ダイヤモンドはキラキラしてるから価値があるんじゃない。キラキラしてるものに価値があると思う人間が存在するから、価値があるのだ。
では、なぜ人間はキラキラしてるものに価値があると思うのか? 理由はいろいろあると思う。しかし、ぼくがとりわけ取り上げたいのは、そのキラキラしてるものから「キラキラ以外のもの」を見出す力を人間が本来的に備えているからとゆう理由。
たとえば子どもの頃に見た水面の反映と、石の輝きがダブるなんて瞬間があるかもしれない。もちろん常識的に考えてみれば、水と石は本来くっつくはずがない。しかし、人間の想像の中ではそれが可能になる。この想像力によって、人はあらゆるものに価値を付けてきたとゆうのはなかなか面白い考えだと思う。
そして、この文脈から考えていくと、「美」は究極的にはどうしても個人的にならざるを得ないのではなかろうかと思われてくる。ただ文化や社会などによって「個人的」の程度が似通ってきて、同時代の中ではある程度「美」を共有できるのではないかと。
これは実際的な調査を行ったわけでもなんでもない、単なる憶測でしかない(と同時にある種の願望でもあるのだが)。しかし、少なくともこの考え方に魅了されながら、ぼくは今日も何かを美しいと感じたりするのだと思う。価値とは結局そうゆうものなのではないだろうか。
では、なぜ人間はキラキラしてるものに価値があると思うのか? 理由はいろいろあると思う。しかし、ぼくがとりわけ取り上げたいのは、そのキラキラしてるものから「キラキラ以外のもの」を見出す力を人間が本来的に備えているからとゆう理由。
たとえば子どもの頃に見た水面の反映と、石の輝きがダブるなんて瞬間があるかもしれない。もちろん常識的に考えてみれば、水と石は本来くっつくはずがない。しかし、人間の想像の中ではそれが可能になる。この想像力によって、人はあらゆるものに価値を付けてきたとゆうのはなかなか面白い考えだと思う。
そして、この文脈から考えていくと、「美」は究極的にはどうしても個人的にならざるを得ないのではなかろうかと思われてくる。ただ文化や社会などによって「個人的」の程度が似通ってきて、同時代の中ではある程度「美」を共有できるのではないかと。
これは実際的な調査を行ったわけでもなんでもない、単なる憶測でしかない(と同時にある種の願望でもあるのだが)。しかし、少なくともこの考え方に魅了されながら、ぼくは今日も何かを美しいと感じたりするのだと思う。価値とは結局そうゆうものなのではないだろうか。
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