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【翻訳】フランシス・ベーコン《自画像》(1971)

FRANCIS BACON “Self-portrait” , 1971 oil on canvas, Paris, Center Georges Pompidou -  © Artists Rights Society (ARS), New York/VG Bild-Kunst, Bonn 晩年のインタビューの中で、アイルランドの画家フランシス・ベーコンはこんなことを打ち明けた。「ぼくは自分の作品が不穏なものだなんて、一度も考えたことはない」。おそらく彼はそう考えてなかった。しかし、事実として、ベーコンの人物造形―自画像も含め―は、ほとんど冷淡なものをもたらしてきた。最大限の解釈では、ベーコンのスタイルはこれまでの絵画の規範すべてを拒否している、美に関するものだけではなく。それはまた、彼の時代に支配的だった抽象表現主義に反対してのことだった。彼はピカソを認めて、「ピカソは形態的な絵画を生んだ第一人者だ。それは外観についてのルールをひっくり返してしまった。彼はお決まりの記号を使わずに、つまり形態の、見た目上の真実に対して敬意を表さずに、そうじゃなくて、不合理なものが持つ生命力を使った外観を示したんだ。見た目をより強く、より直接的なものにするためにね。だからその形は、脳みそを介すことなく、目から腹へと直接届くんだ(…)」〈ゴヤ的な〉何か―〈惨禍〉や〈黒い絵〉といったゴヤの作品から来てる何か―が、ベーコンの自画像にはある、他にも議論を呼ぶ絵画が彼にはたくさんあるのだけれど。たとえば教皇の肖像画とか、友人のジョージ・ダイアーについての形態的な習作であるとか。 Francis Bacon: self-portrait, 1971 http://www.theartwolf.com/self-portraits/bacon-self-portrait.htm

【翻訳】ABSOLUTE【絶対性】

Musicology: The Key Concepts (Routledge)  から。 ABSOLUTE 絶対音楽という概念は19世紀のロマン主義に台頭し、まず初めにヘルダーのような哲学者やE.T.A.ホフマンのような批評家の書物から、うまく言語化されました。しかしながら、逆説的ではありますが、リヒャルト・ヴァーグナーの書物においてそれは、音楽的・哲学的な表象に付与されたものでした。彼はこの用語を鋳造したわけです(ダールハウス 1989年a, 18)。それは純粋にそれ自体を超えた何ものも参照せずに存在しているように思われる器楽曲に関係し、しばしば標題音楽の、あるいは叙述的な内容をもつ音楽の、対立項として見られていたのである。それはしたがってウィーンの批評家エドゥアルト・ハンスリック論争において特徴的である。彼はワーグナー作品の音楽外的な側面に攻撃をしかけ、そして、純粋で絶対な音楽の理解を通じて、美的な自律性と音楽形式主義という主張を導き出したのだ。 E.T.A.ホフマンのベートーヴェンに関する書物は器楽曲の重要性を向上させ、それをロマン主義の文脈の中に位置づけた。有名なベートーヴェンの交響曲第5番(1807-8)のレビューにおいて、ホフマンは以下のことを明らかにする: 音楽が独立した芸術として語られる時この用語はもしかすると器楽曲にしか適用できないかもしれない。それはあらゆる助力を、他の芸術のあらゆる混合を、そして与えられた純粋な表現を、それ自体のもつ特定の性質のために軽視しているのだ。それは全ての芸術の中で最もロマン主義的なもの―純粋にロマン主義的な、唯一のものと言えるかもしれない―なのだ。 この「独立した芸術」という示唆は、絶対音楽の暗示によって、器楽曲を向上させ、偉大な作品という規範の形成を通じて、つまり交響曲というコンテクストによってかなり明白に定義されたプロセスを通じて、高い美的価値に帰した。 ワーグナーにとって、絶対音楽は、自身の楽劇という観点から、批判の対象だった、それは最も広範囲な音楽的かつ音楽外的な世界を包含することを求めるものだったのだ。しかしながら、ベートーヴェンの交響曲第9番(1822-4)への参照を通じて、ワーグナーは移行という、あるいは台頭という意味を提示する。第4楽章における器楽的なレチタティーヴォについて...

【翻訳】RECORDING【録音】

なんとなく、Musicology: The Key Concepts (Routledge) の気になった項を訳してみる。 自分の勉強になると思われるから。 RECORDING  録音(recording)というのは、19世紀からずっと音楽と特別な関係を持つようになった考え方である。音を録り、再生するという電子的な手法が生まれたことは、楽譜のない(non-notated)音楽の研究や分析に重大なインパクトをもたらした。それはポピュラー音楽やジャズ(アイゼンバーグ 1988、クック 1998b参照)、民謡、そして非西洋音楽も含んでいる。  録音技術という存在は民族音楽学の成立においてさえも重要な役割を担っていた。すべての音楽を録音することは政治的・社会的・そして文化的な結果だったのだ――近頃では所有権や著作権の問題が生じてきてしまっているが(アタリ 1985、カイル&フェルト 1994、ヘズモントハルフ 2000)。録音という存在は演奏の歴史を研究する(フィリップ 1998)、学者が正当性という考え方を再評価できる(タルスキン 1995、235-61参照)、そういった可能性を生み出したのである――録音の歴史が始まったというだけではないのだ(Chanan 1995)。1940年代、50年代からは、スタジオが作曲のツールとして使われるようになった――それは新しい音楽の形式、ジャンル、そして、たとえばサンプリングのような技術を導き出すものだったのだ(Hebdige 1987、Metzer 2003参照)。特定のタイプの音楽――たとえばセリアリズムのような――は録音され、放送メディアが支え、維持した。それは聴衆の趣味に影響を与えるのに効果的な特色を持っていた(Doctor 1999)。録音は様々な種類の音楽の混合を導き出した。それは1960年代後半のポピュラーミュージックやジャズに前衛的な技法が入り込んでいったことからも確かめられるだろう。ビートルズのように、ライヴ演奏を捨てて、録音という形式を好むミュージシャンたちもいた。しかしながら、録音は多くの問題ある理論上の問題を生じさせた。そのいくつかを以下に概述しよう。  1930年代の終り、ドイツの批評家ヴァルター・ベンヤミンとテオドール・アドルノの間に、画像と音声を再生産するのに使用されるテクノロ...

吉松隆の様式的な洗練?

■ 2010年11月24日、京都市交響楽団の第54回定期演奏会に行ってきた。 【プログラム】 西村朗:桜人~オーケストラのための~ 吉松隆:マリンバ協奏曲《バード・リズミクス》 OP.109(世界初演) マリンバ独奏:三村奈々恵 ブラームス:交響曲第 2 番ニ長調 OP.73 指揮:飯森範親 前半に西村朗と吉松隆の新曲が並び、後半にブラームスとゆうなんだか変な組み合わせ。 演奏を始める前にプレトークで指揮者の飯森範親さんが言ってたことには、今回のプログラムは「花鳥風月」とゆうコンセプトになってるんだそうな。 つまり、  西村朗=花 吉松隆=鳥 ブラームス=風月 とゆうことらしい。 なぜブラームスが「風月」なのかと言うと、この交響曲第 2 番がオーストリア南部の村ペルチャハとゆう大自然の中で書かれたから、だとゆう・・・。 ■ けど個人的にはこのプログラムに、日本における西洋伝統音楽――つまりクラシック音楽のことだけど――のメインストリームとサブカルチャー、そして日本の一般的なクラシック音楽観を、勝手ながらに垣間見てた。 どうゆうことかと言うと、このプログラムは、最新の(?)音楽をガンガン鳴らして始まったのにもかかわらず、最終的にはブラームスが演奏されることで終わったわけで、これをストーリーに仕立ててみると、次のように解釈できないこともないと思うのだ。 すなわち、 「最近の日本の音楽って、こんなのがイケてる(主流)んですよ」 ↓ 「まあもちろん、ぼくらサブカルにも理解あるんですけどね」 ↓ 「・・・けどまあ、やっぱりクラシックがいちばんですよね」 ■ 演奏会そのものは総じて、とても良い内容だったと個人的には思ってる。メインストリーム(現状)、カウンターカルチャー(反体制)、カノン(目標)とゆう3種類の音楽がひとつの演奏会の中で聴けるなんてそんなに多くないことだと思うから。それに、メインディッシュ(と呼んで別に差し支えないだろう)のブラームスがとても良い演奏をしてたから、後味がぜんぜん悪くなかった。これはとても大事なことだと思う。 ただ、吉松隆を聴いてていくつか気付いた点があって、演奏中ずっとその発見にひとりで興奮してたもんだから、とりあえず文章にして、少しばかり気持ちを落ち着けたいのだ。書いてみたら案外大したことないことなのかもしれないけど、とりあえず今のこの高...

〈引き延ばされた音響〉、〈緩やかに移りゆくプロセス〉、そして〈ほとんど何もない〉

※このエントリは2010年11月12日(金)のゼミでぼくが発表した原稿『〈引き延ばされた音響〉、〈緩やかに移りゆくプロセス〉、そして〈ほとんど何もない〉』に大幅な加筆・修正を加えたものです。議論を分かりやすくするためにあまり正確とは言えない表記が見られるかと思いますが、ご了承願います。 ■ どうもこんにちは。にらたです。にらた教授ではない、ただのにらたです。  ぼくは現在、大学の学部生でして、 「現代音楽における美的聴取の可能性」という論題の研究を進めてる (つもりな) んですが 、具体的にはリュック・フェラーリという作曲家を一例に、この現代において美的な聴取 (純粋に「あ、いいな」って感じる音楽体験 ) は可能なのかということを考えています。  もちろんこの問題自体にいろいろな議論があるかとは思うのですが、今はまだ、ぼくも勉強中でして、しっかりとした意見が述べられるような段階には至っておりません。ただリュック・フェラーリの音楽に触れた時に、直感的に、「ここには何かがある」と思い、その言説や音楽上の立ち位置についての確認をしている最中です。正直言ってぼく自身、先がまったく見えてません。 ■  そういう風に不安を抱いてはいるものの、「研究発表」という名のもとに繰り広げられるゼミでの羞恥プレイはどこの大学にもありまして、 今まさに ぼくもその被害を受けてるところなんですね。うちのゼミの場合は、何週間かに一度、30分程度の発表原稿を作成し、同じゼミのメンバーの前で発表をするという流れになってます。今学期になってぼくはすでに1回発表を終えました。つまり今回が2回目の発表ということになります。  前回の発表は、リュック・フェラーリの《ほとんど何もない Presque Rien  》という作品を、解説を交えながら聴き、この曲が、サウンドスケープ的に捉えうるか否かということを簡単にではあるのですが考察しました。 (「サウンドスケープ的」というのはつまり、都市における騒音の問題について声高に叫び、 田舎でしか聞けないような、小鳥のさえずりとか川のせせらぎのような〈環境音 Soundscape   〉を愛でるような態度という意味だと思っていただければいいかと思います。)  そしてその結果、《ほとんど何もない》は (当然ながら) 、田舎のサウンドスケー...

【創作】エーエム・ワールド。

「どうやら近頃イゾンショーという病気が流行ってるらしい」 「へぇ、どんな病気なの?」 「分からん。ただ、聞いた話によると、頭からキノコが生えてくるらしい」 「キノコ? 菌類がよく育つの?」 「おそらくそうゆうことだろうな」 「あ、おじいちゃんの頭に生えてるキノコって、ひょっとしてイゾンショーのせい?」 「おそらくそうゆうことだろうな」 「死ぬの?」 「分からん。ただ、頭からキノコが生えたまんまで死ぬのは困るな」 「そうだね。棺桶に入んないもんね」 「まったくだ。どうせならふつうに死んでふつうの棺桶に入りたい」 「やだよ! おじいちゃん! 死んじゃダメだよ!」 「ふふ、お前はかわいい孫だよ」 「いま死なれたら頭のキノコの分だけ棺桶のサイズを大きくしなきゃいけないから家計が大変になるってお母さんが言ってたよ!」 「お前は家計のことを心配してるのか、えらいなぁ」 「うん、だって家計が大変なことになったらサンタさん(親父)がぼくにクリスマスプレゼントをくれなくなるもん!」 「ほぉ、お前はクリスマスに何がほしいんだい?」 「そりゃ当然ラジオさ!」 「はっはっは、ラジオかい。そんならこの老いぼれたじじいがプレゼントしたげよう」 「え、ホントに !?  おじいちゃん、ホントにラジオくれるの !?  てゆうか持ってるの !?  老いぼれたじじいなのに !? 」 「ああ、もちろんだとも。ほら、そこの引き出しを開けてごらん。入ってるだろう?」 「え~と・・・あ、おじいちゃん、これ?」 「はっはっは、孫よ、それはラジオじゃない、エロ本だよ。この国の男どもはそれによって神の一手に近づくことができるんだ」 「なぁんだ、どおりでイヤらしいと思った。あ、じゃ、おじいちゃん、これだね、これがラジオだね」 「ざーんねん、それはお前のおばあちゃんだよ。それとわしが、さっきのエロ本でやってたようなことをして生まれてきたのがお前のお母さんなんだよ」 「ふぅん、生々しいんだね。あ、じゃあ、おじいちゃん、これがラジオだね、そうでしょ!」 「ふふふふ、かわいい孫よ、違うよ、それはプラズマテレビだよ」 「ええぇ~。絶対これだと思ったのにぃ・・・。おじいちゃん、ホントにラジオ持ってるの?」 「もちろんだとも。ほら、ここに」 「あ、おじいちゃんがずっと手に持ってたのが、ラジオだったんだね! ひどいや! おじいちゃん、...