AUTHENTICITY
正当性(authenticity)は、様々な音楽的・音楽学的な文脈において生じるものだが、概してそれが指し示しているのは正しさやマジメさに関する何かしらの主張だ。それはたいていの場合、演奏法との関連において生じるのだが、また批評理論の中であるいはポピュラー音楽との関連においても作用することがある。
「古楽器」あるいはピリオド奏法が流行ると、しばしば誤って「正当 authentic」と言い表される。このような奏法は以下に挙げる要因のいずれかを、あるいは全てを取り扱おうとしていると思われる。すなわち、作曲家が生きていた時代の楽器。論文や記述された説明などといった証拠資料を参照した上でピリオド奏法のテクニックを披露しようという意識。そして、自筆譜やそれに関係する素材――たとえば改訂版や校正版のような――から明らかになる作曲家の意図したこと。
歴史を意識した、ややもすると「正当 authentic」な演奏法が探求され出したのは19世紀においてであり、この時期に一般的だった歴史意識を反映している。しかしながら、証拠資料に注目が集まったのは音楽学の実証主義的な性格を反映してのことである。もっとも、発展したのは20世紀を通じてのことであったが。また正当性に野心が向けられたのは20世紀における過去への没頭の結果と見ることもできるだろう。たとえばモダニズムとの関連で見られるように――とりわけ1920年代に台頭した新古典主義への没頭。これはアメリカの音楽学者リチャード・タルスキンが非常に明快かつ説得力をもって指摘したことだ(タルスキン 1995、90-154)。タルスキンはまた、「正当 authentic」なものとしての「歴史的」な奏法と「近代的」な奏法との関係は混同されている、とも主張する。
私が思うに、最も正当な演奏法というのは、誤った前提から型通りに引き継がれているもののことです。しばしば、片や「近代的な演奏法」、片や「歴史的な演奏法」というような分断が両者に見られますが、これはかなりめちゃくちゃなものです。後者こそ、まさに近代的な演奏法なのです――あるいはむしろ、もしお気に召すようなら前衛派とか、近代的な演奏法の最前線とかでもいいでしょう――前者は19世紀から受け継がれた古い様式の生き残りで、次第に衰弱しつつあるにもかかわらず、です。それは急速に、歴史的なものとなっているのです。
(同上、140)
言い換えれば、「近代的」な演奏法と考えられているものは歴史が長く、19世紀のロマン派的な主観性を反映しているのだが、「正当 authentic」な演奏法は――過去を作り直すというよりむしろ――現代の視点から見た過去を通じて、当時におけるその意味を決めているのだ。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーとロジャー・ノリントンによるベートーヴェンの《交響曲第9番》(1822‐4)の録音の比較を通じて――前者はワーグナーの影響と遺産を受けた指揮者であり、後者はピリオド奏法の実践におけるスペシャリストである――タルスキンは、この逆説に立ち戻る。結論としてタルスキンは、ノリントンこそが「まさに20世紀後半の正当な声」であるとしているのだ(同上、260)。
音楽作品が作られた当時の音や身振りを再現したいという欲求が高く評価されるべきものであるのは明らかで、専門的な演奏法のアンサンブルが隆盛を見せ、多くの良質な演奏や録音という結果を生み出されている。しかしながら、このような音楽活動が近代の――ひょっとするとポストモダンの――文脈の中で起こっているということを考慮に入れると、どんな演奏法であっても、正当であると正しく記述することは困難である。とりわけクラシック音楽の生活用品としての地位はますます上昇していること、そしてレコーディングや商業音楽といった、とうてい正当とは言えないようなプロセスを考慮に入れるとすれば〔なおさらのことである〕。リチャード・タルスキンによれば、
私たちが何よりもお話ししたいことは、本当に「正当性 authenticity」についてなのでしょうか?私は思うのですが、意見の一致によって、音楽を演奏することについて言葉を口にすることが――つまりある特定の様式を、振る舞いを、あるいは演奏上の哲学を定義するということですが――、説明でも批評でもなく、商業的なプロパガンダ、つまり広報係や興行主にとっての商売道具になるのではないでしょうか。
タルスキンが1988年にこの発言をしてから(Kneyonにて 1988)、「正当な演奏法」という語はこの文脈においてはますます死語となっていったように思われる。
また、影響力あるドイツの評論家テオドール・アドルノの批評理論においても正当性というものが思い出される。アドルノにおけるこの語の使い方は――当然のことながら――複雑である。アドルノによれば、共通の音楽言語や実践を合法化する枠組みが消滅した後、芸術の正当性はその素材(マテリアル)的・内在的なロジックの首尾一貫性に置かれるようになったのである。マテリアルが常に過去の諸慣習によって表されるということを認識していながら、こういった慣習は今やその本来の機能や意味から抜け落ちてしまっている。喪失の結果する意味はそれ自体の真実と同時に生じる。この真実というのもまた現実の認識である。つまりアドルノが言うところのアウシュヴィッツの恐怖によって定義される現実――「現時点で権威ある芸術家というのは、その作品の中で最も極端であった脅威に関する余震を引き起こす人々なのです」(パディソン 1993、56)。言い換えれば、真実と現実は作品の形式やマテリアルに影響を受けるのだが、しかしこのことが示唆するのは、音楽がそのような要因を標題的に記述しようと試みるべきだということでもなければ、あるいは作品と世界との調和は可能であるということでもない。
歴史的な実践やアドルノの批評理論を参照したことを踏まえるならば、ポピュラー音楽の関連の中に正当性 authenticity を導入することは逆説的なことのように思えるかもしれないが、しかしポピュラー音楽とその研究は正しさや完璧さ、マジメさといったものについての問題において共鳴しており、それゆえ、正当性という問題を直接に取り扱っている。明らかに、ポピュラー音楽家とファンとの関係は、ある一定の正しさの周辺にその同一性を見出すことができるし、ポピュラー音楽の経験における強烈さと表現性はしばしばマジメさのひとつである。このことが最も明白に証明されるのは、シンガーソングライターの役割においてだ。その中で我々はシンガーソングライターからパフォーマンスやレコーディングを通じてリスナーへとコミュニケーションがなされることの直接のラインを聴き、感じるのだ。このことは、たとえばボブ・ディランの音楽において明らかに定義される。生の声の強烈さは個人的な経験や正当性のオーラを伝える意味の深さを示している。しかしながら、ディランの音楽が文化産業内で内包し、消費者の日用品として市場に出されるという事実はおのずとこのオーラに疑問を付すこととなる。
こうした状況の複雑さについては近年、何人かのポピュラー音楽学者が触れている。アメリカの文化理論家・ポピュラー音楽のコメンテーターであるローレンス・グロスバーグは正当性にある3つの特殊な様態を同一のものとする(グロスバーグ 1993)。このことはヨハン・フォルネスがすっきりとまとめている。彼は相当明らかにカルチュラル・スタディーを背景にしているのだが。彼の『Cultural Theory and Late Modernity』(フォルネス 1995b)によれば、「グロスバーグはロック言説における正当性の3つのあり方を区別しています。最も一般的なものはハードロックやフォークロックを連想し、魔術的なほどに密な共同体によって構築され、表現されるように、ロックのロマンティックな観念の上に構築しているのです。もっとダンス向きで黒人的なジャンルの正当性はそうではなくリズミカルでセクシャルな身体という構造に合わせてローカライズされています。3つ目の形はポストモダニストの自意識的なポップ、そしてアヴァンギャルド・ロックにおいて現れます。それはスタイルによって演奏する、それらが常に人工的に構築されたものだとよく理解しながら、この非常にシニカルな自覚を通じてある種の現実主義的な正直さが示されるのです。」(同上、276)
グロスバーグのカテゴリー分け、そしてフォルネスの要約や展開は有益で示唆に富んでいる。いわゆるハードロックは強烈さとマジメさにおけるそれそのものの意味を描き出し、いつも独自の(original)素材のパフォーマンスと関係している。しかしそれはまた認識可能・聴取可能なその起源(origin)についての痕跡を伝えてくれるのだ。たとえば、我々はレッド・ツェッペリンのロック音楽を聴くこともあるだろう。それは、その先駆け、つまりR&B(rhythm ‘n’ blues)やロックンロール(rock ‘n’ roll)との関連との中でロック音楽の決定的な事例のひとつと言えるわけだ。しかしながら、レッド・ツェッペリンという事例が興味深いのは、それが正しさや完璧さという意味を強調しておきながら、この先達たちへの依存が剽窃行為と紙一重であるということを示していたからだ(ヘッドラム 1995を参照)。レッド・ツェッペリンという事例はしたがってまた非正当的なものの権威的な賞賛というグロスバーグの示唆の方へ向くよう見られることもあるだろう。つまり、ポストモダンにおける非正当的なものの賞賛の只中にあって、正当性を考える問題の数々を捉える条件の方へ。
Further reading:
Lawson and Stowell 1999
Mazullo 1999
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