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7月, 2010の投稿を表示しています

カンディンスキー『形態の問題』を意訳してみた。

時が来ればさ、必然性が熟すわけよ。つまりね、創造の「精神」(抽象の精神と呼んでもいいんだけど)が、人の魂までつながってる通路を見出すってこと。時が立つにつれて、いろんな人の魂に通じる道ってのが見出されて、憧れが引き起こされるわけよ。カッコよく言うと内的衝動、みたいなね。 時がカンペキに成熟するには条件が必要なわけだけど、それが満たされた時にはさ、内的衝動ってのが、(意識しようがしまいが)人の中で働き出してる新しい価値を人間精神の中に仕込んじゃうのよ。新しい価値ってのはさ、創造する力のこと。わかる? 新しい価値が人間の精神に入り込んじゃったその瞬間、意識的にせよ無意識的にせよ、人間ってのはね、自分の中に生き生きとしてる新しい価値にピッタリの造形を見つけようとするんだよ。新しい価値は精神的な形をしてるから、それに合った形を現実世界(物質世界)から見つけなきゃいかんわけ。 要するにさ、精神的な価値を物質化しようとする努力なんだよね。物質ってのは冷蔵庫みたいなもんで、コックが料理するのに「必要なもの(これ大事よ!)」を選ぶみたいに、精神も、物質という冷蔵庫の中から形を選ぶのよ。わかるでしょ。 これぞ、ポジティブかつクリエティブ! イイっしょ? なんつーか、便利な白い光、みたいな? この白い光のおかげで発展とか上昇ってのがあるわけなんだけど、創造の精神ってシャイなやつだからさ、物質の後ろとかに隠れちゃったりするんだよ。ヒドいやつは物質の中に入ってっちゃう。だから、あんまり分厚く物質の層に覆われちゃってる精神を見透かせない人が多いんだよね。バカだけどね。 いまどき宗教とか芸術の中に精神ちゃんがいるって信じてない人が多いのも、まあ、仕方ないのかもね。ある時代全般にわたって精神が否定されるってことがあるのよ。人に精神ちゃんを見る目がないから。 19 世紀ってそうゆう時代だったし、今もそんなに変わらない。みんな、目がくらんでるんだよね。 黒い手がね、みんなの目を覆っちゃうわけよ。憎しみをもってるやつの手って黒いの。こいつ、発展・上昇を阻止するためなら手段選ばないんだよね。めんどくさいヤツなんだよ。 これはネガティブでなんでも破壊しちゃう。悪いやつ。黒い手が死を運んでくる。 「発展」ってのは、つまり前とか上に進んでける状態のことなわけだけど、そんなことが出来るのは行く手が阻まれてない時...

大田黒元雄は思ってたよりも毒舌だった

紀元2600年奉祝楽曲の演奏会評を調べてたら、なんと大田黒元雄のがあった。 歌舞伎座における紀元二千六百年奉祝楽曲発表演奏会の曲目を飾つた四つの曲の中ではフランスのイベールの「祝典序曲」が最も纏まつた印象を与へた。殊に旋律的な緩やかな部分には荘重な楽しさがあつた。 ハンガリーのヴエレッシユの交響曲は多音的な作品であつたが、三つの楽章の中では打楽器の活躍する律動的な若々しい終楽章が最も効果に飛んでゐた。 イタリアのピツエツテイの交響曲は演奏に四十五分を要する大作で、多くの美しい瞬間を持つてはゐたけれども全曲の四分の三が緩い楽章から成つてゐる為にすこしく退屈であつて同じ人の傑作である提琴奏鳴曲などに比べると遜色のある作品のやう に思はれ、些か期待を裏切られた。 最後にドイツのリヒアルト・シユトラウスの「祝典音楽」に至つては百六十名の演奏者を要求する大規模な作品である。しかし残念なことに内容的にはむしろ空虚なものであつて、あれだけ多数の楽器を駆使しながらも圧倒的な迫力に欠け、一代の巨匠シユトラウスの老いたことを悟るにとゞまつた。 全体を通じて演奏そのものは寄せ集めの管弦楽としては思つたよりも上出来であつた。たゞシユトラウスの作品以外にまで必要以上に多人数の管弦楽を使ったことは少々悪趣味であり、實際上にも音質の不同などのために却て 演奏の効果を損なふ傾きがあつた。(大田黒元雄) (朝日新聞、昭和15年12月11日付) 面白いと思ったのは今でも比較的、演奏機会のあるイベールが評価されてる点。それからヴェレシュのをほめる一方でピッツェッティを「すこしく退屈」と言うところに、一定の価値観が見出せそう。「緩い楽章」が多いことに「退屈」と言い、「圧倒的な迫力に欠け」ると「空虚」と言うのは、律動的な音楽、迫力のある音楽がもてはやされた時代であったとゆうことなのか。 それにしても、シュトラウスボッコボコ・・・。

フィンジの伝記から、《花輪をささげよう》Let us Garlands bring に関する部分をちょっとだけ訳してみた。

フィンジは、まるで自分が初めてシェイクスピアを曲にしているかのように、その詩に曲をつける。彼の最も記憶に残る2曲を含む「Garlands bring」には、そのことがよく表れている。「Come away, come away, death」の言葉のために彼が選んだリズムは、文学的な素養を持つ作曲家であれば誰でも考えつくことができるだろう。しかし、ジェラルド・ムーアが「高貴なドロップ」と呼んだ、2つの小さな上昇音の後に「death」という言葉を置くことは、言葉の内なる真実を見出すことだった。この曲は、フィンジの最も確かな不協和音の扱いを見せる。各節の後半の遅れた解決は、悲しげに引きずられるだけでなく、進行的なオープニングとバランスをとっている。そして、歌手の広い跳躍は緊張感を高める。この曲は、最後の「weep」の12音符の大きなメリスマのために、フィンジの作品の中では珍しい。詩を見ると、どのようにしてこの曲が生まれたのかがわかる。1節では、「O, prepare it!」という短い行は韻律的に区切られているが、2節ではその対応する行は「Lay me, O, where /Sad true lover...」と続いており、フィンジも同様にフレーズを続けている。そして、2つの節をバランスさせるために6小節が必要となり、歌の悲しみをすべて1つの長いバッハ的な曲折のあるフレーズに集約している。 フィンジは、「Fear no more the heat o' the sun」を20代に作曲しており、ミルトン・ソネットや「Farewell to Arms」のアリアと同じ頃である。それらすべてに共通しているのは、人生の短さというテーマである。そのような気分の中で、彼は「Golden lads and girls all must, as chimney-sweepers, come to dust」に抵抗することはできなかっただろうか。この詩は曖昧である。それは慰めだろうか?「fear no more」と、太陽の熱、冬の激しさ、中傷、批判を恐れることはないと言っているが、もはや人生が傷つけることができないという安堵感は、「...come to dust」という落胆したリフレインによって否定されている。フィンジは、感情をフォーマルでゆっくりとしたダンス・メジャーに抑え込んだ。...