AUTONOMY
音楽において強く主張されている自律性というのはしばしば、意味(meaning)に対するアンチテーゼとして構築される。音楽が自律的な存在として機能するという信念は、形式主義を通じて影響力を持っており、分析という行為を通じて実際的な形を与えられている。音楽を自律的なものとして理解するのは、それをバラバラな、自給自足的な構造として把握するということである。ドイツの哲学者イマヌエル・カントの著作、とりわけ1790年における彼の『判断力批判』(ル・ハレイ&デイ 1981, 214-29; カント 1987)は、美学において自律性について考察する際、しっかりとした参照点となる。『判断力批判』においてカントは、無関心というアイデアを提示する。それが意味するのは、美的な反応は「何ものにもとらわれない(free)」のであり、他のものと――もっと一般的に言えば反応や欲求と、区別されているということである。カントはまた、芸術作品の目的は目的を持たないということなのだといった見方も取り上げている。言い換えれば、芸術作品とは、それ自体が目的なのである。
自律性というコンセプトが音楽との連関で最もダイレクトに使われたのは、18世紀、純粋な器楽曲の台頭のおかげで音楽と言語が分離した(つまりは自律性)のを記述するためだった。それは書かれた言葉と社会的な機能といった束縛、たとえば礼拝的・儀式的な文脈のようなもののどちらからも音楽が見事に解放されて以降のことである。言葉と言語の分離はドイツの哲学者G.W.F.ヘーゲルへと続いていくこととなった。19世紀初め頃に行われた彼の美学についてのレクチャーでは「自己充足的な音楽」と言い表されている。
伴奏のための音楽は音楽の外部にある何かを表そうとしています。それが表そうとしているのは、音楽ではなく、それ以外の芸術、たとえば詩のようなものに属す何かと関係しています。さて、もし音楽が純粋に音楽的であろうとするならば、この外的要素は避けられ、根こそぎ排除されねばなりません。唯一それによってのみ、言葉の正確さという束縛から完全に解放されるのです。
(ル・ハレイ&デイ 1981, 351)
カントにおける目的(機能)の不在は19世紀において主張された「芸術のための芸術」に反響し、ロマン主義が自身の持つ表現形式へと夢中になることへと反映されたのだった。しかしながら、それは音楽と言葉との関係における重要性を無視している。シューベルトやシューマンなどの歌曲の循環に象徴されるように、そして、ワーグナーの楽劇におけるように。音楽の自律性というモデルが最も明確に強調されたのは、ウィーンの音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックの『音楽美論(Vom Musickalisch-Schönen)』によってであった。初版は1854年。ハンスリックよれば:
ここでもしこの音の素材という手段によって何を表現すべきなのかと訊かれましたら、答えは、音楽的なアイデアを、となるでしょう。しかし、完璧なまでに現象化された音楽的なアイデアはすでに自己内在的な美なのです。つまりそれは、それ自体が目的であって、決して主に感情や思想を表すための手段でも材料でもないのです。音楽の内容とは響きつつ動く形式のことなのです。
(ハンスリック 1986, 28-9)
この説明においては、音楽とはそれ自体、つまりその美・内的な現象についてのことであり、それ自体を超える何かを表現したり表象したりするために存在するわけではない。実質的な音楽の中身とはその細部であり、テーマであり、形式なのである。つまりそれが時間の中を進み、それ自体が目的である作品の結果となるというわけだ。ハンスリックにとって、同時代における音楽の頂点に来たのは器楽曲だった――オーケストラにも室内楽にも、ブラームスのものであれば。こうした音楽はハンスリックによって、ワーグナーが〈音楽外〉的な次元を通じて意味に没頭したことに対する、自律性をもった代替物として提示されたのだった。
自律的な音楽についてのこうした見方は特定の形式主義に反映される。つまりハンスリック自身の生きた時代とそれ以降のどちらにおいても批判的な精密な調査の主題となる形式主義に、である。しかしながら、そこにはハンスリックから流れてきた長き遺産があった。多くの近代美学のアイデンティティが音楽の自律的な性質の中にある信念を反映している。この反映はシェーンベルクとストラヴィンスキーの両者の作品において音楽という実体を与えられており、近代の中で音楽の自律性という問題群はドイツの批評論者テオドール・アドルノによって批判的に理論化された。アドルノにとって音楽作品とその文脈との関係は直接的な類似性にまで磨り減らすことのできるものではなく、音楽の中身、その素材は、この世界における反抗心や問題意識といった内的な痕跡を生み出すものなのだ。この自律性のモデルはベートーヴェンの音楽を通じて音楽的な表象に与えられる。
類似性。中産階級的なリバタリアニズム。それはベートーヴェンの音楽すべてに鳴り響いているものです。それは全体性をダイナミックに解放しようする類似性なのであり、自らの法に従って組み上げられるのです。自分自身になるべく、そして、自分の力によって動いているこの世界に似せようと自らのテーマが達している外部を見ることのない全体になるべく、それらを打ち消し、確固たるものにしようとするわけです。つまりそれは、この世界を模倣することによって行われるわけではないということです。
(アドルノ 1976, 209)
この説明によれば、音楽はある美学的な自律性を達成し、音楽の素材となるものはそれ自身を見ている(「外部を見ることなく」)のだが、しかしそれはこの世界との相似性がそれ自身を明らかにするプロセスを通じてであって、「世界を模倣する」いかなるプロセスにもよらないのだ。この音楽の自律性についての説明は――高度に複雑で、洗練されたものなわけだが――音楽のモダニズムという歴史を通じてその痕跡を見出しうると主張することも可能だろう。アドルノにとってその起源は、後期ベートーヴェン作品にあるのだ。それは、音楽作品がそれ自身の持つアイデンティティを確立することのできる自律性について説明しているのだが、しかしまた、そのアイデンティティと文脈との相似性についても説明している。
音楽をどうにかして自律的なものと見なそうとする観点は近年、批判的分析に集中するという事態に陥りやすかったが、新音楽学の多くでは、音楽を文脈や意味との連関において位置づけ直そうとしている。そして、自立性の問題との連関の中にあるいかなる立ち居地の決定をも――それ自身がイデオロギー的な方向性を反映させているがゆえに――やり直そうとしているのだ。
さらに興味のある方は:
Chua 1999
Dahlhaus 1989a
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