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ネットの言葉について考えていること。

あけましておめでとうございます。
すっかりブログの更新を怠っていたら、
2013年が終わっていました。
3が日は酒を飲み続け、映画を見る日々でしたが
まあなにはともあれ年が明けたことだし、
とりあえずひとつ今の心境について書き残しておこうかと、
こういうわけで今日ブラウザを開きました。
ブログの更新を怠っていた、とは言いましたが、
実を言うと記事そのものは毎日のように書きためていたんです。
Bloggerの「下書き」フォルダや
Googleキープのメモがどんどん溜まっていって、
けど、そのほとんどを発表しなかった。
大学生の頃の自分であれば、
「完成度が低いから公開したくなかった」なんて
生意気なことを言ってたでしょうが
さすがに社会人になってまで
そんなことを口にするのは恥ずかしい。
じゃあなぜ発表しなかったのか?
自分の「言葉」の見方が変わったからと
(また生意気な言い方かもしれませんが)
そういう風に言えるかもしれません。
ネットという開放された場所において
あえて閉鎖的な空間を作る意義というのが
これまでぼくにはいまいち理解できませんでした。
2ちゃんねるやmixiが嫌いだったのも、
そこで流通する言葉がネット全体に普及するものではなく
あくまでもその場所においてしか効果を発揮しない、
すごく狭い言葉のように思われたからです。
「わたし、かわいくないから・・・」
と言う女子の大半は、相手から
「そんなことないよ!(かわいいよ!)」
と言われるのを待ってるものですが、
ちょうどそれと同じような気持ち悪さを、
閉鎖的なネット空間から感じていたような気がします。
逆に自分がネットで言葉を発する時は、
そうではない言葉で語りたいと心に決めていました。
他人のリアクションを前提にしない、
気持ち悪くない言葉。
それを追究していたのが、
ぼくの10代後半から20代前半期ということになります。
けど、それはネットというのがまだ
仕切りの少ない、無法地帯だったからこそ
喧伝できたことだったんです。
今やさまざまなサービスが乱立し、
ネットの至るところに、簡単に、
自分のスペースをつくれるようになりました。
その場所に応じて演じ分けられる自分のキャラも
格段に増えたと思います。
場に応じて振る舞い方、言葉遣いは増殖していって、
「こういう言葉を使えば気持ち悪くない」
という一般論が通用しなくなっていった。
どの言葉遣いに対してもそのメタ言語として
(たとえば「出たーwww○○○奴ーwww」みたいな)
茶々が入れられるようになる。
余談ですが
「裏アカ」とか「別アカ」とか呼ばれるようなものは、
本人にとっての「本音」を語れる場という意味で
一昔前の「自分探し」の変奏(ヴァリエーション)のように思われます。
まあ、けっきょく何が言いたいのかといえば、
ネット環境も変化し、
ただ他者依存しない言葉を単純に追究したところで
どうしようもない、というか、
つまらないじゃん、という心境に至りました・・・
ということなんです。
今や25歳、いや、あと数ヶ月で26歳になり、
20代後半、アラサーと呼ばれる日も近くなってきた自分が、
これから指針にしていくべきことはなんなのか。
それが問われているような気がして、
そんなめんどくさいことを考えていたら
ブログの記事がいつまで経ってもアップできない
なんていう状況に陥りつつあるわけです。
よいこの皆さんはぜひ真似されないでください。
ところで、「祝詞」というのは、
とにかく縁起の良い言葉を並べ立てて
神様に奉納する言葉の技芸と聞いたけれども、
それ以外にも、めでたいことをいっぱい言うことで、
実際にめでたいことが起こりますように、という
言霊信仰の意味合いもあるようです。
シメの言葉は、簡素な祝詞で寿ぎ、
読者の皆さまの一年を祝福したいと思います。
おもしろおかしくたのしく
ゆかいにおだやかにしあわせに

コメント

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