ETHNICITY
民族という語は、生物学上の血統とは反対に、文化的な遺産やアイデンティティといった意味を共有している社会集団に適用される。もっとも、共有されているアイデンティティというこの意味の一部は、階級や人種といったディスクールによく反映されているかもしれない。このように、それはある程度の選択を許す概念なのだ――人種という場合にはしばしば選択や機会の欠如が仄めかされているのだけれども。民族的アイデンティティにもっと幅のある感じが含まれる場合には、ベネディクト・アンダーソンが主張したように「想像の共同体」と表現する(アンダーソン、1983)。
社会的・文化的に共通するものという立場から初めて人類を理論化しようと試みたのは19世紀、とりわけドイツの社会学者フェルディナント・テンニースとフランスの社会学者・哲学者エミール・デュルケムの仕事にまで遡る。民族という概念は1960年代、アフリカやアジアにおける独立運動の全盛期において社会科学が重要視され、ポスト植民地社会の北欧への移住に対する反応として発展した。この時代に台頭したアンチ人種差別的・アンチ植民地的な見方の結果として、民族は文化的な集団に属するポジティブな感情を表現するために社会学者によって作り出されたのであった。ソ連やその衛星国の崩壊よりももっと後になってからは、この概念はよりネガティブな含みをもってくる――旧ユーゴスラヴィアでの「民族浄化」という主張に起因する。このことは現代の民族についての対立的な問題を指し示している――共有された文化やアイデンティティ、所属というポジティブな意味がある一方で、政治的な敵意の標的という意味があるわけだ。
しかし、そこには線引きの問題がある。つまり、どこからがひとつの民族(あるいは人種)なのか、どこまでが別のものなのか? 音楽学者は民族の境界線についての書き直しに巻き込まれてきた。ナチス・ドイツは、1930~40年代、ポッターが説明したようなものをヨーロッパ音楽の残り物に付随する文化的なものと見ていた(ポッター、1998)。結果として、たとえばショパンやベルリオーズといった作曲家でさえもが実はドイツ人なのだなどと主張されたわけである。特別な努力は、イギリスがヘンデルのあからさまな帰化を認めたことに反応して、彼がドイツの作曲家であると主張し直すことにまで及んでいた。ここからヘンデルがイギリスにおいて孤立していると感じていたという主張が導き出され、いくつかの彼のオラトリオ、たとえば《イェフタ》(1758)の中のユダヤ人による歌詞が書き直された。ヘンデルがコラール音楽を偏愛したのはイギリスで経験したコラールの伝統を通じて発展してきたものなのだが、それは実用音楽が必要とされていたドイツの国家社会主義を見越してのことだったと主張された。そうした音楽は単純に、直接人々に向けて語られるものだったわけだ。しかし、ドイツ音楽とは何かということを定義しようとする試みは――重要な音楽学者、たとえばフーゴ・リーマンやフリードリッヒ・ブルーメの関心事は、全て幻想であることが明らかになった。なんと言ってもドイツはヨーロッパの中でも音楽の中心地のひとつであるということは、国際的に知られていたわけだから。
人類学者T.H.エリクセンは以下のように主張する。
民族とは本質的に関係性の一側面であって、集団の財産のことではありません(…)民族とは代表者と代表者の間における社会的な関係性の一側面なのです。彼らは自身のことを他の集団の構成員からは文化的に区別されていると考えます。他の集団のメンバーによって彼らは、最低限の規則的な相互作用を持つのです。
(エリクセン、1993、12)
この定義は民族がある関係性の文脈の中で機能している――その中において文化的な区別が存在しているように感じられる文脈の中で――という考え方を示している。たとえば都市におけるマイノリティ集団(ニューヨーク内のヒスパニック)、文化的に異質な人々(インドやチャイナ)、あるいはユダヤ人たちの住む特定の場所(ケルト、ローマ)。いずれの場合にしても、民族的アイデンティティはたいてい(知覚される、または現実の)覇権的な水準に対置する形で定義されるようである。しかしながら、たとえばジプシーの音楽やユダヤ人のクレツマーといったある一定の民族性を想起させる音楽は、ひとつの地理的な場所に限らず、歴史を通じてその受容や使用が大幅に変化してきたものなのかもしれない(ラダーノとボールマン、2000、41-4を参照されたし)。このような音楽は常にその連想される民族集団のメンバーによって演奏されるわけではないだろうし、作曲家や他の音楽家によってひとつの様式(style)へと変形されてしまう場合もあるだろう。たとえばモーツァルトがトルコ風の様式をオリエンタリスト的に使用したり、シューベルトがジプシーの様式を利用したり――特に晩年の作品の場合であれば、たとえば弦楽四重奏曲ハ長調D.956(1828)最終楽章の冒頭(ベルマン、1998aを参照されたし)。
民族的アイデンティティはある個人が生活する間に進化あるいは変化するかもしれないのだ。時には機会に接近する手段、あるいは影響力を行使する手段として。世紀末ウィーンにおいてはユダヤ人が多くの機関から除外されていたために、マーラーはウィーン国立オペラ劇場で指揮をするべくカトリックに改宗した。リストは、今でこそハンガリー人と考えられているが、ドイツ語を話し、ワーグナーと並び、新ドイツ楽派のひとりと考えられていた。バルトークは、他方、ハンガリー語を喋る重要性を強調し(たとえ、彼自身がそうだが、ドイツ語話者の家系であるにしても)、そしてとりわけ権威的なハンガリー人の民族性という理念――彼はそれがハンガリーの農民音楽に帰すると感じていたのだが――に結びついた近代音楽の構造に関心を持っていた。その時リストはハンガリーにおける真の国家的な楽曲はジプシーによって演奏されるそれと信じていたわけだが(ブラウン、2000、トランペナー、2000を参照されたし)。バルトークは、ルーマニアやクロアチア、北アフリカといった場所で農民音楽について研究した結果、最初期の民族音楽学者のひとりとなった。
民族音楽学という語はオランダの学者ヤープ・クンストに帰するものである。彼がそれを1950年に出版された本のサブタイトルに使用したのだ。その実践は言語学的・人類学的なスキルを含んだ学際的なものであり、幅広く語ることによって、西洋の演奏会用音楽という伝統の外部に存在する音楽に適用される。それは「文化の中の音楽研究」(Merriam 1959)や音楽の中の社会研究(Seeger 1987)といったように、様々に言い表されてきた。イギリスの民族音楽学者マーティン・ストロークスは以下のように述べている。
音楽〈とは〉、ある社会集団がそうだと考えたものなら全てそうなのです。原理主義的な定義や1960年代、民族音楽学の音楽という「宇宙」の探求、あるいは音楽学的分析というテキスト志向のテクニックとは反対です。
(ストロークス、1994、5)
ストロークスが示しているように、民族音楽学者たちは、そして人類学者たちは、演奏というものが単純に社会的・文化的な構造の反映であるという構造主義的な見方から離れてしまった。民族音楽学はもともと、ヨーロッパ中心の音楽学のように、音楽形式や音楽家に焦点を当てていたのである。つまりそれはある客観的・科学的なアプローチの可能性における信念を表現するものだったわけだ。究極的には、しかし、民族音楽学的な研究はその解説というイデオロギーを反映してしまっている。たとえばラダーノとボールマンが指摘しているのは「とりわけ問題なのは、民族や文化、主観性についてのかなり固定化された概念のもとに行われる民族音楽学の調査である」(ラダーノ&ボールマン 2000、4)ということである。しかしながら、音楽学が西洋の演奏会用音楽に対するその排他的な焦点に問いを発し始めたように、ふたつの原理の間に引いてある境界線は曖昧になりつつある。そして共有された関心事が発展してきているのだ。
民族という問題はますますグローバリゼーションと密接に関わってきている。たとえばヒップホップの国際的な広がりは人種的なディスクール――もともとはニューヨークのアフリカ系アメリカ人によって成文化された、抑圧ともがきの理念――を、フランスやオランダといったヨーロッパの一部に住む民族的なマイノリティの手中に持ち込んだという風に見ることもできるだろう。このやり方において、音楽の様式は似たような理念を伝えるために様々な民族集団によって共有され、適応されているのだ。
さらに関心のある方は:
Krims 2000, 2002
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