紀元2600年奉祝楽曲の演奏会評を調べてたら、なんと大田黒元雄のがあった。
歌舞伎座における紀元二千六百年奉祝楽曲発表演奏会の曲目を飾つた四つの曲の中ではフランスのイベールの「祝典序曲」が最も纏まつた印象を与へた。殊に旋律的な緩やかな部分には荘重な楽しさがあつた。
ハンガリーのヴエレッシユの交響曲は多音的な作品であつたが、三つの楽章の中では打楽器の活躍する律動的な若々しい終楽章が最も効果に飛んでゐた。
イタリアのピツエツテイの交響曲は演奏に四十五分を要する大作で、多くの美しい瞬間を持つてはゐたけれども全曲の四分の三が緩い楽章から成つてゐる為にすこしく退屈であつて同じ人の傑作である提琴奏鳴曲などに比べると遜色のある作品のやう に思はれ、些か期待を裏切られた。
最後にドイツのリヒアルト・シユトラウスの「祝典音楽」に至つては百六十名の演奏者を要求する大規模な作品である。しかし残念なことに内容的にはむしろ空虚なものであつて、あれだけ多数の楽器を駆使しながらも圧倒的な迫力に欠け、一代の巨匠シユトラウスの老いたことを悟るにとゞまつた。
全体を通じて演奏そのものは寄せ集めの管弦楽としては思つたよりも上出来であつた。たゞシユトラウスの作品以外にまで必要以上に多人数の管弦楽を使ったことは少々悪趣味であり、實際上にも音質の不同などのために却て 演奏の効果を損なふ傾きがあつた。(大田黒元雄)
(朝日新聞、昭和15年12月11日付)
面白いと思ったのは今でも比較的、演奏機会のあるイベールが評価されてる点。それからヴェレシュのをほめる一方でピッツェッティを「すこしく退屈」と言うところに、一定の価値観が見出せそう。「緩い楽章」が多いことに「退屈」と言い、「圧倒的な迫力に欠け」ると「空虚」と言うのは、律動的な音楽、迫力のある音楽がもてはやされた時代であったとゆうことなのか。
それにしても、シュトラウスボッコボコ・・・。
歌舞伎座における紀元二千六百年奉祝楽曲発表演奏会の曲目を飾つた四つの曲の中ではフランスのイベールの「祝典序曲」が最も纏まつた印象を与へた。殊に旋律的な緩やかな部分には荘重な楽しさがあつた。
ハンガリーのヴエレッシユの交響曲は多音的な作品であつたが、三つの楽章の中では打楽器の活躍する律動的な若々しい終楽章が最も効果に飛んでゐた。
イタリアのピツエツテイの交響曲は演奏に四十五分を要する大作で、多くの美しい瞬間を持つてはゐたけれども全曲の四分の三が緩い楽章から成つてゐる為にすこしく退屈であつて同じ人の傑作である提琴奏鳴曲などに比べると遜色のある作品のやう に思はれ、些か期待を裏切られた。
最後にドイツのリヒアルト・シユトラウスの「祝典音楽」に至つては百六十名の演奏者を要求する大規模な作品である。しかし残念なことに内容的にはむしろ空虚なものであつて、あれだけ多数の楽器を駆使しながらも圧倒的な迫力に欠け、一代の巨匠シユトラウスの老いたことを悟るにとゞまつた。
全体を通じて演奏そのものは寄せ集めの管弦楽としては思つたよりも上出来であつた。たゞシユトラウスの作品以外にまで必要以上に多人数の管弦楽を使ったことは少々悪趣味であり、實際上にも音質の不同などのために却て 演奏の効果を損なふ傾きがあつた。(大田黒元雄)
(朝日新聞、昭和15年12月11日付)
面白いと思ったのは今でも比較的、演奏機会のあるイベールが評価されてる点。それからヴェレシュのをほめる一方でピッツェッティを「すこしく退屈」と言うところに、一定の価値観が見出せそう。「緩い楽章」が多いことに「退屈」と言い、「圧倒的な迫力に欠け」ると「空虚」と言うのは、律動的な音楽、迫力のある音楽がもてはやされた時代であったとゆうことなのか。
それにしても、シュトラウスボッコボコ・・・。
コメント
コメントを投稿