DISCOURSE
ディスクールというのは16世紀から語りの様々なあり方を表現するのに使われてきたが、しかし最近ではポストモダン文化論者たちが、凝り固まった文化的通念のシステムを暴き、社会におけるアイデンティティの、意味の、表現の、そして移り変わりやすい知の、新たな特性を主張することに適用される。フランスの人類学者であり文化論者ミシェル・フーコーにとって、ディスクールとは語り方の体系(system)である。それを通じて世界や社会、あるいは自分そのものを認識し、理解し、相関的な文脈に置くことができるのだ(フーコー 1972)。この意味で、ディスクールは音楽活動を取り囲んでる評論として、そして美学的な通念――演奏家、作曲家、研究者、そして聴衆といった人たちの物の見方を形成し、影響している――として理解されるかもしれない。ディスクールと音楽活動との関係性の本質は、無意識的なものであり、発展のプロセスに従ってきた。しかしながら、作曲家の自伝や対談本の場合、ディスクールというのはもっとややこしいものになるだろう。たとえばロバート・クラフトによるストラヴィンスキーの対談本に見るように、作曲家や著者の声がどうしてもまぜこぜになってしまうのだから(ストラヴィンスキー 2002)。あるいはこうした本は、作曲家の持つ自分自身の感性には効果的なものかもしれない。さらに重要なのは、このような評論を通して、作曲家もまた自分の音楽をめぐるディスクールに影響を与えられるということだ。このことはとりわけ作曲家のナショナリズムについての見方に関するディスクール(ヴォーン・ウィリアムズ 1996)、あるいはたとえばモダニズム(シェーンベルク 1975)やポストモダニズムといった美学的な立ち位置に影響を与える際に重要だ。
音楽についてのディスクールが問題になるのは、音楽についての議論が音楽とは異なる言語でなされているという事実によるのだが、にもかかわらず言語学は音楽学的な思考に影響を与えてきた。ロシアの言語学者にして文学理論家ミハイル・バフチンの、作者とその〔作中の〕登場人物との散漫な距離に関するアイデアは、アメリカの音楽学者エドワード・コーンの、音楽作品の中には〈作曲者の声〉が存在するという示唆に反映されている――そこにおいて作曲者の声というアイデアはオーケストラにおいて語る別の声への道を与えているのだ(コーン 1974)。このアイデアはジャン・ジャック・ナティエ(ナティエ 1990a)やキャロリン・アベイトのような他の音楽学者によって展開されてきた――彼女の研究ではコーンのアイデアは「縁の下の声」として様式化され直してるわけだが(アベイト 1991; タルスキン 1992も参照されたし)。言語学者のもうひとつの展開は散漫な暗号化というアイデアである。たとえば何かを話している人がフォーマルな状況からそうでない状況へと語り方を切り替える時のように。日々のしゃべりにおいて〔言葉の限られた〕範囲が文脈に左右されるのと同じように、我々はひとつの作品内にある様々な局所において、様々なディスクールのあり方を期待することができるのだ。たとえばスケルツォとフィナーレとの間に。しかしながら、この種の例え話はより一般的には作品全体との関係においてなされるものだ(シュピッツァー 1996を参照されたし)。
ある音楽への分析的なアプローチは言語学者の影響を反映したものだった。ひとつの例として、意味論的な分析がある。これは構造言語学と物語論の影響を反映したものだ。このことは意味論的な分析がそうしたやり方で、たとえば愛や争い、欲望といったひとつの話題を音楽に扱わせるという関心によって理解される。つまりいかにしてこれらの理念は音楽言語へと〈暗号化〉されているのか、そしていかにして音楽はこのような暗号の間での〈切り替え〉を行っているのだろうか(サミュエルス 1995を参照されたし)。黒人のポピュラー音楽について考えてみるならば、多くの著作家がはっきりと理解したのは、バフチンの〈二声的な〉ディスクールについてのアイデアとヘンリー・ルイス・ゲイツJr.の『シグニファイング・モンキー:もの騙る猿』(ゲイツ 1988)という本での理論とをつなぐ可能性だった。ちなみにこの本は黒人文学において、アフリカの話し言葉をベースにした伝統と西洋文学の規範との二重プレイがあることについて研究している。デイヴィッド・ブラケットはこの〔《二声的》という〕アイデアをジェームス・ブラウンの楽曲におけるシャウトや声に混じる他のノイズの前景との関係の中に見出そうとした(ブラケット 2000)。一方、ゲイリー・トムリンソンはこのアプローチをマイルス・デイヴィスがジャズの規範とともに展開していく関係について調べるのに用いている(トムリンソン 1992)。
音楽についてのディスクールが構築しているのは、特定のジャンルや様式の継続を、音楽史におけるはっきりとした時代区分を、そして音楽的な規範の形成を確かなものにするための、音楽上の実践である。規範に関するディスクールが排除するのは――中心的(西洋的)な活動の中で天才的な作曲家の仕事によって設定された基準に従い、評価という考えを奨励するディスクールが排除するのは、必ず間違ったものとして知覚され、〈低級〉な基準という、作品の外側という考えを引き起こす素になるものなのだ。いくつかの例において、こういった解釈はポピュラー音楽やジャズに位置づけられている(アドルノ 1994を参照されたし)、――もっとも、これらの形が存在し、持続されているのは、一連の異なる価値や伝統、そして批評言語によってバラバラになった、まさにその一連のディスクールのおかげなわけだが。ポピュラー音楽学者サイモン・フリスはこう述べている、「ポピュラー音楽の喜びの部分として、それについて語るということがある」(フリス 1996, 4)と。しかしながら、彼は続けて、意味ある対話が行われるにはある程度共通した地盤がなくてはならないと指摘している、つまり「共有された批評的ディスクール」の枠組みである(同上、10)。これは論証できることだろうがおそらく、ポピュラー音楽とジャズは、音楽言語や様式によってというよりは、一般に共有されている一連のディスクールによって同族関係にあるわけだ。もっとも、ポピュラー音楽においてますます増えつつある様式的な複合化のおかげで、まったく批評的ディスクールが可能でなくなる時が来るかもしれないが。
音楽のディスクールは音楽作品の解釈の仕方に直接影響を与えるだろう。たとえば1970~80年代、音楽学は高度な形式主義的な解釈へと、そして音楽作品の内的なディテールの強調へとシフトしていった。形式主義のルーツは少なくとも19世紀ウィーンの音楽批評家エドゥアルト・ハンスリックの著作物にまで遡ることができるだろう。彼が攻撃したのは、標題音楽という理念に対してだった。解釈学的な読み――絶対音楽における意味の探求も含め――とは正反対の伝統の文脈において、この見方は起こった。ハンスリックが標題音楽よりも絶対音楽を評価する見方――とりわけ彼がワーグナーよりもブラームスを支持していた――が作り出したのは、20世紀音楽の思考に多大な影響を与えたディスクールだったのだ。たとえばアーノルド・シェーンベルクの音楽や書物の中にその影響があるように。
シェーンベルクは、ドイツ音楽の継続的な優位性の主張を通して(ハイモ 1990, 1を参照されたし)、国民主義的なディスクールを強調した。この例が示しているのは、たとえばギデンズやアルチュセールによって社会学や政治科学において広く考えられているような、言語におけるイデオロギー的な機能に関する特徴だ。イデオロギー的なディスクールが――たとえば1930年代ナチス政権化のドイツにおいて喧伝されていたように、文化的な評価についての理念と国家や人種、民族性とを区別しないディスクールが指し示すのは、歴史的・地理的なリアリティではなく、そのリアリティにおいてすでに構築されている展望を維持する、一連の文化上の神話なのだ。
ますます、音楽についてのディスクールは、とりわけ新音楽学の興隆から、かなり広い範囲の横断的な関心を、包含的な美学を、人種を、ジェンダーを、階級を、そして政治学を導入していってる。たとえば、最近の19世紀音楽の考察では東洋学者のディスクールが引き合いに出されることが多くなった。それこそが文化論者エドワード・サイードの著作『オリエンタリズム』(1978)における主題である。サイードは旅行書簡からフィクション、自伝までを含め、西洋の作家によって書かれたテクストにおける、世界のほかの部分をヨーロッパ人が植民地化した領域について考察した。
しかしながら、ロバート・ヤングが観察するには、
サイードのオリエンタリズムは、東洋についての明白な知の一システムを表現してはいますが、しかしその中では、東洋からやって来た〈他者〉は、語ることがまったく許されないか、あるいは魅惑的に語られるかするものなのです。すなわち〈東洋の他者〉というのはむしろ幻想や構造のうちにある一対象なのです。
(ヤング 2001, 398)
18世紀から作曲された甚大な数のオペラが東洋的な主題のベースになっており、こうした作品における〈他者〉は語ることを許されてはいるが、その言葉はどうしても作曲者や脚本家、歴史的な文脈における見方や価値観を反映してしまう。この事実の延長線上に、近年のオペラもある――たとえばジョン・アダムスの《クリングホファーの死》(1993)のように、〈他者〉に権威的な声をかけるような試みがなされているのだ。アダムズのオペラは実際、対照的なディスクールを葛藤の中に持ち込んでいる。すなわち、パレスチナ人のハイジャック犯、アメリカ人の人質、そしてアメリカのニュース・メディアにおけるサウンドバイト(* だ。
(* 訳註:ラジオ・テレビのニュース番組に挿入される録音/録画されたスピーチ・インタビューからの簡潔な抜粋。
さらに興味のある方は:
Gendron 2002
Parker 1997
(MUSICOLOGY: The Key Concepts, D. Beard & K. Gloag, Routledge, 2005)
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