラニーとズーイ』 「フラニー」と「ズーイ」という2つの中編小説が入ってる。 実は野崎訳で一回読んでたんだけど、そこまで面白いという記憶はなかった。 村上春樹訳で読むとなぜここまで面白いのか、まったく分からない。 とりあえず、 どちらもグラス家っていう天才ばっかりの一家の物語なんだけど、 「フラニー」の方は、この天才7人兄弟のいちばん下の女の子で、 天才的なお兄ちゃんたちに幼い頃から 『ウパニシャッド』とか、エックハルトの説教書とか 『金剛般若経』なんかをテキストに英才教育を受けたもんだから、 名門私立大学に通う彼氏の文学談義なんかが低俗すぎて 吐き気を催したりしてしまって、そんな自分に自己嫌悪して、 宗教書にハマってるっていうお話。 「ズーイ」はその話の続き。 満身創痍で家に帰って、ゴロゴロしてるフラニー。 お兄ちゃんのズーイは、 自分の殻に閉じこもってないで出てこいよ!的な感じで(母親に頼まれて、だけど)、 あの手この手を使ってフラニーを救い出そうとする。 この救出の仕方がほんとに感動的。 そんな感じの、まさにニューエイジ思想の機運に満ちた中編が2篇入った お得な文庫本with村上春樹(630円+税)。

本を読むことが大好きであり、大嫌いでもある。

本を読むことが好きか嫌いかと言えば、大好きでもあり大嫌いでもある、というのが本心かもしれない。本屋に出かけると面白そうな本が膨大にあって、どう考えてもこれらを全部読むことはできなさそうだし、また仮に読んでしまったら人の作品を読むことだけに一生を費やして、アウトプットの時間は永遠に持てない絶望に見舞われるからだ。だから、私はこうすることにした。一生のうちにできるだけ多くの本を読めるよう務めるけれども、数ではなく1冊の本をどれだけ丁寧に深く読み込むかに重点を置く。                                   『素粒子』-ミシェル・ウエルベック読了記: Où est mon chat? 本を読むことが大好きであり、大嫌いでもある、という感覚、すごくわかる。 本屋に出かけると面白そうな本が膨大にあって、 どう考えてもこれらを全部読むことはできなさそうだし、 また仮に読んでしまったら 人の作品を読むことだけに一生を費やして、 アウトプットの時間は永遠に持てない絶望に見舞われるからだ。

ネットの言葉について考えていること。

あけましておめでとうございます。 すっかりブログの更新を怠っていたら、 2013年が終わっていました。 3が日は酒を飲み続け、映画を見る日々でしたが まあなにはともあれ年が明けたことだし、 とりあえずひとつ今の心境について書き残しておこうかと、 こういうわけで今日ブラウザを開きました。 ■ ブログの更新を怠っていた、とは言いましたが、 実を言うと記事そのものは毎日のように書きためていたんです。 Bloggerの「下書き」フォルダや Googleキープのメモがどんどん溜まっていって、 けど、そのほとんどを発表しなかった。 大学生の頃の自分であれば、 「完成度が低いから公開したくなかった」なんて 生意気なことを言ってたでしょうが さすがに社会人になってまで そんなことを口にするのは恥ずかしい。 じゃあなぜ発表しなかったのか? 自分の「言葉」の見方が変わったからと (また生意気な言い方かもしれませんが) そういう風に言えるかもしれません。 ■ ネットという開放された場所において あえて閉鎖的な空間を作る意義というのが これまでぼくにはいまいち理解できませんでした。 2ちゃんねるやmixiが嫌いだったのも、 そこで流通する言葉がネット全体に普及するものではなく あくまでもその場所においてしか効果を発揮しない、 すごく狭い言葉のように思われたからです。 「わたし、かわいくないから・・・」 と言う女子の大半は、相手から 「そんなことないよ!(かわいいよ!)」 と言われるのを待ってるものですが、 ちょうどそれと同じような気持ち悪さを、 閉鎖的なネット空間から感じていたような気がします。 逆に自分がネットで言葉を発する時は、 そうではない言葉で語りたいと心に決めていました。 他人のリアクションを前提にしない、 気持ち悪くない言葉。 それを追究していたのが、 ぼくの10代後半から20代前半期ということになります。 けど、それはネットというのがまだ 仕切りの少ない、無法地帯だったからこそ 喧伝できたことだったんです。 今やさまざまなサービスが乱立し、 ネットの至るところに、簡単に、 自分のスペースをつくれるようになりました。 その場所に応じて演じ分けられる自分のキャラも ...

村上春樹の、質問に対する答え。

Q. 村上さんはマラソンにある創造性とは何だとお考えでしょうか? (20代・男性) A. 創造性はないよね。ただの反復だから(笑)。 でも音楽だって楽器の練習は反復じゃないですか。反復しなければ何もできない。 反復自体には創造性はないけれど、反復によって創造性の土壌ができるんだと思います。 (村上 春樹) ----------------------------------- 反復がないと、そもそも創造性そのものが生まれない、 という考え方。 何度も何度も繰り返していって、 自分の身体に染みこんでいった時に、 初めて、それ以上の、誰も見たことのない、 刺激的なものが姿を現す。 そのことを理解してると、 作品を見る時の、ものの見方が変わると思う。 美術にせよ、音楽にせよ、文学にせよ。

読みたい物語。

■ 物語を作るには最低3つのシーンが必要だ。 始まりとエピソードと終わりの3つ。 下手をすれば始まりと終わりのシーンさえあれば それらしい形になってしまう。 極端なことを言えば、すごく面白い始まりのシーンと、 すごく面白い終わりのシーンがあれば、 それなりに面白いものができてしまう。 これが物語を書く不思議でもあり、楽しいところでもある。 ■ しかしこれだと、とても短いものしか書けない。 そこで、始まりと終わりの間にエピソードを挟んでいく。 当然、エピソードの数を増やせば、物語は自ずと長くなっていく。 たとえば本1冊分の小説を書くとなると、 いったい、いくつのエピソードが必要になるだろう? ひとつのエピソードに2〜3ページを費やしたとすると、 90〜100くらいのエピソードが必要かもしれない。 ■ 小説を書く人であれば、 お風呂に入ってて突然 「ひらめいた!」 と小説のアイデアがひとつ浮かんできたなんて、 そんな経験があるかもしれない。 これはすごいとか、今後とも大事にあたためておきたいアイデアだとか、 自分の気に入ったアイデアに対する思い入れというのは、 往々にして強くなるものだ。 それを大切に、小説の形にしていく。 しかし、本当に面白くって内容のある小説には、 そういう「ひらめいた!」レベルのエピソードが、 つまり作者がずっと大事にあたためてきた、熱い思い入れのあるアイデアが、 何十も、何百もページの中に満ちている。 もちろん、そういう本はすごくすごくすごく、すごく珍しい。 ■ ぼく個人としては、 無理をしてまで珍しい本を書こうとする必要はないと思う。 というのも、それをしようとすると、 たいていはひとつかふたつのそれなりに良いアイデアに、 適当な始まりやいい加減な終わりがくっつけられて、 まるで生物実験から生まれたキメラみたいにいびつになるのが関の山だからだ。 自分の作品に対する愛も、思い入れも、そこには感じられない。 そんなものは読んでて楽しくない。 始まりと、エピソードと、終わりのシーン。 これだけで十分だ。 それが読みたい。 x

フォークナーのお気に入りカクテル。

ノーベル賞作家フォークナーは 「トディー」というカクテルがお気に入りだったらしい。 レシピは以下のとおり。     バーボン(ホワイトウイスキーでも可)・・・・・・・・・60ml     水(お湯でも可)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・120ml     レモンスライス1枚(あたたかいのを作る場合は半片)とレモン汁+皮付き     砂糖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1さじ ところで、フォークナーといえば『野生の棕櫚』、 と言ってもぜんぜん共感してもらえないんですが、 ぼくがフォークナーの中でもお気に入りのフレーズはこちら。 「雪明りの最後の光も消え、いまはなにかエイゼンシュタインがダンテを映画にしたような光景へ入っていった」 (フォークナー『野生の棕櫚』より) この「エイゼンシュタインがダンテを映画にしたような」って形容の仕方、 絶妙すぎませんか? すんません、それだけです。 Paris Review - Faulkner’s Cocktail of Choice http://www.theparisreview.org/blog/2013/10/23/faulkners-cocktail-of-choice/

本を読むスピードについて。

■ 「図書館女子」という言葉をご存知でしょうか。 中学・高校時代、クラスの中では静かでおとなしい感じで、 たいてい小柄で、黒髪で、メガネをかけてて、 毎日のように図書室や図書館へ行って、 自分の好きな作家の新刊をチェックし、 昼休みはもっぱら図書館のバーコードのついた単行本を開いている、 そういう類(たぐい)の女の子がひとりはいたと思うんです。 (これの男子バージョンを「図書館男子」とか「文学少年」なんて呼んでも構わないでしょう) とにかく「子どもの頃から本が好き」というタイプには、 こういう子が多いようにぼくは思うわけです。 実際、「図書館女子」に分類されるような女の子に萌える男もいると聞きます。 どうやら結構人気のジャンルのようです。 しかし、 ぼくは 「文学少年/図書館女子って可哀想だな」 と常々思っていて、 かつ、これまでその理由をうまく説明できずにいました。 そこへ来て、先日ふと浮かんだのが次のツイート。 文学少年/図書館女子の弱点って、手に入れた本は3日以内(遅くとも一週間以内)に読み終えなければならないという強迫観念に駆られてることだと思う。 個人的には、10年後、あるいは死ぬまでに読み終えたらいいやっていう感覚で楽しむ読書もなかなか乙なもんだと思うんだけどなぁ。 — にらた (@pr_nirata) October 30, 2013 そうなのだ、彼/彼女たちが不幸に見えるのは、 手に入れた本は3日以内(遅くとも一週間以内)に読み終えなければならない という強迫観念に駆られてるみたいだから、なのだ。 彼らにとって読書というのは、 一冊の本を、 最初から最後まで、どれくらいのスピードで読めるかという、 タイムアタックみたいになってしまってる。 けど、本当に読書ってそういうものなのでしょうか? 今日お話したいのはそのことについてです。 ■ 本というものがほかのメディアに異なる点は いろいろあるんだけど、 そのひとつとして「時間の伸縮性」というポイントがあると思います。 たとえば映画や音楽というのは、 見たり聞いたりしていれば、勝手に時間が進んでいく。 だから寝てたり聞き逃したりすると 「あれ? いつの間に終わってたの?」...

ドイツの女性ブランド ベアーテ・ハイマン

今日知ったドイツの女性ブランド BEATE-HEYMANN STREETCOUTURE ( ベアーテ・ハイマン  ストリートクチュール) 異なる生地を組み合わせて 新鮮なデザインの生み出してるとのこと。 見てて面白いです。 金魚みたい。 こういうお菓子ありそう。 足細いなぁ~。 首もとのもこもこ感。 こういうグリーンってあまり見ないなぁ。 ベルトがカッコいい。 あと襟の形がセクシー。 ちょっと中央アジアの民族衣装っぽい。 急にこんな鮮烈な色が飛び出してきたら びっくりしちゃう。 すごいきれい。 画像が縦長なのは気のせいです。 参照: BEATE-HEYMANN STREETCOUTURE 公式サイト Heymann Moden ( http://www.beate-heymann.de/ )

〈飼いならされた感性〉を殺すために。

〈飼いならされた感性〉について。 〈飼いならされた〉という言葉は魅力的です。 この修飾語によって 「誰かにコントロールされている」 というニュアンスが出て、 〈自分が好きなもの〉だけを良しとする価値観に 一石を投じられるからです。 ただ、難点もあります。 すなわち、その背後に、 「野生バンザイ!」 という響きを感じてしまうことです。 「作られてない」「ありのまま」 「ナチュラル」「飾らない」 そういうCMのキャッチコピーから作られる、 「エセ自然主義」的な価値観に転化してしまう。 けど、それとは違う気がするんですね。 何が違うのか。 それは日常生活の中で育まれるものです。 つまり、生活によって「作られる」のです。 だから、少しでも日常から離れたと感じてしまうと、 その感性は、不安に駆られてしまう。 たとえば、 ツイッターでリプライを期待してツイートしたのに、 誰も反応してくれない、ふぁぼってもくれない。 そういうときに感じる孤独感は、 〈飼いならされた感性〉が満たされないからです。 そういう風に考えて下さったら結構です。 その他の事例については あとの文章の中で話します。 その事例を見ると一見、 ツイッターのこととはぜんぜん違うように見えるかもしれませんが、 根っこは同じだとぼくは考えています。 そして問題は、 この感性が創作にモロに影響すると、 すっごくつまらないものになっちゃうよね、ということ。 というか、 〈飼いならされた感性〉と〈創造性〉って、 正反対のものだよね、という話をしたいと思ってます。 ぼくは小説を書いたりするので、 そういう立場を前提にしてしまうのですが、 なるべく、他の立場の人にも通ずるような話し方を 以下、心掛けていきたい。がんばります。 形式について。 ぼくは作曲家の矢代秋雄が言ってたみたいに、 表現に先立って感覚を表現する 形式 というのが まずは存在していると考えてます。 というか、存在していてほしい。 でないと、この世から 美しいものを作り出す楽しみがなくなってしまう。 もちろん自然な美しさというものは確かに存在します。 何も手を加えてないのにきれいなもの、確かにあります。 穏やかな水平線、早朝の...