スキップしてメイン コンテンツに移動

「アラベスク」九鬼周造

オシリス、アビス、牛の神
鰐の齒、蛇の目、獅子の髪
輪廻轉生とはの浪

天動要義、幾何原理
生軆解剖、血は淋漓
木乃伊(みいら)は朽ちず禁苑裏

ツウタンカモン、金字塔
パピルス繪巻、獅子像
名器珍賓無盡藏

黒絽のかつぎ、頬冠(ほほかむり)
耳輪の飾、惚れ薬(ぐすり)
クレオパトラは色を賣り

日月、星辰、棗椰子(なつめやし)
紅海、砂漠、ニルの葦(あし)
昔も今も變り無し

コメント

このブログの人気の投稿

フィンジの伝記から、《花輪をささげよう》Let us Garlands bring に関する部分をちょっとだけ訳してみた。

フィンジは、まるで自分が初めてシェイクスピアを曲にしているかのように、その詩に曲をつける。彼の最も記憶に残る2曲を含む「Garlands bring」には、そのことがよく表れている。「Come away, come away, death」の言葉のために彼が選んだリズムは、文学的な素養を持つ作曲家であれば誰でも考えつくことができるだろう。しかし、ジェラルド・ムーアが「高貴なドロップ」と呼んだ、2つの小さな上昇音の後に「death」という言葉を置くことは、言葉の内なる真実を見出すことだった。この曲は、フィンジの最も確かな不協和音の扱いを見せる。各節の後半の遅れた解決は、悲しげに引きずられるだけでなく、進行的なオープニングとバランスをとっている。そして、歌手の広い跳躍は緊張感を高める。この曲は、最後の「weep」の12音符の大きなメリスマのために、フィンジの作品の中では珍しい。詩を見ると、どのようにしてこの曲が生まれたのかがわかる。1節では、「O, prepare it!」という短い行は韻律的に区切られているが、2節ではその対応する行は「Lay me, O, where /Sad true lover...」と続いており、フィンジも同様にフレーズを続けている。そして、2つの節をバランスさせるために6小節が必要となり、歌の悲しみをすべて1つの長いバッハ的な曲折のあるフレーズに集約している。 フィンジは、「Fear no more the heat o' the sun」を20代に作曲しており、ミルトン・ソネットや「Farewell to Arms」のアリアと同じ頃である。それらすべてに共通しているのは、人生の短さというテーマである。そのような気分の中で、彼は「Golden lads and girls all must, as chimney-sweepers, come to dust」に抵抗することはできなかっただろうか。この詩は曖昧である。それは慰めだろうか?「fear no more」と、太陽の熱、冬の激しさ、中傷、批判を恐れることはないと言っているが、もはや人生が傷つけることができないという安堵感は、「...come to dust」という落胆したリフレインによって否定されている。フィンジは、感情をフォーマルでゆっくりとしたダンス・メジャーに抑え込んだ。...

【翻訳】エリフ・シャファク『イスタンブールの私生児』

エリフ・シャファク『The Bastard of Istanbul』(直訳:イスタンブールの私生児) TEDで知ったトルコの作家エリフ・シャファク。 Amazonで探したけど、 残念ながら日本語訳はまだされてないらしい。 仕方ないので英語で出ているやつを、 Kindleで無料お試し版をダウンロード。 ついでなので冒頭の部分だけちょっと和訳。 このエントリがきっかけになって、 誰かちゃんと翻訳してくれんものかしら。。。 書き出しはひたすら雨について書いてます。 雨だけでこんなに個性的に書けるのかと 感心してしまいます。 むしろこの後、 どういう風に展開していくのか気になりますね。 ■ ONE シナモン  いかなるものが天上から降ってこようとも、神にそれを呪ってはならない。そこには雨も含まれる。  たとえどんなものが降り注いできたとしても、たとえどんなに重い重い豪雨であったとしても、あるいはどんなに冷たい雹(ひょう)であったとしても、天国が用意してくれているものに対してはいかなる冒瀆(ぼうとく)も決してなされてはならない。誰もが知っている。そこにはゼリハも含まれる。  だが、7月の1周目の金曜日に、彼女はそこにいた。絶望的なほど混み合った道路の横に面した歩道を歩いていた。騎兵のように汗をかきながら、崩れたアスファルトの石に向けて――自分のハイヒールに向けて――声を荒げたところで道路の渋滞がなくなりはしないというのが都市における真理だというのに、狂ったように警笛を鳴らしまくるありとあらゆる運転手に向けて――その昔コンスタンティノープルという街を手にし、その間違いのために行き詰まりを見せたオスマン帝国に向けて――そして、そう、雨に向けて・・・このサイテーな夏の雨に向けて――次から次へと小さな声で悪態をつきながら。  雨はここでは苦行だった。世の中の別の部分で見れば、土砂降りというのはほとんどの人・物にとって間違いなく恵みとしてやってくるものだろう――穀物にとって良い、その地の動植物にとって良い、そしてロマン主義的な・余計なオマケを付けておくならば、恋人たちにとっても良いのである。もっとも、イスタンブールでは別だ。私たちにとって雨とは、必ずしも濡れてしまうということではない。汚れるということですらない。強いて言え...

ジェイムズ・ディッキー『白の海へ』

■ コーエン兄弟の映画にはいつも驚嘆させられる。 『バーバー』のどぎついジョークの淡々とした描き方、 『ファーゴ』のグロいのになんか笑えてしまうブラックな面白さ、 『ノー・カントリー』のハビエル・バルデム演じる殺人鬼の気色悪いくらいの怪演、 『バーン・アフター・リーディング』の飛び抜けたバカっぷり・・・などなど。 とは言うものの、 デビュー作である『ブラッド・シンプル』はおろか、 アカデミー賞にノミネートされた『トゥルー・グリッド』でさえ、 まだ見られてないので、 コーエン兄弟のファンを自認できるような人間ではありません。 ただ、「 コーエン兄弟 」という名前がくっついてると、 「おお、コーエン兄弟かぁ。これは見てみないとなぁ」 となる程度には好きなのだ。 ■ そんなもんだから、 『 コーエン兄弟        × ブラッド・ピット 映画化決定、舞台は日本!! 』 なんて売り文句の本があったら、 読んでみたくなってしまうのも当然なわけです。 それが、ジェイムズ・ディッキー『白の海へ』。 ■ 1945年、東京大空襲のさなかに 不時着したアメリカ人兵士が、 父と暮らしたアラスカの大地を思い出しながら、 東京から北海道へとひたすらに北進していく。 その途上ではアサシン顔負けの武術を使って、 日本の一般人を次々とぶっ殺して 食料やら衣料やらを手に入れて、 北の国で暮らしていく準備を整えていく。 ただ、「暮らしていく」とは言っても、 彼が憧れている暮らしとは テレビ見ながら呑気に暮らすというのではなく、 「フィッシャーテン」のように毎日、 その日の食料を狩って生き抜く、いわばモンハンのような生活だ。 なので、ストーリーが進むとともに装備もかなり充実してくる。 白鳥の羽を詰めた上着、熊や山羊の毛皮、 いろんな用途に使えるナイフ、北の地に住む先住民から入手した槍・・・。 こうした要素を主人公が奪っていく過程は、 その暴力性とは裏腹に非常に静かに描かれる。 こんな表現は「詩人」みたいで嫌いだけど、 「雪が降り積もっていくように」ゆっくりと積み重なっていく。 着実に着実に、軍隊の規律というよりも、 合理的な「狩り」のための計画が遂行されていく...