MEANING
音楽はしばしばその表現上の可能性や特性についての用語によって表される――それがこの、意味(meaning)という話題を、また「何はともあれ、音楽は何を意味するんだ?」という問題提起を引き起こすのだが。
この問いかけは音楽史・音楽学史、いずれにおいても繰り返し言われており、音楽美学におけるお決まりの問いかけのひとつである。もっとも、この問いかけは長い歴史を持ってはいるが、充分なフォーカスが当てられたのは19世紀において――その頃、ロマン主義と呼ばれるような音楽においてますます増大する主観性や表現上の可能性が、音楽に関する書物との相似を発見したのだ。
音楽の本質とその意味についての議論はウィーンの音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックの『音楽美論』(1854)という出版物から展開された。この本は音楽や意味についての話題を取り巻いている多くの前提をこの問題の中に呼び込み、音楽における自律性という主張や形式主義者が、音楽作品を理解するためのバイブルとして位置づけられた。ハンスリックにとって、音楽は「響きつつ動く形式」(ハンスリック 1986, 29)を内容とするものだった。言い換えれば、音楽の内的構造がその本質と固有性を理解するカギだったわけだ。ハンスリックの批判はワーグナーの音楽に、そして他の作曲家や関連する話題に向けられていた。ワーグナーの反応は、自作のオペラ《マイスタージンガー》(1867)においてハンスリックをベックメッサーという衒学者として登場させるというものだった。19世紀音楽が「非」音楽的、あるいは音楽「外」的な観点と呼ばれうるものを包み込むために、外部を見ていたということは、ワーグナーの楽劇という文脈に通じているのだ。しかしながら、ワーグナーはその時代における音楽風景もその遺産もどちらも支配していたのだが、そこにはまだハンスリックが提唱した形式的・自律的な力としての音楽という概念からの強力な流れがあった。
音楽上の意味に関する最近の研究では、イギリスの音楽学者ニコラス・クックがハンスリックの残したものについて考察し、意味についての議論がまだ形式主義の根底にはあるということを示す。
問題あるハンスリック派の後継者は、たいていその哲学者の作品において――そして、もっと最近では、アカデミックな議論における意味についての問題を再認識した音楽理論家の作品において――明らかです。ただし、形式主義に通底する価値観をそのままにしている立場において、ではあるのですが……。基本的な前提(…)は、ハッテンが言うところの「音楽の意味は生まれながらにして音楽的なのだ」ということです。ですから、我々が音楽における表現上の特性について、つまりしぶしぶながらの同意という、あきらめという、また放棄という、その特性について話す際、我々はテーマについて、和声進行について、また形式的な雛形について話す時と同じくらい、音楽について語り合っているということなのです。(クック 2001, 174)
この説明によれば、そこには形式主義と意味との対立よりもむしろ、このふたつの知覚的な関係があるのだが、この関係性の基礎は音楽的な素材を通して、その辺りで構築されているのだ。こうした見方はアメリカの音楽学者エドワード・コーンによって定義されている。すなわち「形式的な、そして表現的なコンセプトは分離可能なものではなく、同じ問題を理解するための道がふたつあると言い表すことができる」(コーン 1974, 112)。
音楽についての最近の書物でも――たいてい新音楽学などと言われるが――、再び音楽の意味をめぐる問題に直面している。あるいは少なくとも、音楽の表象的な特性について考察している。もっとも幅広い試みはローレンス・クレイマーの著書『音楽の意味:批評史に向けて』(クレイマー 2002)においてなされている。その序文で、クレイマーは音楽の意味と近代的な経験との関係性について考察し、意味というものを音楽における中心的なファクターと見ている。すなわち「この本では意味というものを音楽史における縁の下の力持ちとして、そして音楽を聴く方法・場所・時間において、無くてはならないファクターとして褒め称えています」。
クレイマーにとって、この話題の幻惑は理解のための障害にはならず、そのカギとなる。すなわち「この本に通底するポイントは、音楽の意味における明らかなジレンマが事実上、それ自体の解決策であるということです」と。そして彼は音楽の意味について問いかけることが音楽の意味の一部分であると主張する。すなわち「音楽に意味はあるのかどうか、という問いかけが、まさに音楽の意味となるのです」(同上、2)。言い換えれば、我々は様々な言説によって音楽に取り囲まれているのだ――その言説が音楽に意味づけし始め、また音楽が意味と感じ取られるであろうものに影響しているわけだ。しかしながら、音楽の意味の追究は基本的に主観的なプロセスを維持しており、異なる反応や解釈を引き出し続けうるものなのだ。それらすべてが、音楽が意味しうるものの多様性に加わるのだ。
さらに興味がある人は:
Head 2002
Robinson 1997
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