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【創作】命を乞うことについての考察


先日、観光名所として知られるある洞穴で老婆がひとり死亡した。自動車に乗ったまま、洞穴の中へ飛び込み、壁面に衝突したのだという。人づてに聞いただけなので詳しいことは全く知らないのだが、おそらく即死だっただろう。洞穴の入り口には柵があり、観光客の出入りを制限していた。そこを超えるだけのスピードで突っ込んでいったのだとすれば、壁に激突して助かるわけがあるまい。私はその話を聞いた時そう考えていたし、私にその話をしてくれた親友も――彼も人づてに聞いただけのようだった――私と同じような考えをしているような口ぶりだった。信じられないことって起こるもんなんだよな、まさか洞穴に車に乗ったばあさんが突っ込むなんて。少しばかりの憐みを笑いに含ませながら親友は会話を終わらせた。
私たちはたまたま駅でばったり会っただけだった。お互い目的地へ行く途中に立ち止まって中学校を卒業して以来知らなかったお互いの近況を聞き合っていた。この洞穴に突っ込んだ老婆の話も、その中の他愛のないひとつだったわけだ。そして、親友はきっと私と別れた後、目的の場所で用事を済ませて、帰途について布団に入ってしまえば、翌朝には昨日どこかで誰かと会って何か話した気がするけど何だったっけかな? と思うに違いなかった。この手の話題は、野生のサルが仲間に食べ物のありかを教えるのに似て、単なる音の信号としてしか役に立たない場合が多い。サルはその時々、その場その場に相応しい叫び声を上げるに過ぎず、その一々の音高を記憶しているわけではない。人間だって同じようなものだ。
ただ、世の中には数字を覚えるサルがいるように、その日聞いた話を次の日になっても忘れないでいる人間もいたりする。いやむしろこれはもしかすると動物と人間を分ける重要な特徴なのかもしれない。と言うのも人間には文字というものがあり、紙とペンさえあれば自分の記憶力のなさをごまかすことが出来るからだ。私がこの事件を覚えていたのもその日のうちに忘れず日記に書きつけていたからだった。
曲がりなりにも私は小説を書くことを生業としている人間なので、アイデアに詰まると日記を読み返しながらいろいろなことを考えることにしていた。たとえば日本の習俗に詳しい文化人類学者の書いた本を読んだ日には、雨乞いの話に興味を抱いていたのを思い出した。そこには日記帳に刻みつけるような筆圧で熱心に本の内容が引用してあり、その後に短いコメントが付いていた。

『しかし、ひと口に雨乞いとは言ってもそれは神々を讃えたり祈ったりするような儀式ばかりとは限らない。例えばある地域では古くから、雨が降らなくなると水神が住むとして清浄を保つべき湖沼などに動物の内臓や遺骸を投げ込むことで、つまり水をあえて〈穢す〉ことで水神を怒らせて雨を降らせようとする習慣があった。あるいはまた別の地方では石の地蔵を縛り上げたり水を掛けたりすることで雨を降らせるよう強要するものもあった。こうした一般に〈禁忌〉と呼ばれるような行為を犯してでも得たいと思うほど、雨という恵みは切実なものだったのである。』

――興味深かった。「昔の人」が雨乞いをしたのには神に対する人々の羨望の気持ちがひとつの形式として現れたという側面があるのかもしれない。

これには注釈が必要かもしれない。私がこの時「羨望」という言葉を使ったのにはあるイメージがあった。それは私が仲良くしていた女友達が結婚するという話を聞いた時に覚えたものだった。実直に言って私はその女友達と結婚する男が羨ましかったのだ。彼女は誰もが認める美人だったのだから。私は自分の手に入れることの出来なかったものを手に入れてしまった男に羨望の念を抱き、素直にふたりを祝福することが出来なかった。なぜあんな男なんかが彼女を・・・と思う気持ちが邪魔をしたのだ。大切な友人であるとは思いつつも、私はどこかで彼女を自分の所有物にできると信じていたのに気付いて恥ずかしくなった。結婚式にも出席せず、私はひとり悶々とし、しばらくの間布団に包まりながら静かに泣いたりもした。
私が、「昔の人」(と呼ぶのは「今の人」が滅多なことでは雨乞いをしないから)が神に対する羨望の気持ちから雨乞いをしたのではないかと思ったのはそういう意味からだった。すなわち神は雨を所有しているが、人間は所有していない。そこで人々はなぜ神が雨を持ってるのに・・・という羨望の眼差しを天に向ける。こうして雨乞いが始まったのではないかと、私は自分の経験と結び付けて夢想したのだった。人々は我々にも雨を享受する権利があると要求する。しかし神はそう簡単には応じない。そこで人は植物や動物、あるいは人間を捧げ、その代価として雨を神から受け取った。人の命よりも芸術が素晴らしいと思った人々はダンスや音楽を天に捧げた。いずれにしてもそれは互いの信頼に基づく契約だった。雨にも生命にも芸術にも、絶対的な価値はないからである。
以上のような雨乞いに関する考察をひとしきり終えた後に、私は先の友人から聞いた「交通事故」について書いた所で手を止めたのだった。そこには非常にゆるい結びつきしかなかった。つまり雨乞いにおける生け贄、人の死というイメージが私の頭の中で、老婆の事故死というひとつのエピソードと結びついたわけである。もしこの死が儀式か何かだったとしたら・・・? それはもちろん子どもでさえ考えもしないような荒唐無稽で、我ながら幼稚な思いつきだとは思った。しかし同時にその考えは私の心をぐっと掴んで離さなかった。
往々にして小説を書く人間というのは、これは絶対に面白いものになるぞ、間違いないと予感するとすぐさま鼻息を荒くして思いついたアイデアなり何なりを書き留め始めるものだろう。それが小説の結末に関するものであれば興奮はなおさら大きなもので、私の幼稚な思いつきもそうした小説家的興奮を催させるだけに充分なイメージを提供してくれた。年老いた運転手は自分の死をもって雨を降らそうとした。神に命を捧げた?
いや、この場合は〈穢す〉ことで神を怒らせようとしたのかもしれない。しかし何のために?
私は想像した。もし彼女に可愛い孫がいたとしたら? その孫は雨が好きで、ぽつぽつと地面が濡れてくる度に家の中できゃっきゃと騒ぎ立てた。そんな孫を喜ばせるために? いや、だからと言って自分の命を犠牲にする意味はない。
では逆に孫がまだいなかったとしたら? たとえば娘が不妊症で、なかなか子どもが授からない。そこで雨を降らせることで・・・と考えて私は立ち止まる。どう考えてもおかしいじゃないか。雨が降ったからと言って子どもが生まれるわけじゃない。雨と命に何か関係が? あるわけがない。
・・・いや、あるかもしれない。私はある昔話で、村に子どもの生まれない夫婦が出てくると、その村でいちばん年を取った老人を山に捨てるという話があるのを思い出した。山頂まで登るとそこにはちょっとした湖が広がっていて、そこに手足を縛った老人を沈める。山を下りてからしばらくすると村で大雨が何日か続くのだが、雨が上がった日には夫婦の家の前で、赤ん坊が元気よく泣きわめいているのだった。そしてその子どもがまた大人になって、子がなかなか授からない身だった時には最年長者が山の湖へと捨てに行かれる。
これも老いという〈穢れ〉を湖に沈めることで神を怒らせる〈禁忌〉の雨乞いに分類できるかもしれない。いや、それはもはや雨乞いではなく、命乞いだと言っても差支えないだろう。それから私は雨と命、水と子どもの関係性にだんだんと気付いていった。
死産になった赤ん坊の死体を川に流すという風習は、ちょっと昔まではどこにでも見られた。そこにはきっと「水に流す」という意味も掛けてあっただろう。死を水に流すのだ。と言うよりも何より、人間は子宮の中の羊水で育ち、産まれてくるのだ。命は水から誕生する。草花は雨水を受けて生長する。地球最古の生物は海で生まれたと言われている。
私は水を得た魚のように論理的思考を軽やかに跳躍した。老婆は洞穴という場所を穢すことで雨が降り、娘に可愛い孫ができることを願ったのかもしれない。言い伝えの通り、雨が不妊症の娘に元気の良い赤ん坊を運んでくれると信じていたのかもしれない。
しかし、その日雨は降ってくれたのだろうか。私はいつの間にか閉じていた日記帳をおもむろに開こうとして手を止めた。自分の聞いた話が又聞きに過ぎないと思い出したからだ。たとえ日記の日付の横に「大雨」と記されていたとしても、それは儀式の因果とは全く関係がない。老婆が洞穴に突っ込んだのはそれよりももっと前のはずだから。
と言うかそもそも、その洞穴は観光名所として有名だったのであり、何か霊的な存在や神聖な空気を感じさせる場所ではなかったし、そんな場所を穢して、果たして神が起こるのか甚だ疑わしくなってきた。そもそもこの少子化の進む現代においてわざわざそんな呪術めいたことをしてまで子どもを欲しがるような人間がいるとも思えない。私は自分の妄想癖に毎度ながら呆れ、ふと窓の外に目を向けた。家じゅうの窓を閉め切っていたので、外の音が全く聞こえてなかったのだが、どうやらひどい雨らしかった。窓に近づくと、窓に叩きつけられる雨水の暴力的なリズムが伝わってきた。暴風警報でも出てたかなと一瞬思ったが、こうした天候の変化は気まぐれなものに過ぎないとすぐ思い直した。
しかし気まぐれと言えば、私には人生それ自体も気まぐれの塊だと思われた。そして、どこぞやの文豪がすでに使い古してそうなこのような言い回しをあえて私が使うのは、それが私の経験に基づいた、実感のあるフレーズとしてあるからだ。気まぐれは唐突に、真正面から衝突してくる。
私が中学二年生だった夏、自分の校舎にヘリコプターが墜落し、三階の教室にいた三年生ひとクラス分の命を奪ったのだった。幸いにも私自身はその下の階で、しかもヘリの衝突した現場から最も離れた場所にいたので、すぐに避難訓練と同じ手順で廊下に列が作られ、避難場所へと移動が始まった。
ところがふと私は教室の中に生徒がひとり残されているのに気付いた。その生徒はたいていの授業を居眠りして過ごしていたので、その日も机に突っ伏したままだったのだ。ヘリの衝突音は凄まじいものだったので、まさか起きてないとは担当教諭も思わなかったのだろう。タマと呼ばれていたその女生徒に私は近寄り、声をかけた。何が起きたのか全く分からなかった学校全体が、徐々に自身の置かれた状況に気付き始め、周囲から混乱の声は絶えなかった。それでもタマは全く起きないので、私は肩に手を置いて激しく揺さぶった。
浅い夢から覚めて顔を上げたタマの口から濃厚なよだれが糸を引いていた。普段ならばどうとも思わないようなものがこの緊急事態の中にあってなぜか一種の美しさのように感じられ、私は思わずそれに見惚れてしまった。そして前々から私のことがちょっと気になっていたというタマの方も、周りで悲鳴や怒鳴り声が駆け回る最中に、自分の顔をじっと見つめている相手に並々ならぬ感情の昂ぶりを覚え、ふたりして全く同じタイミングで「「付き合ってよ」」と言い、笑い合った。
彼女は私が生まれて初めて出来た恋人だったから、事故で亡くなった三年生の先輩方には不謹慎なことだと思うし、その事件自体がショックなものではあったが、あの日は、それ以上に記念的な印象を私に与えたのだった。「気まぐれ」という言葉を思う時、私は自分のこうした体験を見過ごすことはできない。
そう言えば私は先ほど「羨望」についての個人的な経験について述べたが、それに対する概念として「嫉妬」があったことを言い忘れていた。気まぐれついでにこれについても話しておこうか。
「羨望」について男女関係のイメージで説明したのだから、「嫉妬」もそれに合わせてみると、たとえば私とタマが交際していた時、彼女が別の男と仲良く話しているのを見る度に、私はその男に「嫉妬」の感情を覚えた。つまり「嫉妬」とは、もうすでに自分の手の中にあるものが誰かに奪われてしまうんじゃないかという不安から生まれるのだ。
こう考えると一般に言われるところの「命乞い」という行為は「嫉妬」という感情に基づいていると捉えられるかもしれない。死の危険が迫った時、とりわけそれが自分以外の他人に左右される可能性が高い時――たとえば拳銃やナイフを突きつけられている時――、人は「命だけは助けてくれ」とこいねがう。それは、しかし、死ぬのが怖いと考えているのではなく、自分の所有物である命が他人に奪われてしまうかもしれないという不安に駆り立てられてのことなのだ。そういう瞬間に立ち会った時、死ぬのは怖いと考える余裕などないだろう。ただただ不安でたまらない。妻が他の男と仲良く喋っているのを見た場合に似て、とても居心地が悪い。それは生理的に嫌なものなのだ。
雨はまだまだ上がりそうになかった。空からはつぶてのように雨が容赦なく降ってきては地面に叩きつけられ、砕けて四方に弾け飛ぶ。しかしそれは無数に繰り返され、家の前の舗道を川のようにしていた。流れは厳しかった。しかし、そうしていても雨脚は一向に弱まりそうになかったので、私はカーテンを閉めようとして、途端にその手をぴたりと止めた。
川のようになった道路の、雨水の流れに乗って向こうから赤ん坊が丸裸で下ってきているのが屋根に激しく叩きつけて跳ね返った雨で霧のようになっている景色の中にうっすらと見えた。私はしばらくその場に固まったまま、目だけでその赤ん坊の姿を追った。赤ん坊は目をつぶったまま、身動き一つせず、雨に打たれっぱなしのまま私の家の前を通り過ぎた。川の流れは次の角で右に折れていた。
私は赤ん坊の姿が見えなくなったのを確認してカーテンを閉めた。頭の中にはいろんな疑問が駆け巡っていた。あの赤ん坊は誰のもとに届けられるのだろうか。誰かが赤ん坊を欲しいと願ったのだろうか。どこで願ったのだろうか。どうやって願ったのだろうか。
ひょっとして、あの老婆の願いが時間差で叶ったのだろうか。もしそうだとして、娘は家の前で泣きわめく子どもを発見して喜ぶだろうか。老婆はそうしたこともきちんと考えていたのだろうか。考えていたとしたら、それは「羨望」からだったのか。老婆は誰のどんな持ち物を羨ましがったのだろうか。命乞いをするほどだったのならば、それは、誰もが羨むようなものなのだろうか。
と、私はそもそも今目撃した光景と親友から聞いた老婆の話をいつの間にか繋げて考えている自分に驚いた。そこには別に何の因果もない。ただ私が最近そういう話を聞きかじり、そしてたった今、大雨の中、自分の家の前を赤ん坊が流れて行った。ただそれだけのことではないか。
力なく首を振り、私はソファに腰を下ろした。が、しばらくもしない内に居ても立ってもいられなくなり、部屋を出、傘も持たずに玄関から雨の降る鈍い鉛色の空の下に体を曝した。頭から足の先までが濡れるまで待つことはなかった。足は川となった道路にしっかりと浸かっていた。小説の続きが次から次へと体の中に染み込んでいくようだった。私は今この場所を汚しているのだろうか。だとすれば、神は一体どんな怒りを自分に与えるのだろう。それとも、これは私が汚されている状況なのだろうか。もしそうなら、自分は誰に怒ればいいのだろう。と言うか、私はなぜ雨の中へと飛び出したのだろう。今更どうでもいいことが浮かんでは消えた。しきりに降る雨を浴びながら、私は私を思い、くすんだ雨雲の向こうに輝く太陽に両手を差し伸べた。ひざまづくことも惜しまずに。

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