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〈引き延ばされた音響〉、〈緩やかに移りゆくプロセス〉、そして〈ほとんど何もない〉


※このエントリは2010年11月12日(金)のゼミでぼくが発表した原稿『〈引き延ばされた音響〉、〈緩やかに移りゆくプロセス〉、そして〈ほとんど何もない〉』に大幅な加筆・修正を加えたものです。議論を分かりやすくするためにあまり正確とは言えない表記が見られるかと思いますが、ご了承願います。



どうもこんにちは。にらたです。にらた教授ではない、ただのにらたです。

 ぼくは現在、大学の学部生でして、「現代音楽における美的聴取の可能性」という論題の研究を進めてる(つもりな)んですが、具体的にはリュック・フェラーリという作曲家を一例に、この現代において美的な聴取(純粋に「あ、いいな」って感じる音楽体験は可能なのかということを考えています。
 もちろんこの問題自体にいろいろな議論があるかとは思うのですが、今はまだ、ぼくも勉強中でして、しっかりとした意見が述べられるような段階には至っておりません。ただリュック・フェラーリの音楽に触れた時に、直感的に、「ここには何かがある」と思い、その言説や音楽上の立ち位置についての確認をしている最中です。正直言ってぼく自身、先がまったく見えてません。


 そういう風に不安を抱いてはいるものの、「研究発表」という名のもとに繰り広げられるゼミでの羞恥プレイはどこの大学にもありまして、今まさにぼくもその被害を受けてるところなんですね。うちのゼミの場合は、何週間かに一度、30分程度の発表原稿を作成し、同じゼミのメンバーの前で発表をするという流れになってます。今学期になってぼくはすでに1回発表を終えました。つまり今回が2回目の発表ということになります。
 前回の発表は、リュック・フェラーリの《ほとんど何もない Presque Rien 》という作品を、解説を交えながら聴き、この曲が、サウンドスケープ的に捉えうるか否かということを簡単にではあるのですが考察しました。(「サウンドスケープ的」というのはつまり、都市における騒音の問題について声高に叫び、田舎でしか聞けないような、小鳥のさえずりとか川のせせらぎのような〈環境音 Soundscape 〉を愛でるような態度という意味だと思っていただければいいかと思います。)
 そしてその結果、《ほとんど何もない》は(当然ながら)、田舎のサウンドスケープをありのままに提供しようとしたというよりもむしろ、何時間も録音された音の中から選び出された特定の音だけで音楽的に構成されていたんですね。こうした、限られた音の中から豊かな響きを作り出したり効果を上げようとしたりする点で言えば、リュック・フェラーリはミニマリスティックな態度を取っているという風に言えるのではないかと思います。実際、彼はいくつかのインタビューで自身がミニマリスト的な立場にあることを認めてます。引用してみましょうか。:
「《ほとんど何もない》では、私はミニマリズムとは無縁ではないと感じますね。タイトルからしてすでにミニマリズムですよ。まあ挑発だったのですが、それが第一だというわけではありません。第一に重要なのは、厳密な作曲上の意志です。たとえそれが隠されていようとも。」(J.コー著『リュック・フェラーリと ほとんど何もない』より)

しかし、注意したいのは彼が〈ミニマリズム〉と言う時には、スティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスのような音楽家を含んでなかったということです。こういった人たちはあくまでも〈反復音楽〉の作曲家たちであって、〈ミニマリズム〉とは違うとフェラーリは言っています。一応、これについての部分も引用しておきましょう。
「私にとって、ミニマリズムとは反復とは何の関わりも持たないものです。ミニマリズムの導入者のラモンテ・ヤングにとって、それは長く引き延ばされた音響という、強力な理念に基づいた概念を展開することだったのです。その音は絶えず、注意の、聴取の、思考の集中を促すものです。一方、反復音楽は、まったく効果的で興味深い機械仕掛けで、ある一定の時間の間、反復される定式を展開するものです。ミニマリズムとの共通点は、作曲が最小限の要素からなされる点でしょう。でも、哲学的・概念的基盤がまったく違っています。」(J.コー著『リュック・フェラーリと ほとんど何もない』より)

ところで先程の引用で、「厳密な作曲上の意志」という言葉がありました。何でしょうねこれ。ぼくはこの言葉に引っかかりました。と言うのも、自分の中では、〈ミニマリズム〉という概念に「厳密な作曲上の意志」があるなんてイメージはなかったからです。逆に、〈反復音楽〉には厳密な意志がないのでしょうか。なんだか違う気がする。今回の発表の出発点はここにありました。


そこでですね、今回はこの〈ミニマル〉という概念をめぐって、ラモンテ・ヤング(La Monte Young, 1935~)とスティーヴ・ライヒ(Steve Reich, 1936~)というふたりの〈ミニマリスト〉を取り上げて、それぞれの作品や言説とフェラーリの言説などとの擦り合わせを試みたいと思います。そして(まあ、先に結論を言っておきますと)、その結果、フェラーリが自ら主張している〈ミニマリズム〉というものがその美学において、どちらかというとヤングに近いもので(つまりライヒとは程遠いもので)あるにもかかわらず、その興味がヤングよりも一層抽象的な方向へ向かっているということ(その意味でライヒに近い)を明らかにします。要するに、フェラーリが使ってる〈ミニマリズム〉って言葉、実はちょっとズレてんじゃない? と、そんなことを主張したいと思ってるわけです。
では、始めましょう。まずはヤングから。



ラ・モンテ・ヤングの関心事は、《Composition 1960 #7》(1960)に直接的な形で見ることができると思います。この作品は「5度の音程を、長時間維持せよ」という指示があるだけの作品なんですが、ヤング本人によれば、ここにおいて「ふたつの和音のコードがドローンのように伸ばされるとあらゆる種類の倍音が空気中に漂い、ゆれるような反響音が明瞭な静溢さの中に付加」されることを発見したとのことです。
 この発見は彼の音楽を精神的あるいは瞑想的なものにしていきました。たとえば《Well-Tuned Piano》(1964)には、かなりゆったりとした長い音楽の周期上に神秘的な音響が延々と響くのを容易に聴き取ることができるでしょう。(まあ現在販売されてるCDでしたら5時間以上もの演奏となっておりますので、時間に余裕のある方だけがお聞きになれば良いかと思います。ぼくは好きですが)


 ヤングは数時間に渡り主題も展開も変奏もコントラストもなく、ひたすら持続される音を聴くうちに、人は「音の内側に入り込む」経験をするのだと言ってます。:
「音が非常に長ければ、音の中に入り込むことは容易となります。(中略)私は音の部分や動きを感じ始めました。そして私は、個々の音がそれ自体世界であり、その世界と私たちの世界は、私たちがそれを私たちの体を通して経験するという点で、つまり私たちの見方で経験するという点で似ていることを理解し始めました。」Lecture 1960 より


 つまり彼によれば、持続音という「ひとつの音」は客観的に聴かれるものではなく、むしろ主観的にその「世界」の中へと没入させてくれるものなのですね。こういった意味で〈引き延ばされた音響〉におけるヤングの関心は、作曲に対する意識よりもむしろ音響的な部分(さらにはその聴取)に向かっていると言うことができるのではないでしょうか。
 しかしそれでは、ライヒの場合はどうなのでしょう。こちらも音響に意識が注がれているのでしょうか。こちらも見ていきましょう。



スティーヴ・ライヒは1968年に、『緩やかに移りゆくプロセスとしての音楽』 Music as a Gradual Process という短い文章を書いています。この中でライヒは、構造の明確さと聴取性の重要さを主張して、〈緩やかに移りゆくプロセス〉そのものが聴取可能な音楽を作ることについて語ってるんですね。具体的にお見せしましょう。:
私は知覚することのできるプロセスに興味がある。私は、鳴り響く音を通してプロセスを聴き取ることを可能にしたい。
その細部を綿密に聴き取ることを容易にするには、「音楽としてのプロセス」は極めて緩やかに移りゆくようなものでなければならない。 

 けど、そもそもなんでライヒは、〈プロセスそのもの〉を聴くことができるような音楽を目指したんでしょうか?(ぼくなんかは別に聴き取れなくても良い感じだったらいんじゃない? と思ってしまいます。)
 このことを理解するには、ライヒの念頭にトータルセリアリズム(総音列主義)や実験主義のような、作曲上のプロセスと実際の音響との間にある空隙を埋めようとする意識があったことを知っておく必要があります。それらはどういう音楽だったのかと言いますと、簡単に言ってしまうと作曲上のプロセスにいろんな意味で凝りに凝りまくるんだけど、結果どんな音になるかには頓着しなかったんです。よく「結果よりもプロセスの方が大事!」なんてことを言う人がいますよね、そういう意味ではトータルセリアリズムなどの方々は、超プロセス偏重主義だったわけです。まあ本当ならばここで、トータルセリアリズムなどの作曲プロセスについて詳しくお話すべきなんでしょうけれども、 非常に大変な作業を伴いますので――そして皆さんもあまり聞きたくなさそうなので――、詳しいことはググッてみて下さい。)


 とにかくここで理解していただきたいのは、ライヒが『緩やかに移りゆくプロセスとしての音楽』の中で語ろうとしてたのが、トータルセリアリズムや実験主義音楽のように、作曲プロセスと実際の音響が密接にリンクしてない、そんな音楽ではなく、むしろ〈プロセスそのもの〉が音楽の全てを決定してしまうような、そういう音楽なんだよってことです。それが分かればOKです。(もし今の説明が分かりにくければ、カノン(輪唱)を思い浮かべてみて下さい。たとえば《かえるのうた》という歌は、メロディさえ決まってしまえば後は「追いかけっこ」というプロセスに従ってさえいれば音楽として成立してしまいます。)


 ライヒの言う〈緩やかに移りゆくプロセス〉としての音楽で代表的なものと言えば、《Piano Phase》(1967)や《Clapping Music》(1972)などがあるかと思います。《Clapping Music》は、その作曲上のプロセスや構造の単純さとは裏腹に意外なリズムパターンを作り出す面白さがありますし、《Piano Phase》にしても20分にも及ぶ演奏時間の間、6つの音を使った12音のワン・フレーズに、絶えず〈緩やかに移りゆくプロセス〉を聴き取ることができます。これはトータルセリアリズムの音響にその隠された音列を聴き取ることが出来ないのと好対照を成していると言えます。



 さて、これまでふたりのミニマリストについて見てきました。最後に、リュック・フェラーリ自身の発言から彼の〈ミニマリズム〉理解について見てみようかと思います。先ほど引用したインタビューの中で、フェラーリは自身の《ほとんど何もない》が〈ミニマリズム〉と関係があると言っていました。
 それに加えて、彼は別のインタビューで〈反復音楽〉が《ほとんど何もない》とは異なっているとも言っています。引用しましょう。
「ここ〔反復音楽〕で問題となっているのは逸話なき抽象的プロセスで、 それが強固で意識的で偶然を排除した概念から出発する働きに付されているのです。私が〔《ほとんど何もない》で〕していたのは全く異なったものでした。なぜなら、私は足跡をかき消して、メカニズムが聞こえないようにしているからです。」(J.コー著『リュック・フェラーリと ほとんど何もない』より)
 彼は自分の「足跡をかき消して、メカニズムが聞こえないようにしている」と言っています。 つまり、《ほとんど何もない》にはいくつかの音と最低限のデータが用意されてるのに(実際にはミニマルな介入があるにもかかわらず)、そのプロセスが聴き取れないように作られてるわけです。ライヒのような〈反復音楽〉の音楽家たちが、作曲プロセスの痕跡がはっきりと見えるように作曲を行っているのに対し、フェラーリは自分で手を加えた痕跡を消そうとしている。だから作曲家の介入が見えない。《ほとんど何もない》というタイトルは、この意味において理解されるべきかもしれません。つまり、この曲には「作曲者の介入」がほとんどないというわけです。フェラーリ本人もこのタイトルを「ミニマリズム」的だと言っています。)



 さて以上のように見てきますと、フェラーリの〈ミニマリズム〉はライヒともヤングともその性格を異にしているということが分かってきたのではないでしょうか。ヤングの興味は(確かに深遠なコンセプトを通じてはいるものの)、実際に演奏される音の中に埋没するところにあったわけで、その意味で言えばヤングは結果主義者という風に言うことができるでしょう。反対に極端なプロセス偏重主義者はトータルセリアリズムの人たち、そしてライヒはプロセスと結果がリンクするような音楽を目指してたという点で、両者の間にいたということになります。
では、リュック・フェラーリは? 自分は〈ミニマリズム〉に近いと言ってはいますが、果たして彼は実際に立ち現れる音響にヤングほどの興味があったのでしょうか?



最初の方に、第一に重要なのは厳密な作曲上の意志」だというフェラーリの言葉を引用しました。これまでの話を踏まえてみると、ぼくにはこの「厳密な作曲上の意志」が、そのまま作曲上のプロセスについてのことを言ってるんじゃないのかと思われてならないんですね。つまり、フェラーリは自分の立場は〈ミニマリズム〉(ヤング的/結果主義者)だと言いながら、プロセスがいちばん重要(ライヒ的/しかもそのプロセスが聞こえないようにしてるという意味では下手するとトータルセリアリズム的な・・・?)と言ってるわけです。
こういうわけで、ぼくはフェラーリの言う〈ミニマリズム〉が、他のどのミニマリストとも違った、独特な立場なんじゃないのかなと考えました。もちろん、ぼくは全く同じ概念のもとに活動を行っている音楽家がいるとは思っていません。同じ主義の中にいてもそれぞれの主張に若干のズレがあって当然だと思います。しかし、それにしてもフェラーリの〈ミニマリズム〉は特殊な感じがしてやまない。それは単純に彼の音楽から聴こえる音響の不可思議さにも、あるいはその哲学的な言説にも原因が求められるような気がします。


 《ほとんど何もない》は特定の音が繰り返される点で反復音楽のように聞こえるかもしれませんが、その反復の移りゆくプロセスは上で見たように知覚されないよう作者によって最小限に隠されていました。この意味でフェラーリは音響的な興味というよりもより抽象的なもの(作曲プロセスのような)へと興味を向けているのではないでしょうか(たとえばそれはトータルセリアリズムのような態度を彷彿とさせます。)
 今後「現代音楽における美的聴取の可能性」という研究を進めるに当たって、この、作曲家それぞれが持つコンセプトと実際の音響との関係については避けて通れない問題なんじゃないかなと思っています。ことフェラーリに関してはその思想的な側面についてあまり注目されないので、今後はこの点を掘り下げていくのが面白そうだなと。
なお、今回の発表に関するご意見・ご感想などがございましたら是非お聞かせ下さい。というかそもそもここまで読んでもらって、本当にありがとうございました。


参照: 
ライヒ・S(近藤譲訳)「緩やかに移りゆくプロセスとしての音楽」、『エピステーメー』第4巻(10号)、朝日出版社、1978 
中川克志「音響生成手段としての聴取 : ラ・モンテ・ヤングのワード・ピースをめぐって」、『美學』、第53巻(2号)、美学会、2002 
松平頼暁『現代音楽のパサージュ 20.5世紀の音楽 増補版』、青土社、1995 
コー・J(椎名亮輔訳)『リュック・フェラーリ ほとんど何もない』、現代思潮新社、2006 
ロベール・P(昼間賢 松井宏訳)『エクスペリメンタル・ミュージック―実験音楽ディスクガイド』、エヌティティ出版、2009 
Schwarz, R., Minimalists (20th Century Composers), Phaidon Press, 1996 
Potter, K., Four Musical Minimalists: La Monte Young, Terry Riley, Steve Reich, Philip Glass (Music in the Twentieth Century), Cambridge University Press, 2002

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