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舞城王太郎『イキルキス』文庫版を読む。


舞城王太郎『イキルキス』文庫版

単行本に収録されていた「イキルキス」も「鼻クソご飯」も「パッキャラ魔道」も、すべて雑誌掲載時に読んだものばかりだったから、その時には買わなかった。

で、文庫化されて、書き下ろし作品が2作(アンフーアンフー、無駄口を数える。)入ってると聞いたので買って、先ほど読み終えた。

■アンフーアンフー
息子の見る夢が、現実世界にも影響を及ぼすという謎の現象を目の当たりにして、妻と「僕」はどうしようかと思案する。妻は、幼い頃に木の枝をヤスリで削って作った手製の神様(ひんぽぽ様)のように、「僕」を手のひらで形を整え、息子のための神様にする(「僕」の外見も中身も特に変わるわけではない)。それ以降、息子の夢は、夢の中で完結され、現実には影響を及ぼさなくなる。けど今度は逆に「悪夢ばっかりじゃなくて、いい夢がこの世に持ち込まれてたはずじゃない?いい夢だよ?この世には元々は無かったんだよ?」と妻が言い出し、子供が世界に影響を与えていたかもしれない可能性について話す。いろいろ話して、けど、全部仮定と可能性の話だと言って眠りにつく。

■無駄口を数える。
女の子とも男の子ともうまくやれない「私」が、うまいこと結婚して、子ども(万理子)が生まれるが、高校時代からの友人、北原可織にその万理子が殺されそうになるという事件が発生。北原可織は逮捕され、執行猶予付きの有罪になるけど、「私」は北原可織その人には別に特別な感情をいだかない。それが逆に周囲の友達に不信感を与えてしまい、家に遊びに来た子なんかは「あの子、不妊だったんだよー?同情できるんじゃない少しくらい?」と詰め寄ってくる。うんざりした「私」はその友達を追い返すが、ドアの向こうでわめき続ける声はひとつひとつ台詞としてではなく、「無駄口」にしか聞こえない。「まだ続いてる、まだ何か続けてる」。

どちらも、夢と現実とか、内と外とか、そういう小道具をうまいこと使って、うまいことまとめてきてる。うん、そうだ、まとめられている。

舞城王太郎というと、いろんな要素をとことん取り散らかして、最後は何はともあれいい感じのまとめっぽいフレーズでラストを締めくくるっていうイメージがあったんだけど(『煙か土か食い物か』から『ビッチマグネット』、『獣の樹』まで)、『NECK』を境にして、なのか、なんなのか、妙にきれいにまとまった作品を出すようになった気がする。

芥川賞にノミネートされた『短編五芒星』とか「美味しいシャワーヘッド」なんか、まさにそういう作品のような気がするけど、これまで舞城の作品を読み終えたあとに味わえた「ん?え?ええと・・・いいねこれ」という、違和感と爽快感のミックスジュースみたいなものは鳴りをひそめて、特になんの引っ掛かりもない読後感が支配的になってるような気がするのだ。

それを「残念」と捉えるのか、「舞城が新しい段階に入ろうとしてる」と捉えるかは、読者によって違うとは思うんだけど、個人的には「そんなんどうでもいいからトム・ジョーンズの短篇集を早よ訳して出さんかい」って気持ちでいっぱいです。いつまで待たせるつもりでしょうね。アナウンスがあったの、去年の夏くらいだったような気がするんですけど。

ちなみに今回もやっぱり作品ごとにフォントが変えてあった。このフォントへのこだわりも『NECK』の頃からだろうか?まあ、確かに面白いんだけど、もっと広がりのある楽しみ方ができるようにしてほしい。たとえば「このフォントを使ってる時はこういう内容で・・・」みたいな法則性とか、そういうもの。

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