スキップしてメイン コンテンツに移動

【翻訳】NATIONALISM【ナショナリズム】

NATIONALISM
ナショナリズムとは国民国家――それはナショナリズムという考え方に先行するわけだが――の台頭によって生じた、ひとつの意見であると定義できる。それは芸術家についてだけでなく、しばしばより決定的に言えば、歴史家、批評家、そして聴衆についての意見でもある――ちなみにナショナリティとはひとつの状況である(アームストロング、1982 タルスキン、2001参照)。国家とは、必ずしも境界線によって定義されたものというわけではなく、政治的な地位とかある共同体の自己定義という条件を媒介していった結果である――宗教、民族性(スミス、1986参照)、人種、言語あるいは文化に応じて。もっとも、そこにおいては協調に関するいかなる行為も必ず排他に関する行為となるわけだが。しかしながら、ナショナリズムはまず一般的に共有されている歴史についての意味、つまり地域的・個人的な違いを乗り越える傾向のある考え方に依っている。ナショナリズムの拡散において重要なのは、主張されてきたように、16世紀に登場した印刷メディアの発展であり、歴史学者ベネディクト・アンダーソンが〈想像の共同体〉と呼んだものを形成する際に果たしたその役割であった(アンダーソン、1983)。
音楽においてナショナリズムという考え方の先例は様々な音楽様式についての意識から生じた。このことは時に、制度的なサポートの結果として現れた。たとえば8世紀から9世紀にかけてのカロリング朝の庇護の下におけるグレゴリオ聖歌のように。このような区別は時たま対抗意識という意味を導き出したのだ――たとえば18世紀のイタリアとフランスのオペラのような――けれども、そこにはまた実りあるやりとりの例があった。たとえば14世紀における「イギリス風」がフランスへ輸出されたように(Caldwell1991)。しかしながら、国民国家における文化的・政治的な価値観という意味を表す音楽様式という考え方は、歴史的に見れば比較的最近のことであり、歴史的な出来事から後続している。たとえば1649年のイギリス王の斬首において、音楽とナショナル・アイデンティティとの間の新しい種類の政治の直接的なつながりの前兆となった。
ナショナリズムについて研究する音楽学者の関心事のひとつに、国民様式を構築することを決定し、〈各国家の伝統というモデル〉を発展させる方法を見つけるということがあった(ベッカーマン、198662 ダールハウス、1989b)。このような試みについて興味深いのは、それが192030年代におけるドイツの理論家による同様の研究と鏡写しになっているということだ。それは政治的な理由から音楽におけるドイツ的なものを定義しようとしていたのである。Michael Beckermanは、『In Search of Czechness in Music』という研究書の中で(ベッカーマン、1986)、チェコ的なものとは作曲家と聴衆の頭の中に存在する「暗示的な標題」であると結論づけている。それは「音楽様式を活性化するものであり、与えられた作品と、大きなダイナミックな文脈という狭い領域同士をつなげることができる」(同上、73)。そういうわけで、彼が言うには、チェコ的なものは、そして他のいかなる国民性も、国のランドマークと同じくらい現実的な「感覚的事実」と考えられなければならないのだ。言い換えれば、音楽におけるナショナリズムは文化的な理念の網の目に依拠しているのだ――それは作品の外に存在せねばならず、作品がナショナリスティックなものとして解釈されるには、これらの理念と関係してなければならないのだ。
またダールハウスが強調していたのは、ナショナリズムが芸術における正統性の形を表象しているという主張を再評価する重要性と、ナショナリズムが生じた様々な方法を考慮に入れる必要性であった――たとえば、統一を通して、王政を退けて、あるいは独立に向けてもがいて――多様な国民国家の成立の間に現れた歴史的なオーヴァーラップだけではないのだ。芸術や音楽におけるナショナリズムの興隆は、その近代政治的な意味で、一般的にフランス革命というイメージと結びついてきた。その後に「ナショナリズムが思考モデルとして、そして感情の構造としてヨーロッパを支配するようになったのだ」(ダールハウス、1989b85)。それは大部分がナポレオン戦争と、それに後続するナショナリズムの根拠の結果として19世紀を支配したのだ――それは軍隊や政治的な勢力拡大主義といったものの興隆の結果として生じたのである。たとえば、フランス、プロイセン、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン・トルコ帝国において顕著であろう。この形体における初期のナショナリズム的な表現は18201850年までのイタリアのリソルジメント・オペラ、とりわけロッシーニやヴェルディの作品や(Gossett1990 パーカー、1997)、1830年代イギリスのロマン派オペラである。しかしながら、ドイツの作曲家や批評家はナショナリズムが音楽において意味するであろうものに真っ先に疑問を呈した。そしてロシアと並んで、ドイツは他の人々がかつて自国の中にある違いの意味を定義したモデルを提示した(Applegate1992)。
ドイツ、そしてそれに後続するロシアや他のヨーロッパ国家を中心に、音楽における国民性に関して、国家が持っていた理念というのが、まさに民族精神(der Volksgeist)という考え方であった。つまり「行動的・創造的な力として人々の精神の内に宿る信念」である(ダールハウス、1989b85)。たとえばJ.G.ヘルダーの『Stimmen der Volker』(『人々の声』、1778-9)や『Des Knaben Wunderhorn』(『子どもの魔法の角笛』、1805-8)といった小さな町や村での歌集(Volkslieder)や詩集が編まれたのは、たとえばありのままの自然の優位性や崩れた、頽廃した文化を超えた真理といった初期ドイツロマン派のコンセプトから出てくる、ドイツ・ナショナリズムの台頭を示している。それらはまたシューベルトのような作曲家にとっては素材の宝庫であった。E.T.A.ホフマンやA.B.マルクスを含むドイツの作家たちはとりわけベートーヴェンに関するディスクールを通じて、ドイツ音楽の価値を普遍化し、全ての器楽曲をドイツ音楽と最終的に同一視するということになったのである。それは主に、ひそかに興隆したプロセスだったのである(Applegate1992)。もっと後の研究においては、その連想から音楽理論における(MacClatchie1998)、そして歴史主義におけるナショナリズムの影響が考えられてきた。たとえば新ドイツ楽派――ドイツの音楽史家フランツ・ブレンデルの1859年の造語なのだが――はヴァーグナーやリスト、ベルリオーズが含まれ、そこで言われるには全員ドイツ精神という主張によってつなげられているのであった。
ヨーロッパ中で起こった18489年の革命は明確にナショナリストの感傷を鼓舞する際に大きな重要性に関していたが、彼らはまたロマン派の芸術的な主観性への欲求と現実世界を表現したいという欲望との矛盾が出てきた(ダールハウス、1989b)。より実証主義的な作曲家の意識、つまり科学的にも技術的にも前進した19世紀後半の文脈は、まあそこにドイツナショナリズムが左右されてきたわけだが、19世紀初期のロマン主義の打破を意味し、近代の誕生として、後に続いて解釈されてきたものにおいて不可欠であった(バンクス、1991 バトラー、1994参照)。同様に、ストラヴィンスキーのいわゆるロシアバレエにおけるネオナショナリズムは国際的なモダニズムへの踏み台だったわけだ。18489年以降の変化のより暗い面はあまり寛容でないナショナリズムの形式の台頭である。音楽においては、このことは反ユダヤ的な観点の表現を生み出す結果となった。それは19世紀後半のドイツにおいて急速に潮流を得ていくものだった(Weiner1995 Hallman2002参照)。そしてリヒャルト・シュトラウスの音詩〔一般的には「交響詩」として知られている〕や初期オペラに見られる尊大な軍国主義や反ユダヤ主義、頽廃(decandence)である(Gilman 1988)。
音楽におけるナショナリズムの側面のひとつに競争心――つまり支配的な国家を追いつき追い越そうとする試みであった。たとえば1871年以降、つまりプロイセン軍によるフランスの敗北の後ということだが、フランスの作曲家はドイツに張り合うために絶対音楽を書いた。ロシアの場合には、競争心は音楽の威光を確立する際に重要なステップだった。もっとも、この事例においては、ヨーロッパの伝統が土着の手法に対する関心とぶつかり合ったわけだが(タルスキン 19961997)。他の事例では、ナショナリズムは他の国の音楽を意識的に拒否する中で自らを表明した。このことは世紀末(fin-de-siecle)におけるフランスのディスクールにおいて見られるかもしれない――つまりドイツのどギツさとは反対に、明快さと効率さの必要性を強調するものだ。
作品の、そして後の世代の音楽学者たちによる懐古的な解釈の受容もまた重要に違いない。ジョン・デスリッジが言うには、ヴァーグナーの「ザクセン王国のドイツ国立劇場内の組織のための企画書」は、それが書かれた1848年には初めのうちは嘲笑とともに受け取られたが、それが1871年に出版されるとかなり話題になった。つまりドイツ帝国の成立した年である(Deathridge 199153)。ナチスドイツの非ドイツ人作曲家に対する評価はよく記録されており(ポッター 1998)、アラン・フローグリーはヴォーン・ウィリアムズの音楽が戦間期にイギリスのナショナリズム的なアイデンティティを構築したいという欲求に従って評価されていたことを魅力的に説明している。それは批評家や作曲家がその音楽や聴衆への影響を受容することについての重要性を探求するドイツに対抗してのことだった(Frogely 19961997)。フローグリーはまたヴォーン・ウィリアムズが自身のナショナリズムや音楽に関する観方をどれくらい修正したのかを考慮に入れている。つまり、バルトークの著作にも見られる変化である(Frigyesi 1998、ブラウン 2000)。
近年の研究においてもナショナリズムがどの程度選択的に構築されてきたのかということが強調されてきた。いくつかの例として、文化的な記憶喪失によるわざとらしい形式、たとえばナチスによるメンデルスゾーンやシェーンベルクの歴史的な説明からの排除というもの、彼らはドイツナショナリズムと文化的に行き過ぎた愛国主義の可能性を構築する際に顕著な役割を果たしたにもかかわらず(ポッター 1998)。同化と吸収という混交のプロセスもまた選択することをベースにしている。たとえばハンガリー人の国民音楽的な様式はジプシー音楽の解釈へと移行すること次第で決定し(ベルマン 1998a)、パリ人の新古典主義はストラヴィンスキーの音楽をフランスのナショナリズムへと同化した産物だったわけだ(Messing 1996)。その後に続いて、それはアメリカにおける国民音楽的な言語を形成しようという試みのための方針となった(Tischler 1986)。ジャズもまたフランスとアメリカの作曲家がナショナリズム的な目的のために様々に吸収してきた(Fry 2003)。近年の研究はまたシベリウスの音楽におけるナショナリズム(Grimley and Rushton, 2005)や、エルガーのイギリス帝国主義とのつながり(フランクリン、1997b)、ナショナリズムを音楽的な技術や伝統という側面から解釈すること(ベルマン、1998a)、国民音楽における言語の役割(ベッカーマン、1986)、音楽家が外国で生活することでナショナリズム的に貢献すること――たとえばショパン(Milewski1999)やバルトーク、シェーンベルクといった――についても考察している。
冷戦――その間、西洋におけるハイ・モダニズムの非ナショナリズム的な制度化と東欧のソヴィエト圏の国々における民族色の強い社会主義リアリズムとの間には幅広い両極性を描き出すことができるわけだが――その後にはグローバリゼーションが興隆し、地域の抵抗や多様性に焦点を当てるという結果を導き出した。こうしたものはナショナリティについての問題をしばしば避けるわけだが。しばしばこのことは国家よりもむしろ民族性に重点を移行することによって達成される。たとえばリゲティの音楽における場合のように。もっとも、バートウィッスルの場合は国家連合体という象徴に頼っているようだが。たとえば彼のオペラ《ガウェイン》(19911994改定)において。しかしながらナショナリズムという考え方は同時代におけるいくつかの文脈において直接的に起こったのである。たとえば、黒人の市民権運動は黒人単一国家という理念を導き出し、ジョン・コルトレーンやチャーリー・ミンガスといったジャズ・ミュージシャンによって喧伝されたのである。ファンクやヒップホップはどちらも黒人ナショナリズムを連想してきたけれども。ジェームス・ブラウンの《Revolution of the Mind》(1971)やパブリック・エネミーの《It Takes a Nation of Millions to Hold Us Back》(1988)が示しているように。黒人とは違う展望からは、アメリカ国家の中にある価値観や精神の支えから特定のアメリカン・ミュージシャンを取り込もうという試みがなされた。たとえばハンク・ウィリアムスやブルース・スプリングスティーンのように。しかしながら、スプリングスティーンの《Born in the USA》(1984)は、ナショナリズムという考え方に批判的なソング・ライテイングの伝統に属している。他の顕著な例としてはジミ・ヘンドリクスの1969年ウッドストックでの《The Star Spangled Banner》やマドンナの《American Life》(2003)という脱構築的な解釈がある。ユーロビジョン・ソング・コンテストはアメリカのポピュラー音楽というヘゲモニーに抵抗している。もっとも、投票というのはしばしば国家や地域の提携というポリティックスを反映しているのだけれども。大昔からの恨みだけではないのだ。一方フランスでは規制はフランス語のポピュラー音楽を
保護するために位置を占めている。イギリスにおいては、アメリカの支配への抵抗は1960年代のビートルズやローリング・ストーンズの成功にまでさかのぼり、1970年代のイギリスおけるプログレやフォーク、パンクといったロックにおいても見出せる。これらすべては様々なやり方でイギリスのナショナリズムという主張を試しているように見えるだろう(マカン 1997、サヴァージュ 1991参照)。そしてエリック・ゾーロフが研究したのは、1960年代メキシコでのカウンター・カルチャー運動の展開におけるエルヴィス・プレスリーの吸収や国家機関がその消費を市場操作していたことについてだった(ゾーロフ 1999)。

Further reading:
Bohlman 2004;
Dennis 1996;
Hobsbawm 1992;
Mäkelä 1997;
Ridenour 1981;
White and Murphy 2001

コメント

このブログの人気の投稿

『各国の文芸誌の表紙に見る、日本における近代文学の〈形〉』みたいなタイトルのエッセイが書きたい。

■文芸同人誌の表紙 文芸同人誌の表紙のデザインというのは、 どれもこれもおそろしく似通ってる。 ↑こういう感じ。 ■文芸同人誌の表紙の源流 けど、そもそも、こういうデザインって、 誰が始めたんだ? と思って調べてみると、 文芸春秋 白樺 なるほど。 ここらへんっぽいな。 こういう「近代文学の黄金期」みたいなのを、 自分も追体験してみたい! っていう欲望というか、 そういう純朴なイデオロギーが、 同人文芸の表紙デザインには隠されてる気がする。 ■文芸誌の表紙の源流 けど、たぶんもしかしてひょっとすると、 この文芸誌の表紙デザインにも、 なんらかの元ネタがあるんじゃない? 調べましょう。 新フランス評論( La Nouvelle Revue Française ) ロシア思想( Русская мысль ) サザン・レヴュー( The Southern Review ) ふーん、なるほどなぁー。

【翻訳】エリフ・シャファク『イスタンブールの私生児』

エリフ・シャファク『The Bastard of Istanbul』(直訳:イスタンブールの私生児) TEDで知ったトルコの作家エリフ・シャファク。 Amazonで探したけど、 残念ながら日本語訳はまだされてないらしい。 仕方ないので英語で出ているやつを、 Kindleで無料お試し版をダウンロード。 ついでなので冒頭の部分だけちょっと和訳。 このエントリがきっかけになって、 誰かちゃんと翻訳してくれんものかしら。。。 書き出しはひたすら雨について書いてます。 雨だけでこんなに個性的に書けるのかと 感心してしまいます。 むしろこの後、 どういう風に展開していくのか気になりますね。 ■ ONE シナモン  いかなるものが天上から降ってこようとも、神にそれを呪ってはならない。そこには雨も含まれる。  たとえどんなものが降り注いできたとしても、たとえどんなに重い重い豪雨であったとしても、あるいはどんなに冷たい雹(ひょう)であったとしても、天国が用意してくれているものに対してはいかなる冒瀆(ぼうとく)も決してなされてはならない。誰もが知っている。そこにはゼリハも含まれる。  だが、7月の1周目の金曜日に、彼女はそこにいた。絶望的なほど混み合った道路の横に面した歩道を歩いていた。騎兵のように汗をかきながら、崩れたアスファルトの石に向けて――自分のハイヒールに向けて――声を荒げたところで道路の渋滞がなくなりはしないというのが都市における真理だというのに、狂ったように警笛を鳴らしまくるありとあらゆる運転手に向けて――その昔コンスタンティノープルという街を手にし、その間違いのために行き詰まりを見せたオスマン帝国に向けて――そして、そう、雨に向けて・・・このサイテーな夏の雨に向けて――次から次へと小さな声で悪態をつきながら。  雨はここでは苦行だった。世の中の別の部分で見れば、土砂降りというのはほとんどの人・物にとって間違いなく恵みとしてやってくるものだろう――穀物にとって良い、その地の動植物にとって良い、そしてロマン主義的な・余計なオマケを付けておくならば、恋人たちにとっても良いのである。もっとも、イスタンブールでは別だ。私たちにとって雨とは、必ずしも濡れてしまうということではない。汚れるということですらない。強いて言え

フィンジの伝記から、《花輪をささげよう》Let us Garlands bring に関する部分をちょっとだけ訳してみた。

 フィンジはシェイクスピアを、まるで自分が初めてそうする作曲家であるかのように位置づけている。《 花輪をささげよう》の中に は彼にとって最も思い出深い歌曲が2曲ある。あらゆる教養ある作曲家が  ' Come away, come away, death'  の言葉に対して、自分のリズムを考え出してきたことだろう。しかし、  'death'  という言葉についてジェラルド・ムーアが「気高き落下」と呼んだものによって、ふたつの小さな盛り上がりを締めくくったのは、この言葉の内面的な真理を発見したのと同じことなのであった。この歌はフィンジの不協和音の腕前がその最も核心的な点で示されている。それぞれの行の後半における引き伸ばされた解決は、悲しげに引っぱるだけでなく、参列行進のようなオープニングとのバランスを取ってもいる。そして歌手の幅の広い跳躍が緊張感を高めるのだ。この歌はフィンジの作品においては珍しく最後の  'weep'  に 12 音のすごいメリスマ〔節回し〕がある。この詩をパッと見てみると、いかにそれが起こりえたのかが分かる。第一節の、  'O, prepare it!'  という簡素な一行は行末で収まっている。ところが、第二節では同じ箇所がはみ出ている。――  'Lay me, O, where /Sad true lover...'  そこでフィンジは自分のフレーズもはみ出させている。だからその節のバランスを取るのに6小節が必要だった。バチャン島民族の曲がりくねった長いフレーズのひとつの中に、 歌のすべての悲しみを込めるのである 。  フィンジは  'Fear no more the heat o' the sun'  を 20 代で残した。この頃には、彼はミルトンのソネット集と武器よさらばのアリアを作曲している。これらを見てみると、すべてが人生の短さについてである。つまりこのムードで彼はどのようにして「金持ちも女もみんな、煙突掃除屋みたいにゴミになる」に抵抗できたのだろうか? この死はふたつの側面をもってる。元気づけられる? ――それは言う、おそれはもはやなく、日は熱く、冬の猛威、中傷、非難。しかし人生がもはや傷つけられない安堵はドスンという音、幻滅気味の「…