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カンディンスキー『形態の問題』を意訳してみた。

時が来ればさ、必然性が熟すわけよ。つまりね、創造の「精神」(抽象の精神と呼んでもいいんだけど)が、人の魂までつながってる通路を見出すってこと。時が立つにつれて、いろんな人の魂に通じる道ってのが見出されて、憧れが引き起こされるわけよ。カッコよく言うと内的衝動、みたいなね。
時がカンペキに成熟するには条件が必要なわけだけど、それが満たされた時にはさ、内的衝動ってのが、(意識しようがしまいが)人の中で働き出してる新しい価値を人間精神の中に仕込んじゃうのよ。新しい価値ってのはさ、創造する力のこと。わかる?
新しい価値が人間の精神に入り込んじゃったその瞬間、意識的にせよ無意識的にせよ、人間ってのはね、自分の中に生き生きとしてる新しい価値にピッタリの造形を見つけようとするんだよ。新しい価値は精神的な形をしてるから、それに合った形を現実世界(物質世界)から見つけなきゃいかんわけ。
要するにさ、精神的な価値を物質化しようとする努力なんだよね。物質ってのは冷蔵庫みたいなもんで、コックが料理するのに「必要なもの(これ大事よ!)」を選ぶみたいに、精神も、物質という冷蔵庫の中から形を選ぶのよ。わかるでしょ。
これぞ、ポジティブかつクリエティブ! イイっしょ? なんつーか、便利な白い光、みたいな?
この白い光のおかげで発展とか上昇ってのがあるわけなんだけど、創造の精神ってシャイなやつだからさ、物質の後ろとかに隠れちゃったりするんだよ。ヒドいやつは物質の中に入ってっちゃう。だから、あんまり分厚く物質の層に覆われちゃってる精神を見透かせない人が多いんだよね。バカだけどね。
いまどき宗教とか芸術の中に精神ちゃんがいるって信じてない人が多いのも、まあ、仕方ないのかもね。ある時代全般にわたって精神が否定されるってことがあるのよ。人に精神ちゃんを見る目がないから。19世紀ってそうゆう時代だったし、今もそんなに変わらない。みんな、目がくらんでるんだよね。
黒い手がね、みんなの目を覆っちゃうわけよ。憎しみをもってるやつの手って黒いの。こいつ、発展・上昇を阻止するためなら手段選ばないんだよね。めんどくさいヤツなんだよ。
これはネガティブでなんでも破壊しちゃう。悪いやつ。黒い手が死を運んでくる。
「発展」ってのは、つまり前とか上に進んでける状態のことなわけだけど、そんなことが出来るのは行く手が阻まれてない時ですよ。つまり、邪魔になるような制限が全然ない時はじめて発展は可能なんですよ。これを、発展に必要な「外的条件」と言う。テスト出すぞー。
さて、おれたち人間の中には何か精神的なものがある。これを進歩させたり上昇させたりするパワーのことをとりあえず抽象の精神って呼んどく。この精神は勝手に響きを発してるんだけど、響きってのが受け取られなきゃならんのよ。ケータイの電波も受け取るやつがいなきゃ意味ないっしょ?
抽象的な精神はケータイの電波みたいに響きを発してるんだけど、その響きを聞いてくれる人がないと全然ダメ。これが、発展のために必要な「内的条件」。わかるよな。
けど、発展のために必要な「外的条件」と「内的条件」ってのをぶっ壊すやつがいるんだよな。そう、黒い手ですよ。
人間って実は目の前に何も邪魔者がないと不安になるんだよね。自由がこわいんだよ(いわゆる俗物根性ってやつだな)。あと、精神を感知するセンスが鈍ってきたりもする(唯物論にかぶれるバカ)。こうゆうのが、黒い手の道具一式ですよ。
だからさ、新しい価値ってのは面白いぐらいみんなに敵視されちゃうの。右手に嘲笑、左手に誹謗を携えて、やっつけようとするんだよ。価値を作り出す人間はおバカで破廉恥なやつと思われる。新しい価値はイジメの対象になるわけ。ビックリだよな。
けど人生が楽しいのは、新しい価値がどうやっても勝利しちゃうとこだよね。
こうゆう勝利はじわじわっと来るんだよ。新しい価値ってのは、徐々にみんなのハートをキャッチしてくもんだから。けど、これが多くの人の目に受け入れられちゃうと、どうしても必要で出てきたはずなのに、今度は次に来る価値を待ち構える側になるのよね。不思議。
新しい価値(自由から生まれたスイーツ(笑))を石(自由の邪魔をするやつ)に変えちゃうのは黒い手の仕業なんだよね。
だから、「発展」ってのは、内的な発展にしても外的な文化にしても、別になんだっていいんだけど、とにかくリミッターを先へ先へとずらしてくことなんだよね。
リミッターはいつだって古いリミッターをぶっ壊して新しい価値でもって作り出されるの。だから根本的に言うと、いちばん大事なのは新しい価値じゃないんだよ。そうじゃなくて、新しい価値の形を冷蔵庫から取ってきてサッと目の前に現れてくる精神がいちばん大事なわけ。それと、自由ね。これも大事。
もう分かると思うけど、絶対的な形態ってないんだよね。それは唯物論に過ぎないわけ。当たり前じゃん?
形態ってのは時とともに移り変わるんだよ。つまり相対的ってわけ。だって、さっきも言ったけど物体ってのは、精神が身にまとって現れたり響いたりするための道具に過ぎないんだもん。だから、響きってのは形態の魂ってことなんだよ。形態は響きに息を吹き込まれて初めてアピールし始めるの。
ここまでをまとめると、つまり「形態とは、内なる内容の外的表現に他ならぬ」ってことだよ。え、カッコつけすぎ?
形態を神様扱いとかしちゃダメなんだよ。自分の中の響きを表現できてるんなら、それでいいじゃん。形態自体を追求してもムダムダ。ひとつの形態にだけ甘える必要だってない。このことはちゃんと理解してほしいんですよ。
芸術家(ってのはクリエイティブなやつのことで「パクリ野郎」とは違うよ)だったら、誰だって自分の表現手段(つまり自分の使ってる形態)がいちばん!になっちゃうのよ。だって、それがいちばん自分の伝えなきゃならんもんをうまく具現化したもんなんだから。当たり前っしょ。
けど、だからと言って、自分の表現手段(形態)が他のやつらから見てもナンバーワンだ!とかそうじゃなきゃやだ!とか思うのはアホだよ。形態は内容を表現するための手段に過ぎないんだからさ。
けど、内容ってのは芸術家によって異なるんだよ。だから、同じ時代にいろんな形態が存在しても、それはアリなの。形態は必要に応じて生まれてくるんだから。たとえば深海魚に目がないし、象の鼻は長いし、カメレオンは色を変えられるのよ。そうゆうことなの。
こうやって、形態にはさ、銘々の芸術家の精神が反映されるわけよ。形態には「個性(これ重要ね)」ってスタンプがポンと押される。カッコよく言うと刻印が押されるってわけですよ。
けど、個性があれば時間とか空間の制約が超えれるなんて、そんなことじゃないのよ。むしろ、個性って、ある程度は時間(時代)とか空間(民族)に支配されてる。
芸術家はみんな、ひとりひとり自分を伝えなきゃならん、みたいなこと言ったと思うんだけど、それと同じで、どんな民族も、自分ってのを伝えなきゃならないんだよね。こうゆう関係が形態に反映してると、この作品には「民族性」があるなんて呼ばれたりするんだよね。
ここまで「個性」と「民族性」について言ってきたから、最後に三番目、「様式」について。
どの時代にもね、それぞれ固有の宿題ってのがあるんですよ。まあ逆に言えばその時代によってやらなきゃならん宿題ってのは変わるわけよね。ある作品にその時代特有のものが感じられる(時代性がある)と、その作品には「様式」があるってことなんだよね。たぶん。どんな場合であっても、「作品」と呼びうるものには3つの要素がある。それは何かってゆうと、「個性」「民族性」「時代性(様式)」の3つ。
けど、このスリーエレメントをなんとか表現せねば・・・!って頑張るのは余計なことで、むしろ有害ですらある。そうゆうムリなことしてもせいぜい人を騙したり一時的にごまかすことくらいしかできないんだよ。
けど、だからと言って「個性」「民族性」「時代性」の3つのうちひとつだけを取り出して主張しても結局、意味ないんだよね。たとえば、最近ではいろんな人が民族性だけを強調した作品を作ったり、自分だけの様式みたいなのにこだわってたりしてるけど、そうゆうのってむしろ害にしかならないわけよ。
あと、ちょっと前までは個性とか個人がすんごい素晴らしいものみたいに思われてたんだけど、これも意味ないし自分のためにも良くないね。マジで「かけがえのない自分(笑)」って感じだよ。
最初に言ったことだけど、抽象的な精神(クリエイティブな精神)ってのはまず、おれたち人間の精神をひとつずつ捕まえてきながら、時間をかけてじわじわっと大衆を支配してくんだよ。そん時、芸術家だって、みんなその時代の精神ってのに従ってるのよね。
時代の精神がおそろしいのは何かと言うと、自分が生んだ多くの形態(だから当然血縁関係があって外見がよく似てるわけ)を芸術家に押し付けてくるんだよね。これを芸術史的には「運動」と呼ぶみたいだけど、「運動」それ自体は別に全然悪くなくって、芸術家グループにはむしろ必要なものなんだよ。
けど、そのグループ固有の形態にあんまり期待しすぎないでね。それはひとりの芸術家が持ってるひとつの形態に期待を寄せない方がいいのと同じなんだよ。つまり、どの集団にとっても自分とこの形態がナンバーワンなわけ。その集団が伝えなきゃならんものをいちばん良く具体化できてるからね。
で、もちろんどこかのグループにとって素晴らしく良い形態が、他のグループでも通用する!とか、通用すべきじゃ!とか、そんな風に考えるのはよくないわけ。形態自体は万能じゃないし、大事なのはやっぱり自由ってことなんだよ。
自由ってのはつまりどうゆうことかと言うと、どんな形態だって認めたげなきゃならんし、適切なものだ(芸術的だ)って考えるべきなんだよ。相手の立場が尊重できないってことはつまり自由の精神(白い光)がないってことだし、むしろ石になった邪魔者(黒い手)のお手伝いしかできないってことだよ。
あ、こうしてみると、さっき言ってたことと同じ結論に辿りつくね。つまりね、いちばん大事なのは形態(物質)じゃなくて、内容(精神)なんだよやっぱり。
形態ってのはさ、快を与える場合もあるし不快を与える場合だってあるし、そういう印象の中にも、美/不美、調和/不調和、みごと/ぶざま、繊細/粗野、えとせとら。快と不快にだっていろいろあるってわけよ。
けど、それが「イイ感じ」とか「チョベリバ」とか言って受け入れられたり、受け入れられなかったりしたらダメなわけ。今言ったみたいな概念は全部、あくまでも相対的なものに過ぎないんだよ。すでにあった形態が新しいものに取って変えられてくなんてずっと前からやられてることじゃん。
だから、形態を評価したり解釈したりするのは別にいいんだけど、それは「形態はあくまでも相対的」ってことを念頭に置いてやってほしいの。この心構えをもって、形態が魂に訴えかけるような作品を創作しなきゃダメなの。
あ、「形態が魂に訴えかける」ってゆうのはつまり形態を通じて内容(精神、内なる響き)が伝わってくるってことね。そうじゃないと相対的だったものは絶対的なものになっちゃう。
現実世界で考えてみると、ベルリンに行こうとしてるのにレーゲンスブルクで電車を降りるバカはいないかもしんないけど、精神世界では、レーゲンスブルクで下車することも充分あり得るんだよね。ヘタすると運転手さんまで、乗客と一緒にレーゲンスブルクで下車する。
まったく、神さまを求めてるくせに、その彫刻を見るだけで満足してる人ってどんだけ多いんだよな!芸術を求めるくせに、ジョットとかラファエロとかデューラーとかゴッホみたいな芸術家が「自分のために(←これ大事!)」使った形態をパクっちゃうやつって、どんだけいるんだろうな!
まあ、だから大事なのはさ、形態が個性的だとかないとか、民族的だとかないとか、様式的に豊かだとか貧しいとか、その時代の空気を読んでるとか読んでないとか、他に類似した形態がどんだけあるとかないとか、孤立してるとかしてないとか、そんなことじゃないわけよ。
形態の問題でいちばん大事なのは、形態が内的必然性から生まれたものかどうか、ってこと。つまりさ、形態はユニフォームにしちゃいけないの。芸術作品は兵隊の着る制服とはぜんぜん違うのよ。
だからさ、ひとりの芸術家にとって、同じ形態が、ある時はナンバーワンだったのにある時はサイアクだったりすることもあり得るわけ。ナンバーワンだった時は形態が内的必然性とゆう畑で育てられたわけだけど、外的必然性(功名心とか所有欲)の畑に育つと、サイアクなものになっちゃうのよね。



Über die Formfrage
http://www.geocities.jp/mickindex/kandinsky/knd_UFormfrage_gm.html

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