Musicology: The Key Concepts (Routledge) から。
ABSOLUTE
絶対音楽という概念は19世紀のロマン主義に台頭し、まず初めにヘルダーのような哲学者やE.T.A.ホフマンのような批評家の書物から、うまく言語化されました。しかしながら、逆説的ではありますが、リヒャルト・ヴァーグナーの書物においてそれは、音楽的・哲学的な表象に付与されたものでした。彼はこの用語を鋳造したわけです(ダールハウス 1989年a, 18)。それは純粋にそれ自体を超えた何ものも参照せずに存在しているように思われる器楽曲に関係し、しばしば標題音楽の、あるいは叙述的な内容をもつ音楽の、対立項として見られていたのである。それはしたがってウィーンの批評家エドゥアルト・ハンスリック論争において特徴的である。彼はワーグナー作品の音楽外的な側面に攻撃をしかけ、そして、純粋で絶対な音楽の理解を通じて、美的な自律性と音楽形式主義という主張を導き出したのだ。
E.T.A.ホフマンのベートーヴェンに関する書物は器楽曲の重要性を向上させ、それをロマン主義の文脈の中に位置づけた。有名なベートーヴェンの交響曲第5番(1807-8)のレビューにおいて、ホフマンは以下のことを明らかにする:
音楽が独立した芸術として語られる時この用語はもしかすると器楽曲にしか適用できないかもしれない。それはあらゆる助力を、他の芸術のあらゆる混合を、そして与えられた純粋な表現を、それ自体のもつ特定の性質のために軽視しているのだ。それは全ての芸術の中で最もロマン主義的なもの―純粋にロマン主義的な、唯一のものと言えるかもしれない―なのだ。
この「独立した芸術」という示唆は、絶対音楽の暗示によって、器楽曲を向上させ、偉大な作品という規範の形成を通じて、つまり交響曲というコンテクストによってかなり明白に定義されたプロセスを通じて、高い美的価値に帰した。
ワーグナーにとって、絶対音楽は、自身の楽劇という観点から、批判の対象だった、それは最も広範囲な音楽的かつ音楽外的な世界を包含することを求めるものだったのだ。しかしながら、ベートーヴェンの交響曲第9番(1822-4)への参照を通じて、ワーグナーは移行という、あるいは台頭という意味を提示する。第4楽章における器楽的なレチタティーヴォについて、ワーグナーはこう述べる:「もうすでにたいてい絶対音楽の躍動は破壊され、それは男性的な雄弁さによる他の器楽の騒ぎであり、解決へ向けて押し上げ、そしてついにテーマのような歌の中へと過ぎ去っていく」(ダールハウス 1989年a, 18)
明らかに、ベートーヴェンの交響曲第9番はワーグナーにとって、そのテキストと声の結合という意味で重要な作品だった、彼はそれを自身の音楽と言葉の統合のモデルと解釈したのだった。ワーグナーが絶対的と言い表した音楽は、その欠落によって、不在によって―ある特徴をもつのだが、絶対音楽の信奉者にとってこれらの不在はその強みであった―絶対的になる音楽だった。ドイツの音楽学者カール・ダールハウスは、自身の、絶対音楽に関する決定的な研究書の中でこう述べる:
「絶対音楽」という―以下、我々が独立した器楽曲と呼ぶような概念は(中略)器楽曲が純粋に明らかに音楽の真なる性質をまさに概念の、対象の、そして目的の欠落によって表現する説得力を内含しているのである。
言い換えれば、音楽は確固とした概念やあるいは機能の欠落というあたりで、ある純粋性を達成するためのものとして見られていたわけで、時代の「芸術のための芸術」にも反響した。ダールハウスにとっては、この絶対音楽というのは今や典型的なものとなってしまったのだ:「絶対音楽という理念は―徐々に、そして抵抗とは裏腹に―19世紀におけるドイツの音楽文化という美学上の典型になってしまったのです」。このパラダイムの確立は他ジャンルの受容にとっての問題を提示した、たとえばリート、これはその性質や独自性としてテキストに依存しているのだ。絶対音楽に向けられた意見をめぐる議論はまた、それ自身の美的な純粋性や自律性へのユートピア的な意志から、20世紀のモダニズムにも影を投げかけている。
さらに興味がある人は:
Chua 1999
Dahlhaus 1983a 1989b
Grey 1995
Hoeckner 2002
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