美術館が好きになった瞬間ならいまでも思い出せる。
富山県美術館に行ったときだった。
自動ドアを抜けると、淡いベージュを基調にした内装。何十年も前からあるようにもみえるし、開館してまだ1日しか経ってないようにもみえる。メインフロアは大きな吹き抜けになっていて、螺旋状のスロープが階上へと続いている。巨大なジッパーの付いた怪物の描かれた岡本太郎ならではの絵、黒地に花火が横殴りに降り掛かってるような抽象画、どこを描いたのか何を描いてあるのかわからないほど色褪せて沈んだ色合いの風景画、フランシス・ベーコンの描いた誰かの肖像画。どれも物静かで、激しく感情を揺さぶられるなんてこと(多くのひとが芸術に求める)はないのだが、美術館を後にする頃にはとても満足していた。
「ICO」をプレイして数時間が経過した頃ぼくはこの美術館での感覚を思い出していた。といっても、このゲームの世界に美術品が陳列されているわけではない。この世界にあるのは息を止めたように静まり返った古城と窓から空から射し込んでくる眩い陽光、迫りくる黒い影、そして角の生えた少年(イコ)と白い肌の少女(ヨルダ)だ。
ぼくはイコを操作してヨルダといっしょに古城から脱出することを目指す。しかし困ったことにヨルダは放っておくと勝手にどこかへ行ってしまい、挙げ句、黒い影に連れ去られてしまうとゲームオーバーとなる(イコは石になってしまう)。そのため手をつないで行動をともにし、ヨルダを守らなければならない。
はじめの印象こそ「ゼルダの伝説」に似た謎解き3Dアクションといった趣だったが、次第にゲーム性は二の次になっていった。たまにヨルダを捕まえようと姿をあらわす黒い影たちを木の棒で殴り倒す……それよりも派手なことはめったに起こらない。舞台である城内はつとめて薄暗く冷たい静謐を湛えているのだ。しかし、ひとたび城の外に出れば空からは噓のようにやさしい陽光が降り注ぎ、小鳥がさえずっている。その様子があまりにのどかなので、あたりに茂った背の低い緑のなかにおもわず体を預けたくなるほどだ。
個人的にお気に入りのシーンは「石柱」と呼ばれるパートで見られる、謎の大広間だ。よくよく見るとこの部屋には怪物を模したような石像が其処此処に配されていて、天井も他の部屋に比べて高かったようにおもう。もしかすると何かの儀式をするための特別な空間なのかもとおもいたくなった。もっとも、実際にプレイする際はこの部屋そのものを訪れることはないのだが、妙に印象に残った。
「ICO」にはこのような見る者の想像を掻き立てる要素が至るところに散りばめられている。しかしそれはたいていのゲームにおける実績解除のような、プレイヤーに何か特別なプレイを強いるわけではない。プレイヤーはあくまでも自由にゲーム内世界を歩きまわることができる。"世界の終わり"も"救世主"も、過剰なまでの"暴力"も、ドロドロの"愛"どころか"キス"すらない。そうしたエンターテイメントという喧騒の対極にあって、このゲームは発売から20年が経った今なお静かな佇まいを崩すことがない。それはちょうど趣味のいい美術館に飾られた作品の数々のように、互いに主張し合うことなく、ただそこにいるだけなのだ。
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