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海外小説の訳文についてちょこっと。

最近になって海外の小説をよく読むようになりました。

けど、なんでもかんでも楽しく読めてるわけではなくて、
いやむしろほとんどが読みにくくて、途中でやめてしまいます。
とくに、翻訳している人の文章が気に入らなくてやめてしまう、
ということが多いような気がします。

なかでも、ぼくは柴田元幸の訳文がかなり苦手のようで、
いままで彼の訳した小説を最後まで読みきれたことがありません。
どんなに、「うわ、これ、面白そう!」と思っても、
数ページ読んで、すぐに「うわぁ・・・」となって、
訳者を確認したら、柴田元幸だった、ということがよくあります。
(とくにこの人は翻訳してる作品が多いから・・・)

いや、もちろん、柴田元幸の悪口が書きたいわけじゃないんです。
なぜ柴田元幸の訳文を読みにくいと感じてしまうのか、
ということを、前からずっと考えていたんです。

そんな折、『すばる』2015年5月号に載っていた
水村美苗と鴻巣友季子の対談を読んで、
ある箇所に、ピーンときた。


水村 鴻巣さんは片岡義男さんとの対談集『翻訳問答』の中で、翻訳のtransparecy(透明性)についてお話なさっていましたが、あれはすごく面白かった。欧米における「透明な翻訳」とは、もともと自国語で書かれたような訳文を指す。それに対し、日本では、逆に原文が透けて見えてこれは翻訳だとわかるような訳文のことを指す、ということですね。これは、やはり、中心的な文化と周縁的な文化との違いもあるでしょう。その非対称的な関係が、翻訳にもそのまま現れる。周縁的な日本では、翻訳があって当然で、翻訳の文章は、普段使っている「日本語」とは違って構わないという大前提がありますよね。
鴻巣 だから、あえて引っかかりのある異化翻訳もできます。それが日本での「透明な翻訳」です。
水村 「外国」というものに触れているという印象があったほうがいいということですね。香水の匂いがするのであって、伽羅ではないのだ、という。「天国」などという言葉は、翻訳を通じて、今や日本語の一部となったように見えますが、それでもやはり異国情緒が残りますよね。

「翻訳の透明性」というとわかりにくい方もおられるかもしれませんが、
たとえば洋画を見るときに、
洋画見るなら、やっぱ字幕スーパーでしょ! って人、結構いると思うんですね。
これなんか、典型的な「透明性」の受容の仕方だと思うんです。
「これは外国のものなんだ」という気分を残しておきたい(けど、意味は日本語でないと分かんないから字幕は欲しい)
という感覚。
ちなみにぼくは断然、字幕スーパー派です。
(アクション映画やディズニーアニメは例外。吹き替えで見ることが多いですが)

こうしてみると、
「原文が透けて見えてこれは翻訳だとわかるような訳文」を読むというのは、
字幕スーパーで映画を見るような楽しみ方なのかもしれない、
という気がしてきました。

意味がすっと頭に入ってこなくていいから(意味なんて、あとでゆっくり考えればいいじゃない!)、
原文の、文法的な構造が見えやすい訳文(ちょっと直訳気味な文章)のほうが、
個人的には好きなのですが、
柴田元幸の訳文は、ものすごく小慣れていて、
はじめっから日本語で書かれた小説のような感じがしちゃって、
だから「うわぁ・・・」ってなってしまうのかもしれません。
「もう! 海外の小説が読みたかったはずなのに!」といういらだち。
そう、ちょうど借りてきた映画に、
日本語吹き替え音声しかなかったときと同じように。
そんなの、がっかりですよね。そう、がっかりなんですよ。

コメント

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