スキップしてメイン コンテンツに移動

【翻訳】ルドルフ・シュタイナー「バルザック」

ルドルフ・シュタイナー
バルザック
生誕100周年記念に寄せて
初出:Magazin für Literatur 1899, 68. Jg., Nr. 22

オノレ・ド・バルザックは1799520日にフランスに生まれた。彼は芸術家として、われわれの世紀の世界観に、何世紀も昔のキリスト教神学がわれわれに植えつけた精神主義に対して自分の意志を貫き通すために必要な表現への全てのかたよりをもたらした。ある言葉でこれらの近代的な世界観を特徴付けるとするなら、こう言わなければならない。すなわち「それは自然科学的な認識を根拠にして人々の理解を求めていたのである」と。われわれは、宇宙の構成や運動を純粋に、自然法則的に理解しようとする――それが今日のわれわれの念頭にあるわけだ――のと同じように、人の品行もまた明らかにしようとする。われわれはなぜ神は悪魔がこの世界にいることをお許しになられるのかということをただじっくり考えるだけではなく、人間の組織についても――こう言ってもいいのなら――悪魔のように見なされるような発言に至るのと同じように理解しようとする。
こういった精神の潮流をバルザックは大げさに表現したのだ。彼は人間社会の自然調査員であろうとした。ダンテが〈神にまつわる〉喜劇を書いたように、彼は〈人にまつわる〉喜劇を書き、そうしてこう考えたのだ。すなわち「動物学的なあり方があるように、社会的なあり方がある」と。たとえば動物界においてはライオンと犬、哺乳類と鳥類の区別が把握されなければならないが、それと同じように人間社会においては役人と商人、財界人と生まれながらの貴族がいるわけだ。
それによって以下のような見通しを立てた。ライオンの動物的なあり方は個々の事象を通じて論じ尽くされるために、われわれがそのあり方の特質を理解してしまえば、こういったもののどれもがわれわれの関心を引かなくなるのだ。まだ嫁に出てないお嬢さんは、自分のペットの子犬の個人的な特異性について特別な関心を抱くことだろう。こうした特質は、一般的な注意を引き起こすことができないのだ。まったく別のやり方で、問題は人々にまで至る。
ここにおいて、いかなる個体もが問題となるのだ。このあり方は個別的存在に尽きるものではない。どんな人間もわれわれに謎をかけてくるのだ。解説者にとっての心理的な謎――つまり役者にとっての芸術上の使命。それをバルザックは把握してなかった。それだから彼はひとりの人間を、個人というものを描かなかったのだ。悪い時にはすべての人物が不足している。われわれは社会的な類型の代表者の中に見るのだ。その関心を、目的を、その場での生き方をそれらは支配し、固定観念のように頭の上を漂っている。社会的な衣装、環境はただ示されるだけである。人間はただの見本に過ぎないのだ。
バルザックの世界観の真理は、彼が無視する個々の事象が自然科学的にはっきりとわれわれの前に現れた時に初めて明かされる。したがってわれわれは現在の新しい世界観の代表者の何人かの祖先――基本的には個人というものが始まる時代になるまでは前進することのなかった人たちだけれども――をその中に見るのだ。
最も偉大なもののひとつに挙げられる、ニーチェの精神の悲劇は、決して人々の個人的な神秘の内にまでつきまとうことがなかった。ニーチェからしてみれば、しばしば個人主義と性格付けられるように、幅広い領域には、ほとんど類概念しか存在していなかった。プロレタリアートやキリスト教信者、女性や学者、そしてそれ以外の多くのものを、ニーチェは類としてしか見なしてなかったのだ。そして、こうしたことから、多くの矛盾がニーチェによって明らかになった。基本的にニーチェが観察者として、哲学者として行った主張はすべて、その結論と、その判断と矛盾している――それは彼の構築したものだというのに。個別的に言わなければならなかったことを、彼は一般的に特徴付けられる真理として主張したのだ。彼は自分自身の先入観――バルザックがその小説で描いていたような――に悩まされる。
本当に何の偏見もなく現実へと向けるまなざしというものが、両者のどちらにも欠けているという後々の結果を引き寄せる。彼らは自然科学の手に負えない真理を、人間社会には適用することができないのだ。彼らはそこで有効なものを単純にこちらへ向けて翻訳するだけだ。しかし、こうした逐語訳ではそれは偽物なのだ。
バルザックの小説という長編シリーズの中をかき進んでいった時、今日のわれわれはヘルダーリンが当時の人々を目の当たりにしたような状態になる。つまりわれわれは主人と召使を、貴族と庶民を、農民とブルジョワを目にするのだ。しかし、人間はいない。
本当に瞬く間に彼らを乗り越えていたのだということを心得た時に、われわれはようやく近代の世界観の偉大な預言者を理解するだけの洞察が得られるに違いない。ゲーテに関しても、われわれは彼の言葉を復唱し、解説するパーティを開くことによってではなく、われわれがまだ引き出すことができていない結論を、彼の見解から引き出すことによって理解しているのだ。その限りにおいてのみ物語は、われわれと、われわれ自身の活動の助けとなるような何かとを関わらせてくれるのだ。
(GA 32, S. 41-44)
http://fvn-rs.net/index.php?option=com_content&view=article&id=614:leser-und-kritiker&catid=31:ga-32-ges-aufsaetze-zur-literatur-1884-1902&Itemid=12

コメント

このブログの人気の投稿

フィンジの伝記から、《花輪をささげよう》Let us Garlands bring に関する部分をちょっとだけ訳してみた。

フィンジは、まるで自分が初めてシェイクスピアを曲にしているかのように、その詩に曲をつける。彼の最も記憶に残る2曲を含む「Garlands bring」には、そのことがよく表れている。「Come away, come away, death」の言葉のために彼が選んだリズムは、文学的な素養を持つ作曲家であれば誰でも考えつくことができるだろう。しかし、ジェラルド・ムーアが「高貴なドロップ」と呼んだ、2つの小さな上昇音の後に「death」という言葉を置くことは、言葉の内なる真実を見出すことだった。この曲は、フィンジの最も確かな不協和音の扱いを見せる。各節の後半の遅れた解決は、悲しげに引きずられるだけでなく、進行的なオープニングとバランスをとっている。そして、歌手の広い跳躍は緊張感を高める。この曲は、最後の「weep」の12音符の大きなメリスマのために、フィンジの作品の中では珍しい。詩を見ると、どのようにしてこの曲が生まれたのかがわかる。1節では、「O, prepare it!」という短い行は韻律的に区切られているが、2節ではその対応する行は「Lay me, O, where /Sad true lover...」と続いており、フィンジも同様にフレーズを続けている。そして、2つの節をバランスさせるために6小節が必要となり、歌の悲しみをすべて1つの長いバッハ的な曲折のあるフレーズに集約している。 フィンジは、「Fear no more the heat o' the sun」を20代に作曲しており、ミルトン・ソネットや「Farewell to Arms」のアリアと同じ頃である。それらすべてに共通しているのは、人生の短さというテーマである。そのような気分の中で、彼は「Golden lads and girls all must, as chimney-sweepers, come to dust」に抵抗することはできなかっただろうか。この詩は曖昧である。それは慰めだろうか?「fear no more」と、太陽の熱、冬の激しさ、中傷、批判を恐れることはないと言っているが、もはや人生が傷つけることができないという安堵感は、「...come to dust」という落胆したリフレインによって否定されている。フィンジは、感情をフォーマルでゆっくりとしたダンス・メジャーに抑え込んだ。...

【翻訳】エリフ・シャファク『イスタンブールの私生児』

エリフ・シャファク『The Bastard of Istanbul』(直訳:イスタンブールの私生児) TEDで知ったトルコの作家エリフ・シャファク。 Amazonで探したけど、 残念ながら日本語訳はまだされてないらしい。 仕方ないので英語で出ているやつを、 Kindleで無料お試し版をダウンロード。 ついでなので冒頭の部分だけちょっと和訳。 このエントリがきっかけになって、 誰かちゃんと翻訳してくれんものかしら。。。 書き出しはひたすら雨について書いてます。 雨だけでこんなに個性的に書けるのかと 感心してしまいます。 むしろこの後、 どういう風に展開していくのか気になりますね。 ■ ONE シナモン  いかなるものが天上から降ってこようとも、神にそれを呪ってはならない。そこには雨も含まれる。  たとえどんなものが降り注いできたとしても、たとえどんなに重い重い豪雨であったとしても、あるいはどんなに冷たい雹(ひょう)であったとしても、天国が用意してくれているものに対してはいかなる冒瀆(ぼうとく)も決してなされてはならない。誰もが知っている。そこにはゼリハも含まれる。  だが、7月の1周目の金曜日に、彼女はそこにいた。絶望的なほど混み合った道路の横に面した歩道を歩いていた。騎兵のように汗をかきながら、崩れたアスファルトの石に向けて――自分のハイヒールに向けて――声を荒げたところで道路の渋滞がなくなりはしないというのが都市における真理だというのに、狂ったように警笛を鳴らしまくるありとあらゆる運転手に向けて――その昔コンスタンティノープルという街を手にし、その間違いのために行き詰まりを見せたオスマン帝国に向けて――そして、そう、雨に向けて・・・このサイテーな夏の雨に向けて――次から次へと小さな声で悪態をつきながら。  雨はここでは苦行だった。世の中の別の部分で見れば、土砂降りというのはほとんどの人・物にとって間違いなく恵みとしてやってくるものだろう――穀物にとって良い、その地の動植物にとって良い、そしてロマン主義的な・余計なオマケを付けておくならば、恋人たちにとっても良いのである。もっとも、イスタンブールでは別だ。私たちにとって雨とは、必ずしも濡れてしまうということではない。汚れるということですらない。強いて言え...

坂本龍一『B-2 Unit』(1980)

無性に坂本龍一の『B-2 Unit』がききたくなった。 べつにインタビューを読んだりとかしてないので根拠はないし、これはただの想像にすぎないんだけど、坂本龍一はこのアルバムを制作にするにあたって「いかにしてポップスのクリシェをじぶんの語法のなかに引き込むか」ということを考えてたんじゃないかな。 1980年までに坂本龍一は(主にYMOで)一躍人気ミュージシャンになった。マスメディアと関わること……大衆に音楽を提供すること……と西洋近代の「芸術家」的なあり方との狭間でどうバランスを取っていくのかということはじぶんの人生の方向性を決定づける大きな問題だったとおもう。言い換えるなら、音楽で「食ってく」ことと「自分らしさ」をどう両立するか、ということだ。仕事をしないと体が保たないが、じぶんの表現をしないと精神が保たない。 とはいっても、このアルバムをきいていて彼が大衆的な音楽を軽視してたとはおもえなくて、むしろ楽しんで制作していたようにおもう。じぶんが仕事で扱っている音楽と、表現としての音楽(彼が大学で学んだであろうアカデミックな音楽語法)とをどう結びつけるのか。どうすれば結びつくのか。そういう接点を探しているようにもきこえる。そういう思考(試行)の痕跡が音として形式化した音楽。ぼくはそういうものに憧れる。だから、こういう想像をするのはたぶん、じぶんの願望をこのアルバムに投影してるからなのかもしれない。 あとこれは余談なのだけど、「これ、全部アナログで音つくってひとつひとつ録って重ねてるんだなー」と、その途方もない作業量を想像して目眩がする。現代のDAWとソフトシンセに甘やかされてるじぶんにはとうてい耐えられそうにない。そういう観点も忘れちゃいけない。